德川慶勝の幕末維新、倒幕に加担した尾張藩藩主と高須四兄弟の関係

歴史人物

幕末の尾張藩第14代藩主徳川慶勝(のぶかつ)は勤王と佐幕の板挟みになりながらも、戊辰戦争にあっては、大規模な内乱になることを阻止して、欧米列強の介入を防いだとの評価されております。

その生涯と尾張藩の抱える状況、更には戊辰戦争時の決断を解説します。

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德川慶勝の幕末維新、倒幕に加担した尾張藩第14代藩主の生涯

文政7年3月15日(1824年4月14日)江戸四谷の高須藩邸に生まれる。徳川斉昭は母方の叔父、斉昭の子徳川慶篤と徳川慶喜は従弟にあたる。
嘉永2年(1849年)14代尾張藩主就任。
藩主就任後の慶勝は、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。
徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城らの感化もあり、対外強硬論を幕府に繰り返し主張して、老中阿部正弘らの不興を買う。
安政5年(1858年)の日米修好通商条約の調印に際しては、慶勝は徳川斉昭・慶篤父子・福井藩主の松平慶永らと共に江戸城へ不時登城し、大老・井伊直弼に抗議。
井伊政権による反対派の弾圧(安政の大獄)により隠居謹慎を命じられる。
弟の茂徳が15代藩主となる。
文久2年(1862年)「悉皆御宥許(しっかいごゆうきょ=ことごとく許される)」の身となる。上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。
文久3年(1863年)実子の元千代(義宜)が16代藩主に就任
慶勝はその後見として復権する。尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制の様相を呈し対立・抗争を繰り広げる。
元治元年(1864年)参預会議への参加を命じられるが辞退。
第一次長州征討 征討軍総督、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征。
慶応2年12月茂徳の一橋家相続が決定。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還。
薩摩藩、土佐藩らとともに王政復古政変に参加、新政府の議定に任ぜられる。
12月9日(1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告決定、通告役となる。
翌慶応4年1月3日(1月27日)鳥羽・伏見の戦い
1月15日、慶勝に藩内の「姦徒誅戮」のため帰国を命ずる朝命が発せられる。
1月20日(2月13日)家老・渡辺新左衛門ら佐幕派家臣の粛清を断行(青松葉事件)。
尾張藩は東海道・中山道沿道の大名・旗本領に派遣し、新政府恭順の証拠として、「勤王証書」を提出させる。
茂徳と協力して容保、定敬の助命嘆願を行った。
閏4月21日(6月11日)に議定を免ぜられる。
明治8年(1875年)義宜の病死を受けて当主を再承。
明治11年(1878年)旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓も指導。
明治13年(1880年)家督を養子の義礼に譲り隠居。
明治16年(1883年)に死去、享年60。

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德川慶勝の幕末維新、倒幕に加担した尾張藩と将軍家との関係

尾張藩では御三家の中で筆頭と言われており、将軍を出すことができるとされているが、実際はどうだったのでしょうか。
第4代藩主徳川吉通は第6代将軍徳川家宣から高く評価されていて、第7代将軍に要請されていたが、突然死することになる。
また第6代藩主徳川継友も第7代将軍徳川家継が重病になったときに、時期将軍有力候補になった。しかし、結果として第8代将軍には紀州の徳川吉宗がなることとなる。

その後は吉宗が御三卿を制定することとなり、尾張藩からの将軍擁立は困難になってしまいました。

また、質素倹約に努める将軍吉宗に対して、インフレ政策ともいえる真逆の政策を進める藩主宗春との政策の違いが表面化し、隠居謹慎に追い込まれる。

逆に、尾張藩ではその後、藩主の夭逝もあり、10代藩主・斉朝、11代藩主・斉温、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧と4代続いて将軍家周辺からの養子が続きました。

何しろその頃の第11代将軍家斉は男子26人、女子27人の子供がいたといいますから、あちらこちらに送り込むのが大変だったようです。
家斉の子供で尾張藩に送られたのは次の通りです。
長女:淑姫(1789年 – 1817年) 尾張徳川家当主・徳川斉朝に嫁ぐ
四男:敬之助(1795年 – 1797年) 尾張徳川家当主徳川宗睦の養子
十二男:斉荘(1810年 – 1845年) 田安徳川家・徳川斉匡の養子、後に尾張徳川家当主・徳川斉温の養子
十九男:斉温(1819年 – 1839年) 尾張徳川家当主・徳川斉朝養子
こんな具合ですから、家臣としても士気が上がらないことでしょう。特に、11代藩主・斉温は在世中に一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなどとありましたので、評判が悪かったようです。
当然尾張藩も家の存続を図るため支藩を設けておりました。高須藩もその一つです。

このため、下級藩士を母体とする金鉄党などが慶勝の藩主継承を渇望しており、慶勝の擁立は12代・13代と取り沙汰されたうまくいかず。やっとのことで実現したのです。
こういうこともあり、親藩筆頭と言われながらも、徳川宗家に関してはあまり良い感情を持っていなかったことが背景にあります。

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德川慶勝の幕末維新、倒幕に加担した理由と高須四兄弟

どうもこの時期の戦い方についても基本的な暗黙の了解があったようにしか思えないのです。

つまり戦国時代のように相手を徹底的に倒してしまうようなことは、わずかな例外を除いては行われていないのです。
一つ一つの戦いの中では、また、テロともいえる活動の中では、かなり残虐なこともしていますが、全体としての国を破壊するという考え方には立っていないのです。

それは、この当時の黒船来航時から10年もたった頃には、かなりの知識人が西洋列強による干渉、植民地化についての恐れを民族の共有基盤に持っていたようです。

そのため、例えば元治元年(1864年)の長州征伐においても長州に攻めるのに思い切り時間をかけて進軍します。当然その間に長州との調整をするわけです。

征討軍総督の慶勝も大参謀の西郷隆盛も決して武力制圧を考えておらず、何とか事前調整で勝敗を決してしまおうということになります。結果、長州側の恭順で幕引きになります。

鳥羽・伏見の戦いでも逆の意味で同じようなことが起こります。将軍慶喜は戦況不利とみると松平容保、松平定敬の両名を引き連れて、軍艦で江戸まで引き上げてしまいます。

そしてひたすら恭順してしまいます。幕府の実力からすれば、陸上の装備面で劣っていたとしても、海軍力を使えば十分に戦えるのにです。これも、全面戦争になるのを事前回避しているのです。

さて、ここで慶勝ですが。鳥羽・伏見の戦いの後、朝廷から自国内の佐幕派に不穏な動きがあるので帰国せよとの命を受けて帰国します。

そして、藩内の佐幕派を粛正してしまいます。なんと13名の藩士が逮捕され、切腹、打ち首になってしまいます。これを青松葉事件と称しています。

そして、ここからです。尾張藩は、東海道中山道の各藩に新政府恭順の証拠として、「勤王証書」を提出させよう働きかけます。この証書はなんと700通以上と言われています。

これによって新政府側の軍隊は大した戦いもなく関東まで下ることができたのです。

この動きによって、僅か1ヵ月で関東まで進軍することができ、甲府で若干の戦いはあったぐらいにとどまっています。

もし、徳川の勢力が一枚岩になって抵抗していたら、大変な内乱となってしまい。それこそ、イギリス、フランスの代理戦争になっていたかもしれません。

尾張藩は親藩筆頭であっても、同時に勤王の思想も根強く持っています。徳川宗家にも藩としては複雑な感情もあります。

また、高須4兄弟と言われ、弟は一橋家に行った徳川茂徳、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬です。これらは幕府側についてしまいます。

そんなことを勘案しながの決断だったようです。

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德川慶勝の幕末維新、倒幕に加担した尾張藩第14代藩主と高須四兄弟のまとめ

德川慶勝は慶応四年に議定を辞職してからは中央政府から退いております。そしてその後、は徳川家、弟たちの名誉回復などにも努めております。

そして、この人の趣味としては、写真の存在があります。ちょうど安政の大獄で謹慎処分になった頃から、写真に興味をもってずいぶんの写真を残しています。
ここらあたりは、徳川慶喜とよく似ていますね。

撮影した写真の中には明治3年(1870年)に取り壊された名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真が1,000点近く残されており、歴史的史料価値の高い写真も数多いそうです。

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