黒船の提督マシュー・ペリーとは?

歴史人物

幕末の日本に突如として現れた黒船。その司令官マシュー・ペリーの名前は、日本人なら誰もが聞いたことがあるでしょう。しかし、その実像についてはあまり知られていません。本記事では、ペリーの人柄、経歴、そして“熊親父”と呼ばれたその素顔に迫ります。2025年現在、ペリーの来航から170年以上が経ちましたが、彼の影響は未だに歴史的な議論の的となっています。

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マシュー・ペリーの生涯とその背景

マシュー・カルブレイス・ペリーは、1794年にアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで誕生しました。父はアメリカ海軍大尉のクリストファー・ペリー。14歳という若さで海軍に入隊し、1812年には兄たちと共に米英戦争に参加しました。兄オリバー・ペリーは五大湖のエリー湖の海戦で大勝し、国民的英雄となりました。

一方のマシューは、戦果には恵まれなかったものの、長年にわたってアメリカ海軍の近代化と制度設計に貢献していきます。1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に任命され、蒸気船技術の発展に尽力。1837年には蒸気フリゲート艦「フルトン号」を建造し、「蒸気船海軍の父」と称されるようになります。

その後、1840年には工廠司令官として士官教育にも尽力。彼の指導のもと、海軍の幹部教育の制度が形づくられ、アメリカ海軍の近代化が一歩進みました。このように、ペリーは軍事技術者・教育者・組織の運営者という三つの顔を持っていたのです。

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開国要求の司令官へ——日本遠征の背景

1852年、アメリカ合衆国大統領フィルモアの命を受け、ペリーは東インド艦隊司令長官に就任。目的は、日本との通商関係樹立でした。当時、アメリカは捕鯨船の太平洋航行の拠点として日本を必要としており、補給港の確保は死活問題でした。アジア市場への進出も視野に入れ、ペリーはこの重要な使命を担うこととなったのです。

彼は任務に先立って、シーボルトの著作などを含む日本関連の文献を徹底的に調査。さらに国防長官に以下のような提言を行いました:

  • 4隻の艦船(うち3隻は蒸気船)を使用すること
  • 蒸気船の実物を日本人に見せて軍事的威圧感を与える
  • 交渉は長崎ではなく、幕府の中枢に近い江戸湾周辺で行う
  • 日本人は恐怖に訴える方が交渉が進みやすい

これらの準備を経て、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーは4隻の軍艦を率いて浦賀に来航。幕府は騒然となり、国内に大きな衝撃を与えました。翌年にはさらに7隻で再訪し、1854年3月31日には日米和親条約を締結するに至ります。

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“熊親父”と呼ばれたペリーの素顔

ペリーの人物像は一言で語るのが難しい人物です。周囲からは「熊親父(Old Bruin)」と呼ばれ、威圧感のある態度と荒々しい声で知られていました。実際に、交渉時には輿に乗って登場し、神格的な存在としての印象を与える演出を行っていたと言われています。

しかしその裏では、用意周到な戦略家の姿も垣間見えます。ペリーは、交渉の場でのすべての演出を計算のうえで行い、実際には冷静で理知的な判断力を持つ人物でした。彼の毅然とした態度は、幕府側に強い印象を与え、交渉の主導権を握ることに成功します。

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科学者としての顔と航海の功績

意外かもしれませんが、ペリーは科学的観測にも熱心な人物でした。日本遠征の際には、琉球から江戸湾に至るまでの航路において、風向・気圧・気温・海流の流向・流速などを詳細に記録。それらのデータはのちに『ペリー艦隊日本遠征記』にまとめられ、太平洋の嵐の研究に役立てられました。

また、彼が率いた黒船艦隊の艦艇の多くは、後に南北戦争に従軍しており、アメリカ海軍史の一頁を飾る存在でもありました。このように、単なる武力による外交ではなく、知識と計画によって道を切り拓いたのがペリーだったのです。

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日米和親条約のその後とアメリカでの評価

日米和親条約の締結により、日本は下田と函館の開港を受け入れ、事実上200年以上続いた鎖国政策に終止符を打ちました。この出来事は、日本の近代化の出発点として歴史に刻まれています。

しかし、アメリカ国内ではペリーの功績はあまり注目されませんでした。というのも、南北戦争という国家の存亡をかけた事態が間近に迫っており、太平洋の遠い地での外交成果には関心が薄かったのです。結果として、ペリーは兄オリバーのような国民的英雄にはなれませんでした。

それでも、後年になって彼の業績は再評価され、アメリカ海軍の補給艦「USNS マシュー・ペリー(T-AKE-9)」にその名が刻まれています。軍事だけでなく教育、技術、外交という多方面にわたる貢献が、ようやく現代において認められるようになったのです。

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まとめ:冷静沈着な戦略家・マシュー・ペリー

マシュー・ペリーは、単なる軍人ではありませんでした。日本の開国を成功に導いた外交官であり、アメリカ海軍の制度設計者であり、さらに観測・研究を怠らない科学者でもありました。日本側からは「脅しに来た悪役」と捉えられがちですが、実際には一貫して合理的かつ戦略的に行動した人物です。

彼の来航がもたらした衝撃は、幕府の体制を揺るがし、明治維新への道筋をつけました。近代日本の原点には、冷静沈着な提督の影が確かにあったのです。

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