大村益次郎の銅像が靖国神社に立てられているのは何故でしょうか

歴史人物

東京で有名な銅像は上野の西郷隆盛の銅像、皇居外苑の楠木正成の銅像と和気清麻呂の銅像です。そして靖国神社に立っているのが大村益次郎です。

でもどうして銅像が立っているのかもわからないでしょうし、そもそもどんな人かも知らないかもしれません。そんなことから解説していきます。

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大村益次郎の銅像が靖国神社に立てられて理由は何でしょうか

大村益次郎は戊辰戦争にあたって官軍全体の作戦の総まとめを行った人です。

戊辰戦争によって有為の若者がたくさん亡くなったのを悼んで、その御霊をまつることを提唱したと言われています。

もっともこの発想は大村益次郎が属していた長州藩にあって長州征伐などで亡くなった若者を祭る招魂社を高杉晋作が発案したのが始まりと言われています。

同様な動きが全国各地でも行われたようです。

大村益次郎はこの動きの全国版を作ろうとしたものです。これが東京招魂社のはじまりです。大村はこの提唱者の一人としてその創建の地を選ぶためにこの地を訪れたという記録が残っています。

1869年(明治2年)6月に東京招魂社は無事に創建されることになります。しかしながら大村はその3か月後に京都にて襲われて亡くなってしまいます。

東京招魂社は1879年(明治12年)に靖国神社となっています。

1882年(明治15年)大村の部下だった山田顕義らにより銅像の建立が発議され、1893年(明治26年)に銅像が完成しました。

ちなみに、招魂社に祭られているのは、すべて官軍側の兵士たちで、幕府側は含まれていません。西南戦争でも同じように薩摩側は含まれていないそうです。

今から考えると少し残念な気がしますが、仕方がないですかね。

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大村益次郎の銅像はどんな出で立ちなのでしょうか

銅像は高さが12mもある像で第1鳥居と第2鳥居の間にあります。筒袖羽織に短袴で左手に双眼鏡をもって東北の方を向いています。上野の彰義隊の戦いの位置をにらんでいると言われています。

台座の文章は三条実美が書いたと言われている顕彰文です。確かに、彰義隊の戦いは大村益次郎の力量が十分に果たされた戦いであり、幕府の軍勢をたったの1日で討ち果たしたと言われています。

その作戦は全くの理詰めで、西郷隆盛をしてここまでやるのかと言わしめたものだそうです。

上野の西郷隆盛の像と目線があっているとかないとか噂がありますが、真偽はわかりません。

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大村益次郎はどんな人だったのでしょうか

大村益次郎は長州征伐の直前に突然世に現れて、明治2年に暗殺されてしまいますから、あまり知名度がないのです。しかし、作戦家としては抜群の力量を誇っていました。

それでは簡単に説明していきましょう。

大村益次郎は武士ではなくて医者家に生まれる

文政8年(1824年)周防国吉敷郡今でいえば山口市の医者村田益孝の長男として生まれています。医学、蘭学を学び豊後国の広瀬淡窓の門下に入り、大阪に出て適塾で学び塾頭までなります。

嘉永3年(1850年)帰郷し村医となっています。この頃は村田良庵と名乗っています。

大村益次郎は宇和島藩から長州藩へ

嘉永6年(1853年)伊予宇和島藩の要請で出仕することになります。その間、長崎でシーボルトの娘楠本イネに蘭学を教えたり、宇和島で洋式軍艦を作ったり、様々な活躍をしています。この頃村田蔵六と改名しています。

安政3年(1856年)藩主宗城に従って江戸に出ます。幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書から兵学講義まで行っています。最後は幕府講武所の教授になります。

この間、桂小五郎と知り合い、長州藩の藩士となります。

いよいよ長州藩士として兵学に本領を発揮し始める

文久3年(1863年)萩に帰国し、手当防御事務用掛、翌年には兵学校教授役、製鉄所建設をしたり、四国艦隊下関砲撃事件の後始末をしています。

高杉晋作の奇兵隊の創設をはじめとして軍制改革に携わります。その後、桂小五郎の推挙によって藩の上士となり大村益次郎と改名します。

そして本領を発揮し始めるのが、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐です。藩内の諸部隊を整理統合して藩の統制下におき、戦術を徹底的に教え込むことになります。

戦闘開始とともに益次郎も実戦の指揮を担当し、浜田城を陥落させ、石見銀山を占拠する活躍を見せます。これによって実戦でも活躍できることを証明したようなものです。

戊辰戦争での活躍

鳥羽・伏見の戦いを受けて、藩主に従い上京し、王政復古により明治政府の軍防事務局判事加勢となります。そして各藩から出された兵を御所警備の御親兵として訓練します。

江戸城明け渡し後、関東の旧幕府軍の動きへの対応として、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸に向かいます。

そして、真骨頂は彰義隊との戦いです。その前に、目黒の火薬庫の処分、奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを決め、江戸市中の治安維持の権限を委譲されます。

その後、5月15日に開戦し僅か1日で鎮圧に成功します。これによって大村益次郎は一躍有名になります。そしてその後の作戦は益次郎主導のまま戊辰戦争は終結することになります。

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戊辰戦争終結後の大村は軍制改革に

大村益次郎は新政府の幹部となり、軍務官副知事として軍制改革に乗り出します。基本的には政府直属の軍隊の創設を目指しますが、藩兵を主体と考える諸藩と激しく対立します。

更に、諸藩の廃止、廃刀令の制定、鎮台の設置、兵学校設置などの後の日本軍の姿を描きますが、それぞれに、対立が起こります。

しかし益次郎の軍制改革は当時の人々からは進みすぎて受け入れられず、辞表を提出しますが、何とか説得されて兵部省大輔に就任しております。そして少しずつ改革を進めていきます。

そしてその道半ばの明治2年(1869年)軍事施設視察のため京都に出張します。

9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われます。一命はとりとめたものの、右ひざの傷から敗血症となり、11月5日に亡くなります

益次郎の軍制構想は山田顕義らによってまとめられ、太政官に提出されています。その後紆余曲折を経たのち、明治6年(1873年)徴兵令が制定されました。

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大村益次郎の銅像が靖国神社に立てられているのは何故でしょうのまとめ

大村益次郎はこのように第二次長州征伐の直前に現れて、戊辰戦争が終わると役目を果たし終えたように歴史の舞台から消えてしまった人です。

しかしながら、その合理的な軍制改革の考え方は、明治の代に引き継がれていきました。

大村益次郎は、非常に理性的で合理的な考え方をする人のようです。しかも、非常にはっきりとした物言いをする人ですから、あちこちから反感を買ったようです。

とくに有名なのは、彰義隊との闘いの軍議で薩摩の海江田信義と対立で、この軍議の中で益次郎は海江田に対して「君は戦を知らぬ。」などと言ったことで、大変なことになってしまったようです。

確かに、大村益次郎は村医の出身ですから、それに言われた薩摩の指揮官は怒るでしょうね。このことが尾を引いて、後日の大村益次郎の暗殺にもつながったとも言われています。

また、戊辰戦争終結後は、東の方の心配はないとして、大阪方面に軍事拠点を精力的に作っています。

合理的な発想としては、当時の日本のほぼ中心という考え方もあるようですが、やはり、頭の中に西国地域での将来の動乱を予想していたとも言われています。

臨終の際の「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ。」と言い残したのが、後日の西南戦争を暗示していたとも言われています。

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