野口英世の本名からの転機:改名の背後に潜む驚くべきストーリー

歴史人物

野口英世は幼い頃の火傷で左手が繋がってしまい、それを手術によって直してもらったことから、医学を目指し、艱難辛苦の後、医師となりました。

その後、アメリカに渡り数々の業績を上げますが、黄熱病の研究途上で病にかかり亡くなったということで有名です。偉人伝などで読んだ方も多いでしょう。

野口英世の本名は野口清作ですが、途中で改名したことはあまり知られていません。実は、若い頃、あることから改名することを決意します。その理由と改名がどのように影響したでしょうか。

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野口英世が医師になるまでの凄まじい努力と周囲の支え

野口英世は若い時は「清作」と呼ばれていました。ご承知の通り、左手の火傷で指が繋がっていましたが、16歳の時、周囲の募金で手術を受けて、左手を動かすことができるようになりました。

17歳で手術をしてもらった渡辺鼎の経営する会陽医院に書生として住み込みます。19歳上京し、高橋高等歯科医学院の寄宿舎に泊まり込みます。医術開業試験予備校の済生学舎に通います。

左手の無償再手術をうけて、21歳で医師免許を取得します。22歳で北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に語学の能力を買われて勤めることになります。

実はここに至るまで順調に進んできたように見えますが、信じられないくらいの多くの人がなぜか野口清作にお金を貸したり、また、清作自身がお金の作り方の知恵を授けたりしながら、野口清作の学費を工面しているのです。

そしてその頃、ある小説に出くわします。1898年(明治31年)8月のことです。

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小説「当世書生気質」の影響:野口英世が「清作」から「英世」に変わった理由

それは、坪内逍遥の「当世書生気質」という流行小説でした。1885年~1886年に発行された20回の連続小説です。

この小説は明治初年の書生社会の風俗と気質を写していて、下宿生活、牛肉屋、揚弓店で書生らが遊ぶ様子を描いたもので、この第6回に出てくる登場人物の名前が、「野々口精作」となっており、野口清作と極似しているのが特徴です。

22-23歳くらいの医学生で、放蕩者だが外面の良い偽善者で、自分の放蕩ぶりを隠すのが巧みなため、両親や親戚、学校などからは真面目な学生だと思われている。

50円の借金があるが、彼の通う医学校では比較的ましな方らしい。根は利発者なので医者になればきっとうまくやるに違いない、と思われている。

この本は野口清作が9歳ころの作品ですので、作者の坪内逍遥が野口清作を知っているはずはありません。従って名前も偶然の産物です。しかし、野口清作のそれまでの行動が、あたかも作品にぴったりなのです。しかも野々口精作は医学生ですから、それまでの行動を考えて、わざと書いたとしか思えない内容だったのです。

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野口英世の医師への軌跡と周囲の支え

野口英世は後世、研究の面で立派な成果を上げ、一時はノーベル賞の候補にも何度か挙がるほどでしたが、私生活の面では、やはりどこか欠けたところがある人でした。

だからと言って、業績とか個人的な努力が無になるわけではありませんが。いくつか頼られた人の事例を挙げてみましょう。

高等小学校の時の教頭であった小林栄

野口清作の貧しいながらも抜群の成績に注目し、高等小学校に通えるように学費をまで出しています。また野口が上京してからはその残された家族の世話までしています。

上京するときに、大金40円を貸しますが、僅か2か月で遊興のため使い果たし、野口は東京で下宿から退去しなければならなくなります。

上京するときに頼られた高山高等歯科医学院講師の血脇守之助

下宿を追い出された野口清作を無断で寄宿舎に寝泊まりさせます。そして、清作の差し金で、血脇は院長に月給の交渉をして3円増額のうち2円を野口清作の学費に提供することになります。

更に、血脇を病院の経営にあたるように清作が院長に交渉するよう勧めて、なんと月額15円の援助を引き出すことに成功します。これで晴れて済生学舎に通うことができるようになったのです。

血脇は清作の左手がまだ不自由なため、帝国大学に計らって、左手の無償再手術を行うようにしています。このおかげで医術開業試験の後期試験に合格することができるようになるのです。

更に、清作を高山高等歯科医学院の講師、順天堂医院の助手の職業を斡旋しています。

 

このように表面に出ただけで利用できる人は徹底的に利用して、お金を引き出すことにほとんど痛痒を感じていなかったようです。しかもそのお金はほとんどが遊興費に使われてしまい、返ってこなかったようです。

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野口英世の驚きの改名方法

この小説の登場人物の野々口精作には本当に驚いたことだろうと思います。状況は多少違いますが、考え方から行動までもまさに本人そのものですから。

このため、なんとしても名前を変えたいという思いに取られたことでしょう。そして、前述の恩師小林栄に相談して、世に優れるという意味の「英世」を与えられます。

そして改名の方法ですが、これもいかにも野口らしい人を利用するやり方だと感心します。

野口清作は別の集落に住んでいる清作という名前の人を見付けて、自分の生家のそばの別の野口家に養子に入ってもらいます。これだけでも大変なことですが、よく引き受けてくれたと思います。

これで、近所に野口清作が二人出現することになります。

その後、役所に同一集落に野口清作が二人いて不便なので改名したいと申し出て受理されたそうです。

我々だったら、実質的に野口英世を名のって何年か経って実績を作ってから、改名するのですが、よっぽど嫌だったようですね。

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野口英世の改名の結末と姓名判断で見る運命

野口英世の改名の経緯から、彼の人となりの一端を紹介しました。しかしながら、改名してもその性格はあまり変わらなかったようです。

伝染病研究所でもその蔵書の不正売却の疑いも生じ、研究所を辞めることにもなります。

その後の、北里柴三郎の計らいで就職した横浜港検疫所でも清国のペスト対策で渡航するはずでしたが、その支度金をたちまち使ってしまって、渡航費用を血脇守之助に工面してもらったりしています。

挙句の果ては、婚約者の持参金を渡航費に充ててアメリカに渡航してしまいます。

ちなみに生命判断で見てみると、野口清作は総画33、天画14、人格15、地画19、外画18、一方、野口英世は総画29、天画14、人格11、地画13、外画16です。

改名により地画が19から13に変わったため、初年運はずっとよくなったことでしょう。また人格は15と11ですからどちらも吉数で中年運は良いようです。総画は33から29ですから吉数から凶数となります。こんなことが彼の客死と関係あるかもしれません。

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