第15代将軍徳川慶喜の大政奉還に至る理由と戊辰戦争その後の生涯

歴史人物

第15代将軍徳川慶喜は大政奉還を決めた最後の将軍として有名ですが、大政奉還以外にも戊辰戦争など幕末の激動期に数々の決断をしています。

それらについてとその後の生涯についても説明します。

ドラマ「青天を衝け」で草なぎ剛さんが第15代将軍徳川慶喜を演じていますが、慶喜と主人公渋沢栄一とは明治の代になっても何かと関係することになります。

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第15代将軍徳川慶喜の大政奉還に至る理由と戊辰戦争その後の生涯の概略

1837年水戸藩主徳川斉昭の七男として水戸藩江戸屋敷で生まれます。生後間もなく水戸で9年間教育を受けます。

1847年第12代将軍家慶の意向で御三卿の一橋家を継ぎます。この頃から権現様(家康)の再来として将来を嘱望されていたようです。

1853年第12代将軍が病死すると、将軍の後継を巡って、一橋家の慶喜と紀州の慶福を押す派との問題に巻き込まれます。これが原因で、1859年安政の大獄に巻き込まれ謹慎処分となります。

1862年将軍後見職に就任します。

1867年征夷大将軍に就任して第15代将軍となりますが同年大政奉還をします。

1868年征夷大将軍職を辞職します。

この間、上野寛永寺、水戸弘道館、駿河に転居して引き籠っています。

1897年東京に移り住みます。

1902年(明治35年)公爵となります。貴族院議員に就任します。晴れて公職に復帰します。

1913年(大正2年)76歳で死去します。

まことに波乱万丈の生涯だったですね。幕末の一方の旗頭ですから仕方がありませんね。

 

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第15代将軍徳川慶喜の大政奉還に至る理由

1867年、薩摩藩、長州藩との武力衝突が避けられなくなり、朝廷も密勅を出していることを知った、徳川慶喜は土佐藩からの建白書をもとに、大政奉還を決定します。

そして、二条城に各藩の代表者を集めてそれを周知します。

かくして、260年に及ぶ幕藩体制は崩壊するわけですが、徳川慶喜については彼なりの自負がありました。

所詮、朝廷に政治権力を返しても、薩摩、長州両藩で日本国の諸問題を解決できる能力はないので、いずれ、既存の、旧幕府に対して協力を仰ぐことになると読んでいたのです。

ここらあたりの、読み方はある意味では正しいのですが、すなわち政治をやりたければやってみろと言ったわけで、既存の藩も領地も温存してあるのです。

それを読み込んだ、大久保利通と西郷隆盛は王政復古の大号令を発します。これによって既存の官職が無効になってしまいます。更に辞官納地によって土地についても権利を奪ってしまいます

ということで、一旦はうまくいく策であったのですが、見事にやられてしまいます。

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第15代将軍徳川慶喜の戊辰戦争その後の評価が分かれる点

徳川慶喜は若い時は権現様(家康)の再来ともいわれ頭脳明晰、文武両道に優れていたようです。しかしながら幕末の混乱とその後で疑問となる行動を起こしております。

1.1968年鳥羽伏見の戦いで薩摩軍に初戦で幕府側が敗退した時に、総大将の身でありながら、

しかもまだ幕府側の戦力があるにもかかわらず、将兵を置いて江戸に軍艦で引き返してしまったこと。

このため最終的には幕府軍は総崩れになってしまいます。

2.江戸に戻った後ひたすら恭順の意を表して籠ってしまい。その時点でも、全体的には幕府軍の方が遥かに勢力があるにも関わらず、組織的な行動がとれなかった。

3.維新後は全く表に出ることなく、豊富な資金をもとに趣味の世界に没頭していた。旧幕臣が訪ねてきてもほとんど会わなかったこと。

最初は英明な君主だと評価が高かった慶喜ですが、意外と脆弱ではなかったのかとか。先が見えすぎて数多くの部下を見捨ててしまったとか。

特に徳川体制を崩壊させた張本人の一人ですから、維新後はそれぞれ苦労しているはずなのです。

幕府方の旧家臣をほとんど顧みずに、自分だけはぜいたくな生活をしていたため、身勝手な冷たい印象を与えてしまっているようです。

しかし、近年いくつかの点で再評価される向きもあります。

1.結果として、早々と幕府の崩壊を引き起こしたため、戊辰戦争が大規模な内乱に陥ることがなく、諸外国が介入して、植民地化することを避けることができた。

2.もともと水戸藩の教えとしては尊皇思想が非常に強く、朝廷に弓を引くくらいなら、加わるなという思想が根付いていた。

この思想と幕府のトップとしての立場を解決するにはとっとと敗退したほうが良かった。

3.江戸に帰ってから徹底抗戦をしていたら、それこそ、江戸の町100万人が廃墟となり、国家にとって重大な損失となることになる。

武士階級だけの争いに戦いをとどめることができたことで結果として次の体制の成立が円滑に行われた。

4.旧幕臣との交わりを避けたため新政府の政策に無用な混乱を起こすことなく。維新後起こった不平士族の紛争の種に巻き込まれることもなかった。

結果論ですが、このようなことを見通していたのではないかと評価する向きもあります。はたして、「青天を衝け」はどのような解釈の立場を取るか楽しみですね。

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第15代将軍徳川慶喜の趣味人、才人としての満ち足りた徳川慶喜の私生活

引き籠ってからは、手裏剣、弓道、写真撮影、釣り、自転車、顕微鏡、油絵、手芸(刺繍)などに興じていたようです。まあ、お金も十分あるしなんでもできたんでしょうね。

しかし、それだけの意欲があることが大切です。

手裏剣、弓道

手裏剣の腕はかなりのものだったようで、達人の領域ともいわれています。

弓道も毎日3時間かけて150射していたそうです。晩年は医者から控えるようにと言われています。現代の大学生でも100射ぐらいですからすごいでね。

写真撮影、油絵

写真機自体が高級品ですから、殿様しか手にできないでしょう。でも撮った写真を展覧会に応募したりしていたようです。ただ、選に入るほどの腕前ではなかったようです。

油絵もいくつか残っていますが、とても丁寧に書かれた風景画です。

家族

将軍時代は正室のほかに多くの側室がいたようですが、維新後は側室3人を残したそうです。

そのうちの2人の側室から10男、11女の子供がおり、みんなで仲良く暮らしていたようです。

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第15代将軍徳川慶喜の大政奉還に至る理由と戊辰戦争その後の生涯のまとめ

最後の将軍徳川慶喜の生涯をざっと調べてみました。前半は波乱万丈の人生。立場が立場ですか仕方がありませんが。

その中で、不思議な行動をしておりますが、本当の真意はどうだったんでしょうか。

好意的に見れば、先を見越して、自らと自らの体制を滅ぼした悲劇の人という見方もあるし、単に、朝廷と事を構えるのが嫌だっただけと評する人もいるでしょう。

もしも前者の立場であったら素晴らしい人で日本を救った人ということができるでしょう。

書き残しましたが、同じブログで紹介している水戸天狗党の武田耕雲斎は基本的に慶喜を慕って京都を目指して来たのに、慶喜の命によって処刑されてしまいます。

そういう意味では冷徹な側面も持っています。

後半は、うらやましいような生活です。でも、本当に興味と探求心がなければここまでもできなかったでしょう。我々もお手本にしたい面もあります。

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