大山捨松は鹿鳴館の花として活躍する一方、何をなしたか

歴史人物

大山捨松は、明治4年、岩倉使節団が米国に向かった際に同行した女子留学生5名のうちの一人です。そして、帰国後には当時、参議陸軍卿となっていた大山巌の後妻となります。

やがて鹿鳴館時代となり政府高官の妻として社交場に出かける必要に迫られますが、大山巌も捨松も外国滞在期間が長く教養も身に着けているため、特に捨松は鹿鳴館の花と呼ばれるようになります。

そんな中、捨松はどのような活動をしたのでしょうか。

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鹿鳴館は外務卿井上馨がどのような必要性から建てたのでしょう

明治政府の最大の課題は幕末に結んだ西洋諸国との不平等条約の解消にありました。特に治外法権の撤廃については、近代国家としては屈辱的な内容であるので早急な解消が必要であったのです。

しかしながら、外国人から見てみれば、ほんの数年前までは磔、打ち首、獄門が当たり前に行われていましたので、そんな国の裁判制度で打ち首、獄門になったのではたまらないと思ったことでしょう。

我々が、イスラム法のむち打ちとか石打に抱くのと同じような心境だったと思います。

外務卿になった井上馨はこのため、日本が文明国であることを知らしめるために、社交場を作り、外交の場としても活用しようとしていました。

実際に西洋諸国の中にはこの時の会合で話のきっかけを作ったり、交渉の下地を作ることもしていたので、全く的外れではなかったのですが。

1883年(明治16年)に現在の帝国ホテルの横に落成します。レンガ造り2階建てで、1階に大食堂、談話室、書籍室、2階が舞踏室になっていました。

しかしながら、問題は中身の方にありました。出席する日本人がこのような場に慣れていません。

食事の仕方、立ち振る舞い、着物の着付け、マナーやエチケットなども疎遠でしたので、外国人からは相当おかしく映ったことでしょう。ましてや会話のレベル、さらにダンスとなると相当問題が深かったと思います。

また、男性はまだしも女性に至っては外に出る習慣がありません。それならということで芸者を連れてきたりもしますが、今のコンパニオンですね。

立つ習慣がない、立って物事をすることがない彼女らにとっても相当大変だったようです。途中で座り込んだり、もたれかかったり、煙草を吸う習慣が批判を浴びたりしております。

この鹿鳴館時代は1887年(明治20年)まで続くことになります。

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大山巌、捨松夫婦の鹿鳴館での活動はどのようだったか

そんな中で、光っていたのは大山巌、捨松夫婦です。大山巌はプロシア、ジュネーヴで6年間暮らしており、フランス語、ドイツ語が堪能です。

捨松は11歳の時に岩倉使節団に同行して11年間米国で留学し、ヴァッサー女子大を3番で卒業しています。フランス語、ドイツ語も堪能ということで、全く問題はなかったようです。

加えて、背も高くすらりとしていますし、容姿端麗で、ドレスの着こなしも良かったようです。やがて人々からは「鹿鳴館の花」と呼ばれるほどになります。

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大山捨松はその他にもどのような活動をしていたのか

大山捨松はヴァッサー女子大の時に生物学が得意だったようです。そして、大学を卒業した時に、赤十字の活動に非常に興味をもち、帰国を1年延長して、病院で実地看護に取り組み看護婦の免許を取得して帰国していました。

そんな経緯もあって看護教育に関心を持っていました。

有志共立東京病院(今の東京慈恵会医科大学付属病院)を見学した時に、そこに看護婦がいないことに気がつきます。

そのため、元海軍軍医総監で院長の高木兼寛男爵に、看護婦養成学校の開設を提言することになります。しかしながら、当時の病院は財政難で学校開設は難しい状況でした。

看護婦養成施設建設に向けての資金を集める

捨松は1884年(明治17年)6月にチャリティーバザーを開設することになります。これは「鹿鳴館慈善会」といわれ、当時の金額で1万6千円を病院に寄付することができました。

この資金をもとに日本初の看護学校である「有志共立病院看護婦教育所」が開設されることになります。ちなみにこの時のバザーが日本で初のバザーと言われています。

海外にまで及んだ資金集めの活動の副産物は

捨松は看護関係では、日本赤十字社の後援団体として「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となっています。一貫して赤十字活動に広く携わり、寄付金集め、戦傷者の看護まで行っています。

日清・日露戦争中も活動を続けます。そして特筆すべきことは、アメリカの赤十字にも寄付金を送るとともに、積極的にアメリカの新聞に投稿しております。

かってヴァッサー大学を卒業した時にイギリスの対日政策を卒業論文としたほか講演もしており、アメリカの新聞でも大きく取り上げられた経験がこの時にも生かされます。

日本の状況を訴える捨松の投稿はアメリカ世論から好意的に受け止められたようです。このことがアメリカの知識階級に日本に好意的な姿勢を取ることになるきっかけを作ったことでしょう。

アメリカが日露戦争の調停に乗り出したのもこの活動が功を奏したかもしれません。

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大山捨松は鹿鳴館の花として活躍する一方、何をなしたかのまとめ

大山捨松は数奇なことから日本初の海外女子留学生として、アメリカにわたり、苦労の末大学まで立派に卒業することになります。現代と違って何の情報もない中、家族とも別れて苦労したことでしょう。

同行した留学生の中ではちょうど真ん中の歳でしたが、それでも11歳です。帰った頃には日本語がおぼつかなかったようで、会話は何とかなっても漢字では苦労したようです。

また、同行の中で最年少は6歳の津田梅子です。現代でも6歳で海外に出すなどとは考えられないことですが、そんな時代になした事は大変驚きです。

津田梅子とは女子の教育に関して最後まで関わり合いをもって生きていくことになりますが、それはまた別途の機会といたします。

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