徳川昭武(清水徳川家藩主)が渋沢栄一にパリ万博に行くチャンスにどのようにかかわったか。また、プリンストクガワこと昭武のその後の生涯についてご紹介します。
昭武はパリ万博の代表としか紹介されていませんが、その前、その後の処し方を見てみると非常に聡明な方であったと思います。
ただ時代が彼の活躍の場を与えなかったのは残念でしたが、この時代の世相を理解するのに大変参考になる生涯です。
徳川昭武の生涯を簡単に紹介します
嘉永6年(1853年)江戸で生まれる。父は第9代水戸藩主徳川斉昭
禁門の変、天狗党の乱では若年ながら出陣
慶応2年(1867年)清水徳川家を相続する。
慶応3年(1867年)将軍慶喜の名代としてパリ万博に派遣。
慶応4年(1868年)日本に帰国。
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明治2年(1869年)水戸徳川家を相続し藩主となる。水戸藩知事となる。
明治7年(1874年)陸軍少尉に任官。
明治9年(1876年)フィラデルフィア万国博覧会に渡米、フランスに留学。
明治13年(1880年)留学先エコール・モンジュを退学。
明治16年(1883年)家督を譲って隠居。
明治17年(1884年)千葉県松戸市の戸定邸に移る。
明治31年(1898年)水戸徳川家の後見人となる。
明治43年(1910年)死去。享年58歳。
徳川昭武と渋沢栄一を伴いパリ万博使節団として渡欧する
徳川慶喜も弟の昭武を高く評価しており、自分の後を継ぐのは彼だ思っていたようです。このため、わざわざ御三卿の清水家を復活させて、相続させているわけです。
さらに、フランスからパリ万博への招待が来たときに、自分の名代として。昭武を派遣することにしたのです。パリ万博の後は3年から5年ぐらいは留学してくるようにと伝えていたそうです。
いわゆる帝王教育ですよね。
そして、使節団にはその当時の優れた人材をつけて派遣しました。
渋沢栄一も一橋家の経営などに手腕を発揮していましたので、徳川慶喜の覚えもよく、何かと役に立つことから同行が決まったのだと思います。
結果的に、パリ滞在時には使節団の手配、経費のやりくりなどに手腕を発揮するので、昭武からも信頼されていたのではないでしょうか。
使節団は僅か29人ですから、栄一もそれなりに親密に尽くしたことと思います。
この万博には日本からもたくさんの品物が展示されていました。意外と早い段階で意欲ある対応ができるものです。
同じような展示物は中国からもたくさん出品されておりますが、どうやら日本の方が評判が良いようです。
というのは、その作品とか技術の内容が大昔のものと比べて中国のものは変わらないのですが、日本のものはより洗練されていたり、確実に昇華しているとか、斬新な進化を遂げていると評価されていたようです。
この万博は、後に本格的に勃興するヨーロッパでの日本愛好熱「ジャポニスム」の大きな契機となったことでしょう。
一方、昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら使節団の人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになるのです。
栄一にしてもこの期間に学んだ株式会社の仕組みなどは、彼が活躍する原動力となっています。
渋沢栄一のパリ万博での活躍はこちらをご覧ください。
パリ万博ではこの人も大活躍しています。
徳川昭武はパリ万博参加前は僅か12歳にして幕末の動乱に活躍する
僅か1年の間でしたけど、それなりにしっかり働いています。
元治1(1864)年兄昭訓が急死したことにより、御所の守衛に任じられる。
同年7月の禁門の変が起こります。この時に常御殿東階付近を警衛したことから、京都警衛の功を賞されて従五位下民部大輔となる。
同年末天狗党の西上に対し禁裏守衛総督慶喜(お兄さんがあの徳川慶喜です)の命で追討軍先鋒として東近江路を進軍します。総攻撃予定日に武田耕雲斎らが加賀藩に降伏したため帰京。
こうしてみると、若いのにしっかりしているようです。一説によると父親の徳川斉昭(烈公)の教育が厳しかったそうで、それが幸いしたといわれています。
パリ万博から帰国しての徳川昭武(水戸徳川家藩主)の生活
徳川昭武は大政奉還の知らせを聞いても、できることなら兄慶喜の言いつけ通り、パリに残って勉学したかったことと思います。それなりの覚悟できていますから。
しかしながら、周りはそれを許しません。まず送金が途絶えます。幕府がなくなったので仕方がないことかと思います。また、明治政府からは帰国の督促が来ます。
さらには水戸藩主が亡くなったことにより、家督を継ぐため帰国しなければならなくなりました。僅か2年弱の滞在期間でした。
明治政府との関係維持
やはり藩主不在のため、水戸藩は例のごとく激しい内部抗争に包まれます。昭武は帰国した後は新政府に従うことで、沈静化を図っているようです。
もともとが尊王ですからここは慶喜と同様におとなしくしているのが賢明ですよね。おかげで、廃藩置県になっても、そのまま知事として治めていくこととなります。物事を冷静に対処していますね。
新政府に対しても基本的には貢献しております。北海道の開拓にも積極的に参加し、北海道北部の開発を任されることになります。
2度目の海外留学
そんな昭武に2度目の留学のチャンスが出てきます。これも万博がらみです、明治9年(1876年)フィラデルフィア万博に派遣されることとなります。
その後欧州に渡り、今度は本当に留学することになりました。今回は前回のような慌ただしさはありませんし。言葉の面でも余裕ができたはずですので、ゆっくり交流が持てたのではないでしょうか。
さすがに、プリンストクガワではなくなりましたが、前回の印象は残っていますので、各界の人から受け入られたことと思います。
その後も国際交流の先駆けとして、広くお付き合いは続いていていたようです。
徳川昭武(水戸徳川家藩主)の隠居後の生活
明治16年(1883年)僅か30歳で家督を譲って隠居してしまいます。
そして、千葉県松戸市に戸定(とじょう)邸という膨大な屋敷を作って、そこで暮らすようになります。戸定が丘歴史公園になっております。
徳川昭武は明治天皇に仕える公職についていたため、定期的に皇居へ出かけていました。その時は、水戸徳川家本邸を使用し、アウトドアライフを楽しむときには戸定邸を使っていたのです。
松戸にある国の名勝 戸定邸
水戸藩最後の藩主、徳川昭武が作った別邸
ここの日本最古の洋風庭園らしい
写真では映らないけど富士山が見えて綺麗だった
(歴史苦手で語れん) pic.twitter.com/Vxoz8P80WW— 林バヤシ (@awa_sCUB) April 26, 2021
同時に、昭武は狩猟、自転車、魚釣り、焼き物など多彩な趣味の持ち主であったようです。特に、写真撮影は本格的に取り組むようになり、現像も自分でしたようです。
おかげで1500枚以上の写真を残しており、当時の重要な記録となっています。
ここらあたりは、お兄さんの慶喜とよく似ていますが、幸せに暮らしていたようです。
徳川昭武(水戸徳川家藩主)のまとめ
徳川昭武の生涯について紹介してみました。明治以降は大した役職に就くこともなく、国際交流と趣味の生活をしていたようです。
置かれた立場から言えば仕方がなかったかも知れませんが、波乱の少ない人生を歩むことができたようです。個人的には立派な資質があったので、歴史の舞台で活躍してほしかったと思いますが。
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