【大山捨松の功績】鹿鳴館の華だけじゃない!生涯と日本初の看護教育に尽力したパイオニアの真実

歴史人物

今回は、日本の近代化に多大な貢献をしながらも、その**真価**が広く知られていない、一人の偉大な女性にスポットライトを当てたいと思います。

その方の名前は、大山捨松(おおやま すてまつ)。明治初期、華やかな社交場**「鹿鳴館(ろくめいかん)」**で**「鹿鳴館の華」**と称賛された彼女は、単なる美しさだけでなく、**類まれなる知性と、社会を変えようとする強い行動力**で、日本の社会に大きな足跡を残しました。

岩倉使節団に同行した初めての女子留学生の一人として、若くしてアメリカへ渡り、困難を乗り越えて学びを深め、帰国後は**日本の看護教育の礎**を築いたのです。

この記事では、大山捨松の波乱に満ちた生涯と、彼女が活躍した鹿鳴館の役割、そして**看護教育の先駆者**としての計り知れない功績を、初めてこの分野の記事を読む方にも分かりやすく、丁寧にご紹介していきます。彼女の生き方から、現代を生きる私たちも多くの学びを得られるはずです。

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1. 大山捨松の生涯:会津戦争の悲劇と女子留学生としての船出

大山捨松の人生は、日本の激動の歴史そのものと深く結びついています。

1-1. 壮絶な生い立ち:会津藩家老の娘から「捨松」へ

大山捨松は、1860年(万延元年)に**会津藩の家老、山川家の娘**として生まれました。彼女の人生に影を落としたのは、わずか8歳の時に経験した**会津戦争**の悲劇です。

  • 会津藩が新政府軍との戦いに敗れ、兄や家族が命を落とす、あるいは投獄されるという**壮絶な経験**をしました。
  • 後に夫となる**大山巌**は薩摩藩(新政府軍側)の出身であり、この「敵味方の関係」は、二人の結婚が当時いかに異例であったかを物語っています。

彼女の本名は**山川さき**でしたが、幼少期に激動を経験したため、「生き残った証」として**「捨松」**という名前が付けられたという説もあります。この名前には、激動の時代を強く生き抜く彼女の運命が込められているようにも感じられますね。

1-2. 岩倉使節団に同行!11歳で海を渡ったパイオニア

彼女の人生が大きく動き出したのは、明治4年(1871年)のことです。日本は欧米列強との**不平等条約改正**を目指し、岩倉使節団を欧米に派遣しました。

この使節団には、国の未来を担う人材を育成するため、男子留学生だけでなく、**女子留学生5名**も同行しました。大山捨松は、この選ばれし5人のうちの一人として、**わずか11歳**という幼さで遠い異国アメリカへと旅立ったのです。

現代でさえ留学は大変ですが、当時、情報も交通手段も限られた中、見知らぬ土地、言葉、文化の中で学ぶことは、どれほどの**孤独と苦労**を伴ったことでしょう。同行した女子留学生の中には、新紙幣の顔となる**津田梅子**(当時6歳)もいました。

💡 豆知識:女子留学生5名のその後

岩倉使節団に同行した女子留学生5名のうち、最後まで留学を続け、帰国後に日本の発展に尽力したのは、大山捨松、津田梅子、永井繁子の3名です。特に捨松と梅子は生涯にわたり交流を続け、日本の女子教育と社会事業の基盤を築きました。


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2. 知性の証明:名門ヴァッサー大学での卓越した学び

アメリカでの11年間の留学生活は、捨松の**知性と行動力**を磨き上げました。

2-1. 困難の連続:言葉の壁とカルチャーショック

留学当初、英語が全く話せなかった捨松は、ホームステイ先で猛勉強を強いられます。現地での孤独な学習生活は厳しく、帰国後、一時的に**日本語がおぼつかなくなる**ほど英語漬けの生活を送っていたという逸話も残っています。

2-2. ヴァッサー大学卒業と看護への情熱

捨松は、女子教育の名門、**ヴァッサー大学**に入学し、特に**生物学**を得意としました。そして、1882年(明治15年)、なんと**3番という優秀な成績**で卒業を果たすのです。

さらに特筆すべきは、彼女が帰国を1年延長し、当時発展途上にあった**赤十字の活動に強い関心**を持ち、アメリカの病院で**実地看護**に取り組み、なんと**看護婦の免許まで取得**していたことです。このときの看護教育への情熱こそが、後の日本社会への最大の貢献につながります。

2-3. 大山巌との結婚:会津と薩摩を結ぶ知性の絆

帰国後、捨松は当時の参議陸軍卿であった**大山巌(おおやま いわお)**の後妻となります。大山巌もまた、プロイセンやジュネーブで学んだ経験を持つ国際派の人物でした。

藩の立場を乗り越えたこの結婚は、薩摩出身の巌と、会津出身の捨松という、**日本の新しい時代を象徴する夫婦**の誕生でした。二人は互いの知性を尊重し合う、まさに理想的な国際派夫婦だったのです。

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3. 鹿鳴館の華:不平等条約改正に向けた外交の舞台裏

大山捨松の活動の舞台となった「鹿鳴館」は、日本の国家的な課題を解決するための**外交の最前線**でした。

3-1. 鹿鳴館の誕生:井上馨の戦略と「文明国」のアピール

明治政府の最大の課題は、**「治外法権」**や**「関税自主権の欠如」**といった屈辱的な**不平等条約の解消**でした。当時の外務卿であった**井上馨(いのうえ かおる)**は、日本が近代的な文明国であることを欧米諸国に示すため、西洋式の社交場を建設する戦略を立てました。

1883年(明治16年)、現在の帝国ホテルの隣接地に**鹿鳴館**が落成します。ここで開かれる舞踏会や晩餐会は、欧米諸国との交渉の**下地やきっかけ**を作る重要な役割を果たしました。

3-2. 外交の場で輝いた大山捨松夫妻の存在感

鹿鳴館の社交の場には、西洋の社交に慣れない日本人が多く、外国人から「奇妙な光景」と映ることも少なくありませんでした。しかし、その中で、大山巌・捨松夫妻はひときわ輝きを放ちました。

  • 卓越した語学力: 夫の巌はフランス語・ドイツ語、捨松は英語はもちろん、フランス語・ドイツ語も流暢に操る**当時の日本人としては稀有な国際派**でした。
  • 知性と美貌: 背が高く、西洋のドレスを見事に着こなした捨松は、その知性と流暢な会話で外国人からも一目置かれ、やがて人々から**「鹿鳴館の花」**と呼ばれるようになりました。

捨松の存在は、単なる貴婦人の華やかさではなく、**「日本にも世界に通用する知性と教養を備えた女性がいる」**ことを世界に示す、**日本の近代化への努力を象徴**するものでした。

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4. 「鹿鳴館の華」だけではない!看護教育と慈善事業という偉大な功績

大山捨松の真の功績は、鹿鳴館での活躍よりも、帰国後すぐから始めた**日本の医療と福祉への貢献**にあります。

4-1. 看護婦不在の日本の現状を憂う

留学中に看護婦免許を取得していた捨松は、帰国後、有志共立東京病院(現在の**東京慈恵会医科大学附属病院**)を見学し、衝撃を受けます。

当時の日本では、**「看護婦」という専門職の概念が確立されておらず**、医療現場では主に男性の「看病人」などが看病にあたっていました。衛生環境も悪く、近代的な看護の知識が全く導入されていなかったのです。捨松は、この状況を**「看護教育なくして日本の近代医療は成り立たない」**と憂い、病院の院長であった高木兼寛男爵に、**看護婦養成学校の開設を提言**しました。

4-2. 日本初のチャリティーバザー開催と看護学校の設立

学校開設には莫大な資金が必要でしたが、当時の病院にその財力はありませんでした。財政難という壁に直面した捨松は、**諦めることなく**自ら資金集めに奔走します。

そして、1884年(明治17年)6月、彼女は**鹿鳴館を舞台**に、画期的なイベントを開催します。それが、**日本で初のチャリティーバザー**とも言われる**「鹿鳴館慈善会」**でした。

  • 捨松の呼びかけに応じ、当時の貴族や各国公使夫人など多くの人々が鹿鳴館に集まりました。
  • このバザーで、当時の金額で**なんと1万6千円**という、学校設立に十分な莫大な寄付金を集めることに成功しました。

この資金をもとに、同年、**日本初の看護学校**である**「有志共立病院看護婦教育所」**(後の東京慈恵会医科大学付属高等看護学院)が開設されることになります。これは、日本の近代看護教育の歴史における**画期的な出来事**でした。

4-3. 国際的な活動:赤十字活動と日米の架け橋

捨松の活動は、看護学校の設立に留まりませんでした。彼女は、**日本赤十字社の後援団体**である「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となり、日清・日露戦争中には、自ら戦傷者の看護にもあたっています。

さらに、彼女はアメリカの新聞に日本の状況を投稿するなど、**国際世論への働きかけ**も積極的に行いました。アメリカの知識階級に日本に対する好意的な姿勢を取らせるきっかけを作り、日露戦争の調停など、**日米関係の構築にも影響を与えた**と言われています。まさに、**知性と行動力**で国際社会にも貢献したパイオニアです。

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5. 大山捨松の残した偉大な足跡:現代を生きる私たちへのメッセージ

大山捨松は、鹿鳴館の華としての一面だけでなく、**日本の近代化と社会貢献**という**真に価値ある分野**に多大な功績を残しました。

📝 大山捨松の3つの偉大な功績

  1. 日本初の海外女子留学生: わずか11歳で渡米し、名門ヴァッサー大学を卒業。日本の女子教育の可能性を世界に示しました。
  2. 看護教育の先駆者: 看護婦免許を取得し、日本初のチャリティーバザーで資金を集め、日本初の看護学校設立に尽力しました。
  3. 国際的な架け橋: 赤十字活動を通じて国際社会に貢献し、日米関係の構築にも影響を与えました。

5-1. 津田梅子との深い絆と現代への影響

大山捨松は、同じく女子留学生として同行し、**女子英学塾(現在の津田塾大学)**を創設した**津田梅子**とも生涯にわたる深い関わりを持っていました。

捨松が**「看護」**という社会事業に、梅子が**「女子教育」**という学問の分野に尽力することで、**二人の活動が日本の新しい時代の女性の基盤を築いた**と言っても過言ではありません。2024年に話題となる**新紙幣の顔**に選ばれた津田梅子の功績と合わせて学ぶことで、明治の女性パイオニアたちが遺した偉業をより深く理解できるでしょう。

大山捨松の生涯は、単なる華やかな貴婦人の物語ではありません。**困難な時代にあって、自らの知性と行動力で社会を変えようとした、真のパイオニアの物語**です。彼女の偉大な功績は、現代を生きる私たちにとっても、**挑戦する勇気**と、**社会貢献の精神**を与えてくれることでしょう。

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