德川時代の最後の女帝・後桜町天皇は第117代の天皇として即位しました。第115代桜町天皇が父親になりますが、第116代の桃園天皇が若くして亡くなったための即位することになります。
その後も、第118代後桃園天皇、第119代光格天皇を補佐して、今の天皇家の礎を築いたとも言われています。
最後の女帝・後桜町天皇の即位のいきさつ
元文5年(1740年)第115代の桜町天皇の第二皇女として生まれます。緋宮(あけのみや)と呼ばれます。母は関白左大臣二条吉忠の娘の二条舎子(いえこ)です。
舎子には皇子がないため、典侍定子が生んだ八穂宮が舎子の実子として迎えられます。
息子の八穂宮が第116代桃園天皇の即位する
延享4年(1747年)桜町天皇が譲位し八穂宮が即位します。これが第116代の桃園天皇となります。本来は、これで安泰のはずなのですが。
寛延3年(1750年)緋宮に内親王宣下があり智子(智子)と名付けられます。そして桜町天皇が崩御してしまいます。
智子内親王は第117代後桜町天皇として即位する
宝暦12年(1762年)安泰だったはずの桃園天皇が僅か22歳で崩御してしまいます。幸い桃園天皇には皇子英仁親王がいましたが、まだ5歳です。
宮中での会議をおこない、英仁親王が将来皇位に就くまでの中継ぎとして、智子内親王が即位することとなります。
第117代の天皇、最後の女帝、後桜町天皇の誕生です。前の女帝である明正天皇以来119年ぶりの女帝です。
20代半ばの即位ですが、その間の宮中行事もつつがなく出席していたようです。
後桜町上皇として第118代後桃園天皇を支えるが
明和7年(1771年)予定通り英仁親王に譲位して太上天皇となります。英仁天皇は第118代の後桃園天皇となります。これでやれやれということで再び安泰というところでしょう。
しかしそうはうまくいきません。
安永8年(1779年)後桃園天皇が崩御してしまいます。父親の桃園天皇と同年齢の22歳だったようです。しかも悪いことに今度は皇子が残っていません。
この系統の家系がなくなるという危機に陥ります。
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皇尊彌榮後桜町天皇 御製
「寄民祝国」
民やすき この日の本の 国の風
なほただしかれ 御代のはつはる【補記】後桃園天皇が22歳の若さで崩御、諒闇があけて、初めての正月を向え、詠まれた御製。 pic.twitter.com/eHmntStSRq
— ✿「風 Ⅳ」✿ (@eSpHpmjgIyhIrDY) September 19, 2020
後桜町上皇として第119代光格天皇を支える
典仁親王の六男である当時9歳の祐宮(さちのみや)に決まります。第119代の光格天皇となります。第113代の東山天皇の時に分かれた閑院宮家に繋がる方です。
後桜町上皇は光格天皇の指導者としてよく面倒をみていたようで、また光格天皇も傍流からの出身ということを良くわきまえ、勉学にいそしんだようです。
後桜町上皇に言わせると、光格天皇を見習って勉学に励むように周りの者に進めるなど良い関係が築かれていきます。
博学多才、歌道の達人とも言われています。朝廷の町議に再興、朝権の回復にも熱心で、長らく幕府の下で押さえられていた朝廷の地位向上に努めたとも言われています。
その下地を作った御桜町上皇は「国母」とも言われています。
天明の大火は当今/光格天皇を聖護院に、仙洞/後桜町上皇を青蓮院に移させた。同院には後桜町上皇が学問所として利用した茶室(復元)もある。また上皇の生母である青綺門院は隣の知恩院に避難しており、二人のために幕府は両寺を結ぶ長〜い廊下を増設したらしい。後光明もそんなことやってたよなァ… pic.twitter.com/pGL0mr2bzC
— 藤原 大翔 (@fjwrhrt) May 4, 2021
光格天皇を諫めて幕府との対立を回避する尊号一件と言われる事件
寛政元年(1789年)光格天皇も19歳になられて、大分周りの様子に気が付くようになったことでしょう。
光格天皇は形式的には後桃園天皇の養子となって即位した経緯があります。実の父の典仁親王に対して、太上天皇の尊号を送ろうとします。
これを幕府に図ったところ、老中松平定信から皇位に就いていない人間に皇号を送ることができないと反対されます。
一方、光格天皇は参議以上の公家と群議を開き尊号を送るように決めます。このままでは朝廷と幕府が対立することになります。
この事態を重く見た前関白で天皇の叔父にあたる鷹司輔平です。幕府との調整で典仁親王の待遇改善を図るほか、の後桜町上皇が光格天皇の説得にあたります。
そして後桜町上皇が「御代長久が第一の孝行。」と諭したといわれています。これにより事件は収束を迎えることになります。
この一件は結果的に幕府の意見に従った形となっているが、その後幕府も朝廷に対してかなり配慮するようになり。両者の関係も尾を引くことなく良好に保たれていました。
典仁親王-光格天皇の家系が現在の天皇の家系に直接結びついています。そして、明治17年(1884年)に典仁親王は慶光天皇の諡号と太上天皇の称号が贈られています。
天明の大飢饉に際して民衆にリンゴを配る
天明7年(1787年)いわゆる天明の大飢饉の時代です。京都では多数の人々が御所千度参りをした事件です。およそ数万人が押し掛けたとされています。
この時後桜町上皇は3万個のリンゴを配ったり、有栖川宮や一条家から茶が、九条家、鷹司家からは握り飯が配られています。
光格天皇も京都所司代を通じて江戸幕府に救済を申し入れます。これは明確な禁中並公家諸法度に違反する事態でしたが、幕府は不問とし、米を1500俵供出したといわれています。
このような行為が朝廷と庶民の信頼関係を作っていき、明治期の尊王思想の形成に結び付いたとも言われています。
仁和寺から贈られた林檎を後桜町上皇が庶民に振る舞った。すごい、仁和寺と天皇家のつながりがしっかりと感じられる逸話だ。
それに江戸時代に多くの民衆に林檎を施した上皇がいたなんて。古代天皇から民衆を思いやっていた気持ちは脈々と受け継がれていたんだね。#天皇のディナー pic.twitter.com/Vfgdv0MDFc
— ヴェ (@verdysoul) January 12, 2020
後桜町天皇とは?最後の女帝即位のいきさつと業績のまとめ
第117代の天皇であり、最後の女帝・後桜町天皇は20代半ばで即位し在位わずか9年でしたが、その後の皇位断絶の危機の中、現代の皇室に通じる光格天皇を補佐してきました。
光格天皇時代も幕府との関係でいくつかの問題はあったものの、総じて良好な関係を築いて来れたと思います。
また、ご本人も歌道の名人として、文筆の名人として、その後を静かに送られたことと思います。文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の称号を贈られています。
徳川の初期、六人目の女帝明正天皇についてはこちら
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