渋沢栄一の第二の転機になった1867年パリ万博使節団の様子を解説します。「青天を衝け」でも取り上げられるでしょう。
栄一はこの使節団を通じて、会社とか資本とか、官と民の関係を考える機会を得たようです。やがて、資本主義の父と言われる原点になるイベントでした。
それでは、どうして、どのようにパリまで出向いていったか、いったい何を学んで近代資本主義の仕組みを知ったのかを解説していきましょう。
渋沢栄一が1867年のパリ万博使節団に参加。転機はどのように訪れたか。
渋沢栄一が一橋家の家臣となり、一橋家の財政改革に邁進していたことについては、別の記事で紹介しておりますが、やがてさらに変化が訪れてきます。
主君の徳川慶喜が第15代将軍になってしまいます。
一橋家は将軍を出すことができる家系とはいっても、いわば子会社の社長がいきなり、本社の社長になったようなものです。
家臣はいきなり幕臣になってしまいますから、大多数は大喜びしていたことでしょう。しかし、栄一はあまり面白くなかったようです。
今までは、殿様に直接お話もできる立場で、組織の中でも手腕を振るうこともできたのですが、大組織に入ってしまうと、少しは出世しても、お目見え以下というとことで直接ご意見を言うこともできません。
とっても窮屈に感じていたようで、辞めてしまおうかとも思ったようです。
そんな時に出てきたのが、フランスのナポレオン三世からのパリ万博への招待です。
使節団の団長は慶喜の弟の徳川昭武になります、やはり、栄一の一橋家での活躍が評価されて、会計、庶務的なものをこなすために使節団の中に加えられました。
おはようございます😊(ギリギリ午前中💦)
今日は1925年にパリで万博が開かれた日です
パリ万博に合わせて建設されたのがエッフェル塔
世界中から観光客がおしよせた、というのもうなずけます大阪万博は2025年4月13日から
楽しみですね~今日も皆さまご安全に✨ pic.twitter.com/FrQgGm4XC6
— トラベリオ【公式】@トラベル (@travelio_cruise) April 28, 2021
渋沢栄一が1867年のパリ万博使節団に参加。その行程は
1867年2月、一行29名は横浜港から出発してまずは上海まで向かいます。上海では道路の整備、ガス灯などに感心して、香港まで向かいます。
そこで船を乗り換えて、延々紅海に入ってスエズ運河の手前で下船します。そうです、当時、スエズ運河は完成していないので、そこから汽車に乗り換えて、地中海に向かいます。
そしてそこからマルセイユに到着します。それから陸路でパリまで大旅行です。到着したのは4月ですから、およそ2か月ぐらいかかったようです。
それにしても、このパリ万博は正確に言うと3つのグループに分かれています。一つとしては、日本を代表する徳川幕府となんと薩摩と佐賀藩もそれぞれが代表として参加しているのだそうです。それにしても幕府の権威も落ちたもので、この先が思いやられる様子です。
渋沢栄一は本当に柔軟な発想を持っていたようで、パンもコーヒーも平気で食べていたようです。
どうして薩摩がパリ万博に出展するようになったかはこちらをご覧ください。
松戸で今一番熱いスポット、それが戸定邸・戸定歴史館。
徳川慶喜の弟・昭武の屋敷で渋沢栄一との縁も深いのです。スタンプは戸定邸にあります。
絵柄の懐中時計は、昭武のパリ万博土産だそうな。
んーと、それはそれでいいんだけど、やっぱり施設名の入ったスタンプも欲しいかな。 pic.twitter.com/UJolWOdV9o— 梅成弟子丸 (@binarydecimal) April 29, 2021
渋沢栄一が1867年のパリ万博使節団に参加して得たものは
身分制の不合理について
「青天を衝け」でもこれをテーマに描いているような気がしますが、最初に代官から何の疑問も持たずに資金の供出を命ぜられたことに反発していますよね。
フランスに行ったことでこの身分制の違いがやはり不合理だと実感したようです。
例えばフランス滞在中でも会計関係の担当者と軍人とが対等の立場で問題を話し合っていることを新鮮に感じたようです。
日本でしたら、武士と町民ですので対等の話し合いにはならないということです。
また、ベルギーに赴いた時には国王のレオポルト1世が自国の鉄鋼の購買を持ち掛けています。物事の販売などというものに国王がかかわるなどということは考えられないと気がついたようです。
まだ日本ではその傾向があるようですが。
会社の経営と金融の仕組み
滞在中に株式会社の考え方、仕組みについてもかなり学んだようです。
すなわち多くのところから資金を出資して、それに応じた利益を配分するシステムですが、これを理解したことで、明治になっての大活躍が始ますのです。
彼自身も使節団の所持金が少ないので、わずかの滞在中ですが、鉄道の公債などに出資して、かなり資金運用をしています。
スエズ運河についても政府の事業ではなく民間経営ということで、国家と民間の仕組みについても得るところが多かったようです。
すなわち国だからえらいとか民間だから国に従わなければならないという考えは持たなかったようです。
ブー爺【№12 フランス・ベルギー・オランダ9】
⑪-4、単独:「ゴッホ美術館」ジャポニズム
渓斎 英泉の「芸者」→ゴッホに左右対称模写→パリ万博表紙(画商:林忠政が企画)※無料画像 pic.twitter.com/wzjSkwnfYU— ブーさん (@0Hub6tIBhu280hN) April 21, 2021
渋沢栄一が参加した1867年のパリ万博使節団の終焉
当初3、4年ぐらいは滞在する予定でしたが、ついに大変なことが起こってしまいます。すなわち1867年も押し迫った大政奉還です。
一番困るのは、幕府からの資金が途絶えることです。いくら何でも政権がなくなってしまうわけですから、とても3年もやっていけません。その後に帰国命令が来ます。当然でしょう。
渋沢栄一はパリでの生活が予想外の費用が掛かることから、ホテルの変更、お付きの縮小などで節約して、さらに若干の運用をしていたので、何とか帰国することになりました。
日本を出発して2年弱の帰国でした。
渋沢栄一が参加した1867年のパリ万博使節団のまとめ
渋沢栄一にとって第二の転機となったパリ万国博使節団での彼の学んだことをまとめてみました。
このパリ万博は日本にとっても西欧へのデビューとなって大変好評を得たようです。よくある、日本の工芸美術品に興味が集まり、ジャポニズムの先駆けになったともいわれています。
その他にもとても面白い出し物がありました。日本から柳橋の芸者3名を派遣して、目の前でお茶を飲ましたりしていたそうです。
パリまで出かけた芸者さんはどういう人だったんでしょうね。また調べてみたいと思います。
パリ万博の柳橋芸者の話はこちらをご覧ください。
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