横井小楠は幕末にあって、福井藩の名君松平春嶽の側近として、藩体制の整備、日本国の在り方につての提言をまとめ、坂本龍馬をはじめ各界に影響を与えた人です。
その中でも、国是三論、国是七条は藩、国の在り方を示したものです。その横井の生涯をたどります。
横井小楠の生涯
文化6年(1809年)8月13日肥後国熊本城下に熊本藩士横井時直の次男として生まれる。
文化13年(1816年)藩校時習館に入校
天保4年(1833年)居寮生となる。
天保7年(1836年)講堂世話役。
天保8年(1837年)時習館居寮長(塾長)になる。
天保10年(1839年)藩命により江戸留学。
天保11年(1840年)帰国命令。70日間逼塞。
天保12年(1841年)研究会を開き、「実学党」となり「学校党」と対立。
天保14年(1843年)私塾を開く。
嘉永2年(1849年)福井藩士・三寺三作が小楠堂に学ぶ。
嘉永5年(1852年)福井藩の求めに応じ「学校問答書」を提出。
嘉永6年(1853年)福井藩の求めに応じ「文武一途の説」を提出。ロシア使節応接係川路聖謨に「夷虜応接大意」を送る。
安政2年(1855年)沼山津に転居し「四時軒」と名付ける。
安政5年(1858年)福井に賓師として待遇される。
安政6年(1859年)再度福井に滞在。
万延元年(1860年)福井に赴く。「国是三論」を著す。
文久元年(1861年)江戸に赴き松平春嶽と対面。
文久2年(1862年)福井藩から4度目の招へい。幕政改革に携わり「国是七条」を起草。熊本藩江戸留守居役の別邸で襲われる。士道忘却として非難される。
文久3年(1863年)知行召し上げ、士席差放
慶応4年(1865年)明治政府の参与となる。
明治2年(1869年)京都寺町通丸太町下ル東側で暗殺される。享年61
横井小楠が国是三論を著し、松平春嶽に提案した事は
安政4年(1857年)横井小楠は福井藩から招へいの依頼を受けます。熊本藩は横井の言動が何かと問題を起こすことから、固辞していたようですが、とうとう福井に行くことを許可します。
その頃は何かと藩の許可がいるようで、行き来も大変ですよね。
その後に著したのが、国是三論と言われています。これに基づいて、福井藩は藩の財政再建を行ったようです。特に富国論の②を活用したといわれています。
富国論:
天地の気運に乗じ世界万国の事情に従い、天下の政治を行う。外国を相手に信義を守って貿易をし、利益をあげれば、主君は仁政を施すことが出来る。
藩政府の財源確保のため、産物を海外に売りさばけばよい。
徳川一家の為の政治を廃し、国内政治や教育を一新し、富国強兵の成果をあげ、侮りを受けないようにする。
強兵論:
航海が開けている今日、日本を守るのは海軍を強くする。日本はイギリスと国勢が似ているので、イギリスに則った海軍力を作る。
幕府が制度一新して国威を示せば、諸国の争いを仲裁も出来る。
士道論:
文武が互いに対立せず、文武の教えを政治で実行していけば、風俗は淳厚質実になる。
結果としてこれは有効に機能したようです。
更に、慶応三年正月小楠は福井藩政府に「国是十二条」を提出しました。
1、天下の治乱に関わらず、一国(一藩)の独立を本となせ。
2、天朝を尊び、幕府を敬え。
3、風俗を正せ。
4、賢才を挙げ、不肖を退けよ。
5、言路を開き、上下の情を通ぜよ。
6、学校をおこせ。
7、士民を慈しめ。
8、信賞必罰。
9、富国。
10、強兵。
11、列藩に親しめ。
12、外国と交われ。
横井小楠が国是七条などを著し、松平春嶽に提案した事は
文久2年(1863年)に起草したといわれていますが、禁門の変の後の参預会議の方針を決めるときに活用されたといいます。
しかしながら、参預会議は徳川慶喜と島津久光の対立から最終的には機能しなかったようです。
松平春嶽もこの方針で臨みますが、幕府と薩摩藩の間に入ってうまくいかなかったようです。
国是七条
1、将軍は上洛して朝廷にこれまでの無礼をわびる。
2、大名の参勤を止めて述職とする。
3、大名の妻を国許に帰す。
4、外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する。
5、大いに言論の道を開いて天下と共に公共の政を行う。
6、海軍をおこし兵威を強くする。
7、相対(自由)貿易をやめて官貿易とする。
内容はいちいち最もなのです。しかし、、最後の自由貿易を辞めて官貿易とするのは反対ではないかと思うでしょう。
その当時はそれだけ統制もルールもなく、列強の思うままにされていたことを反映しているのではないでしょうか。
横井小楠が国是三論、国是七条などを著し、松平春嶽に提案した事はのまとめ
横井小楠は儒学者から発展して、幕末にあって松平春嶽に重用され、日本の国策をいくつも提案した方でした。
その内容はとてもまともで当を得ていましたが、徳川慶喜と薩摩藩の間の軋轢で、最後は日の目を見ることもありませんでした。
松平春嶽も努力したでしょうが、大国のわがままに翻弄されたという具合でしょう。
横井小楠は新政府になってからも、岩倉具視が重要視し、政府の参与に取り立てられることになります。しかしながら、熊本藩はこれに対してなかなか返事をしませんでした。
というのは前年に江戸で襲われたとき、刀に手が届かず、その場を抜け出したことが、士道にもとるということで、士籍をはく奪されてしまったからです。なかなか厳しいですね。
居合わせた二人は切られて絶命したようですので、分が悪いといえば分が悪いのですが。
しかしながら、岩倉の強い要望で翌年参与に取り立てられます。
不幸は突然襲ってきます。
次の年に、京都で籠に載っているところを戸津川藩士に襲われます。まずは、鉄砲で籠を撃ちそれから襲うという手法でした。横井も籠から出て応戦しますが、絶命してしまいます。
コメント