今回は、日本の近代化に多大な貢献をしながらも、その真価が広く知られていない一人の女性にスポットライトを当てたいと思います。
その方の名前は、大山捨松(おおやま すてまつ)。明治初期、鹿鳴館(ろくめいかん)という華やかな社交場で「鹿鳴館の華」と称された彼女は、単なる美しさだけでなく、類まれなる知性と行動力で、日本の社会に大きな足跡を残しました。岩倉使節団に同行した初めての女子留学生の一人として、若くしてアメリカに渡り、困難を乗り越えて学びを深め、帰国後は日本の発展のために尽力しました。
この記事では、大山捨松の生涯と、彼女が活躍した鹿鳴館の役割、そして看護教育の先駆者としての功績を、初めてこの分野の記事を読む方にも分かりやすく、丁寧にご紹介していきます。
1. 大山捨松とは? 明治の夜明けを彩ったパイオニア
大山捨松は、1860年(万延元年)に会津藩の家老である山川家の娘として生まれました。彼女の人生が大きく動き出したのは、明治4年(1871年)のことです。当時、日本は欧米列強との不平等条約改正を目指し、岩倉具視を全権大使とする大規模な使節団を欧米に派遣しました。これが有名な「岩倉使節団」です。
この使節団には、国の未来を担う人材を育成するため、男子留学生だけでなく、女子留学生5名も同行していました。大山捨松は、この選ばれし5人のうちの一人として、わずか11歳で遠い異国アメリカへと旅立ったのです。現代では考えられないような幼い年齢で、見知らぬ土地、言葉、文化の中で学ぶことは、どれほどの苦労を伴ったことでしょう。
そして、帰国後、彼女は当時の参議陸軍卿であった大山巌(おおやま いわお)の後妻となります。大山巌もまた、プロイセンやジュネーブで学んだ経験を持つ国際派の人物であり、二人は互いの知性を尊重し合う、まさに理想的な夫婦でした。
2. 鹿鳴館とは? 不平等条約改正への道と外交の舞台裏
大山捨松が活躍した時代背景として、「鹿鳴館」の存在は欠かせません。では、この鹿鳴館は、どのような目的で建てられたのでしょうか?
2.1. 不平等条約解消という国家の課題
明治政府が発足して間もない頃、日本が抱えていた最大の課題の一つが、江戸時代末期に欧米列強と結んだ不平等条約の解消でした。特に、外国人が日本で罪を犯しても日本の法律では裁けない「治外法権」や、関税を自由に決められない「関税自主権の欠如」は、近代国家として看過できない屈辱的な内容でした。
政府はこれらの条約を改正し、欧米諸国と対等な関係を築くことを目指しました。しかし、欧米諸国から見れば、ほんの数年前まで「切腹」や「打ち首」といった刑罰が当たり前に行われていた日本に対し、自国民を日本の法制度に委ねることに抵抗があったのは想像に難くありません。私たち現代人が、イスラム法における鞭打ちや石打ちといった刑罰に抱く感情と同じような心境だったかもしれません。
2.2. 外務卿・井上馨の戦略と鹿鳴館の誕生
こうした状況を打開するため、当時の外務卿であった井上馨(いのうえ かおる)は、ある戦略を立てました。それは、日本が近代的な文明国であることを欧米諸国に示すために、西洋式の社交場を建設し、そこで外交活動を行うというものでした。
この目的のために、1883年(明治16年)、現在の帝国ホテルの隣接地に、鹿鳴館が落成します。 レンガ造りの2階建てで、1階には大食堂、談話室、書籍室が設けられ、2階は広々とした舞踏室となっていました。実際に鹿鳴館での会合が、欧米諸国との交渉のきっかけを作ったり、下地を築いたりする役割を果たしたこともあり、井上馨の狙いは全く的外れではなかったと言えるでしょう。
2.3. 鹿鳴館の課題と「中身」の重要性
しかしながら、鹿鳴館が抱えていた問題は、その「中身」にありました。豪華な建物は完成したものの、そこに集う日本人、特に政府高官の夫人たちは、西洋式の社交に慣れていませんでした。
- 食事の仕方や立ち居振る舞い
- ドレスの着こなしやマナー、エチケット
- 外国語での会話やダンス
これらすべてが、当時の日本人にとっては未知の領域でした。そのため、外国人からは「奇妙な光景」として映っていたこともあったようです。特に女性は、当時はまだ公の場に出る習慣があまりなく、社交の場に慣れていませんでした。中には、西洋式のダンスについていけず途中で座り込んだり、もたれかかったりする方もいたと言われています。芸者を同伴させることもありましたが、彼女たちもまた、西洋式の社交の場で「立つ」習慣がないことに苦労し、批判の対象となることもありました。この鹿鳴館時代は、約4年間、1887年(明治20年)まで続くことになります。
3. 鹿鳴館で輝いた大山捨松夫婦の活躍
そんな鹿鳴館の社交の場で、ひときわ輝きを放っていたのが、大山巌・捨松夫妻でした。
夫の大山巌は、プロイセンやジュネーブで6年間を過ごし、フランス語とドイツ語が堪能でした。一方、捨松は11歳でアメリカに渡り、11年間もの留学生活を送っています。特に、名門ヴァッサー大学を3番という優秀な成績で卒業しており、英語はもちろんのこと、フランス語やドイツ語も流暢に操ることができました。これは当時の日本人としては非常に稀な、卓越した語学力でした。
加えて、捨松は背が高くすらりとした容姿端麗な女性で、西洋のドレスも見事に着こなしました。その知性と美しさ、そして流暢な会話で、外国人からも一目置かれる存在となり、やがて人々からは「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになりました。 彼女の存在は、日本の近代化への努力を象徴するかのようでした。
4. 「鹿鳴館の華」だけではない! 大山捨松の社会貢献
大山捨松の功績は、鹿鳴館での華やかな社交活動に留まりません。彼女は、日本の医療、特に看護教育の分野において、計り知れない貢献をしています。
4.1. 看護教育への熱い思い:ヴァッサー大学での学びから
捨松は、ヴァッサー大学で生物学を得意としていました。そして、大学卒業時に、当時発展途上にあった赤十字の活動に強い関心を持つようになります。彼女は帰国を1年延長し、アメリカの病院で実地看護に取り組み、なんと看護婦の免許まで取得して帰国していたのです。この経験が、彼女のその後の人生に大きな影響を与えることになります。
帰国後、有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した際、そこに看護婦がいないことに気づきます。当時の日本では、看護婦という専門職の概念自体が確立されておらず、医療現場では男性の「看病人」などが看病にあたっていました。
捨松は、この状況を憂い、病院の院長であった元海軍軍医総監の高木兼寛男爵に、看護婦養成学校の開設を提言します。しかし、当時の病院は財政的に厳しい状況であり、学校開設は困難を極めました。
4.2. 日本初のチャリティバザー開催と看護学校の設立
財政難という壁に直面した捨松は、諦めませんでした。彼女は自ら資金集めに奔走します。そして、1884年(明治17年)6月、鹿鳴館を舞台に、画期的なイベントを開催します。それが、「鹿鳴館慈善会」と呼ばれるチャリティーバザーでした。
このバザーは、日本で初のチャリティーバザーとも言われています。捨松の呼びかけに応じ、多くの人々が鹿鳴館に集まり、当時の金額でなんと1万6千円という莫大な寄付金を集めることに成功しました。この資金をもとに、日本初の看護学校である「有志共立病院看護婦教育所」が開設されることになります。これは、日本の看護教育の歴史において、画期的な出来事でした。
4.3. 国際的な活動:日米の架け橋として
捨松の看護に関する活動は、国内に留まりませんでした。彼女は、日本赤十字社の後援団体である「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となり、一貫して赤十字活動に広く携わりました。寄付金集めはもちろんのこと、日清・日露戦争中には、自ら戦傷者の看護にもあたっています。
さらに特筆すべきは、彼女がアメリカの赤十字にも寄付金を送るとともに、積極的にアメリカの新聞に日本の状況を投稿していたことです。ヴァッサー大学卒業時に、イギリスの対日政策を卒業論文として発表し、講演も行い、アメリカの新聞で大きく取り上げられた経験が、この時にも生かされました。
日本の状況を伝える捨松の投稿は、アメリカの世論から好意的に受け止められました。このことが、アメリカの知識階級に日本に対して好意的な姿勢を取らせるきっかけを作ったとも言われています。アメリカが日露戦争の調停に乗り出したのも、彼女のこのような国際的な活動が功を奏したのかもしれません。
5. 大山捨松が残した偉大な足跡:まとめ
大山捨松は、鹿鳴館の華としてその美貌と知性で社交界を彩る一方で、日本の近代化、特に女子教育と看護教育の発展に多大な貢献をしました。彼女の生涯は、まさに日本の変革期を象徴するものでした。
- 日本初の海外女子留学生: わずか11歳でアメリカに渡り、言葉や文化の壁を乗り越え、名門ヴァッサー大学を卒業しました。現代のように情報が溢れる時代とは異なり、家族とも離れての留学生活は、計り知れない苦労があったことでしょう。帰国後、一時的に日本語がおぼつかなくなるほど英語漬けの生活を送っていたという逸話も残っています。
- 看護教育の先駆者: アメリカで看護婦免許を取得し、帰国後は日本初のチャリティーバザーを開催して資金を集め、日本初の看護学校の設立に尽力しました。これにより、日本の近代看護の礎が築かれました。
- 国際的な架け橋: 赤十字活動を通じて国際社会に貢献し、アメリカの世論に日本の状況を訴え、日米関係の構築にも影響を与えました。
大山捨松は、同じく女子留学生として同行し、日本で女子教育の発展に尽力した津田梅子とも生涯にわたる深い関わりを持っていました。二人の活動が、日本の女子教育の基盤を築いたと言っても過言ではありません。津田梅子の功績については、また別の機会にご紹介できればと思います。
大山捨松の生涯は、単なる華やかな貴婦人の物語ではありません。困難な時代にあって、自らの知性と行動力で社会を変えようとした、真のパイオニアの物語です。彼女の偉大な功績は、現代を生きる私たちにとっても、多くの学びと勇気を与えてくれることでしょう。
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