伊藤博文の出身地はどこで、何をして明治新政府で重用されたか?

歴史人物

伊藤博文は以前の千円札のデザインに起用されていたことと、初の内閣総理大臣、大日本帝国憲法を起草したことで知られていますが、どのように明治政府で重要な働きをするようになったかは知られておりません。

戊辰戦争でも活躍した様子も見えません。出自は長州藩にあっても極めて低い存在だったともいわれています。その伊藤博文がどのように明治政府で重用されるようになったかを解説していきます。

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伊藤博文は農民の出身だった。出生地とその後の生い立ちは?

天保12年(1841年)10月16日周防国(山口県光市)の百姓林十蔵の長男として生まれる。弘化5年(1846年)十蔵が破産したため、母とともに母の実家に移り住みます。

嘉永2年(1849年)父のいる萩に移住します。父は長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となっていましたが、その水井武兵衛が安政元年(1854年)足軽伊藤弥右衛門の養子となって改名したため、十蔵、博文父子も伊藤姓を名乗ることになります。

ややこしいですね、初めは貧農の出だったのが、父親が養子になって、その養子先、いうなればお祖父さんにあたる人も足軽の養子になったため、お爺さん、お父さん、博文が自動的に武士になってしまったということです。

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伊藤博文は松下村塾に入門しバリバリの尊皇攘夷の志士となる

安政4年(1857年)江戸湾警備のため相模に派遣されていた時の上司来原良蔵の紹介吉田松陰の松下村塾に入門することになります。

しかし、足軽の身で身分が低いため、塾の敷居から中には入れず、立ったまま聴講していたそうです。厳しいですね。やはり身分の違いをひしひしと感じたかもしれません。

でも、周りからはずいぶん引き立ててもらっています。よっぽど性格が良かったのかもしれません。
安政5年(1858年)には吉田松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行します。

安政6年(1859年)には長崎で勉強したり、桂小五郎(木戸孝允)の従者として江戸屋敷に移り住んだり、志道聞多(井上馨)と出会うチャンスに恵まれています。

そういう意味ではこの10代の後半に広く知己を広げていますね。吉田松陰が安政の大獄で斬首されたときも小塚原に遺体を引き取りに行っています。
文久2年(1862年)英国公使館焼き討ち事件にも参画しています。この時の隊長は高杉晋作、副将久坂玄瑞、火付け役として、井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎が挙げられています。

これは成功してしまい、英国公館は江戸ではなく横浜に作られることになります。ここらの行動は、最初の上司だった来原良蔵の影響を強く受けているようです。

彼は、藩にあっては上士の出ですし、桂小五郎とは姻戚関係にあり、恵まれた環境にあります。結果尊皇攘夷運動の中で自害することになりますが。

また、伊藤博文は身分が低いこともあって、ずいぶん荒っぽいこともやらなければならなかったようです。国学者塙忠宝が孝明天皇を廃帝に追い込むための調査をしているとの風聞に基づき、これを暗殺したともいわれています。

放火事件を起こしたり暗殺に関わったりと、ずいぶん荒っぽいバリバリの尊皇攘夷の武闘派でしたし、ここらあたりは、るろうに剣心の緋村剣心によく似ていますね。

それでも、藩の壁があって当時は捕まることもなかったのです。今から考えればやはり大変な時代ですね。

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伊藤博文は松下村塾での努力が実りイギリスに留学することに

文久3年(1863年)長州5傑の一人として密かにイギリスに渡航することになります。辞書一冊と寝巻だけをもって出港したといわれています。また、手違いにより水平同然の扱いを受けていたといわれてもいます。

ロンドン到着後、英語、礼儀作法、博物館、美術館、海軍関係の施設、工場見学をして日本との違いを改めて認識するとともに、国力の差を実感して開国に目覚めることになります。

しかしこの留学も長く続きませんでした。

元治元年(1864年)四国連合艦隊の長州攻撃が近いことを知り、井上馨とともに帰国することになります。そして、戦争回避に向けて奔走しますが、下関戦争を避けることができませんでした。

戦後は高杉晋作の通訳として和平交渉にあたります。この交渉の中で、一般的には、高杉晋作が相手をけむに巻いて賠償金についてはうやむやにして江戸幕府に付け回しをしたことになっています。

しかし実際は、天皇と将軍が発行した攘夷実施の命令書を渡したことが決め手になったようです。この交渉にも伊藤は関与しているようです。

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長州藩内の争いに巻き込まれ、高杉晋作のクーデターに参加

下関戦争での大損害によって、長州藩内は幕府への恭順を掲げる俗論派と攘夷派の闘争が始まります。また、第一次長州征伐によって、長州藩は幕府に恭順してしまいます。

ここで起こったのが、高杉晋作の功山寺挙兵という藩内クーデターです。このクーデターの後の戦いで、長州藩は再び攘夷派が実権を握ることになります。

この挙兵に真っ先に駆けつけたのが伊藤博文と言われています。主義は開国派になったようですが、もっぱら幕府に対しては強硬派ということでしょう。後年の述懐でもこの決断を誇りに思っているようです。
しかしながら、この後は、伊藤は薩摩藩、外国商人との武器購入とか交渉に専念させられ、第二次長州征伐も戊辰戦争でも全く表舞台には出てきておりません。桂小五郎の指示と言われていますが、これによって伊藤自身は身の危険を覚えるような仕事が与えられず、一方活躍もできず、忸怩たる思いで過ごした事だと思います。
逆に考えれば、これによって伊藤は戊辰戦争で命を落とすことなく明治維新を迎えることができるのです。また、我々後世の者からすれば伊藤博文は明治維新後に突然出てくる印象があって、どうして出てきたのかわからないのです。
この間も外国人と藩士との衝突事件である、神戸事件、堺事件の解決をこなしていることから、新政府内では認められてきたようです。

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 明治維新を迎えた伊藤博文は新政府に重用される

明治維新後は英語に堪能なことから、参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民舞少輔、兵庫県知事、工部卿、宮内卿などを歴任することになります。やっぱり木戸孝允のから高く買われていたことが幸いしたのでしょう。でも何にもしていないわけではありません。
工部卿の時は殖産興業の振興を推進します。これは、イギリス留学の経験が生かされたことでしょう。大蔵県民部卿の時は大隈重信とともに鉄道建設に尽力します。

また、征韓論が盛んになった時は、内政重視の道を選び大久保利通、木戸孝允の支持をします。そして西南戦争後に大久保利通が暗殺されたのちは内務卿を引き継ぐことになります。

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伊藤博文の出身地はどこで、何をして明治新政府で重用されたかのまとめ

伊藤博文の明治維新までの活躍を解説していきました。彼の転機は3つあるでしょう。

養子の養子が長州藩の足軽になったこと。上司の来原良蔵と知り合い、この縁で松下村塾に入門したこと。木戸孝允にかわいがられるようになったこと。最後に高杉晋作のクーデターに真っ先に駆けつけたことにあります。
木戸孝允の指示により、第二次長州征伐及び戊辰戦争にも参加できなかったことも、伊藤博文自身にとっては不満であったでしょうが、別の見方をすれば、明治維新まで生き残ることができたことでこれも幸いなのかもしれません。

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