日本の近代経済を築いた巨人、**渋沢栄一**。彼が立ち上げた日本初の株式会社銀行「**第一国立銀行**」は、創業直後に前代未聞の危機に直面しました。その絶体絶命のピンチを、自らの全財産を差し出して救った一人の男がいます。それが、後に「鉱山王」として名を馳せる**古河市兵衛**です。
この記事では、単なる歴史的事実を追うだけでなく、日本の未来を賭けた二人の男たちの**熱い友情と決断のドラマ**に迫ります。なぜ古河市兵衛は、そこまでの「男気」を見せられたのか?そして、全財産を失った後、いかにして「古河財閥」という巨大な王国を築き上げたのか?その波乱万丈な生涯を、ドラマティックに解説していきます。
1. 創業直後の悪夢!第一国立銀行を襲った「小野組破綻」の衝撃
1-1. 日本初の銀行、第一国立銀行はこうして生まれた
明治維新後、日本は近代化への道を猛スピードで走り始めます。その牽引役の一人が、大蔵省にいた**渋沢栄一**でした。彼は、日本に資本主義の根幹を築くため、西欧にならった**「国立銀行条例」**を制定。ここに、日本初の本格的な株式会社銀行が誕生することになります。
設立に際し、栄一の呼びかけに応じたのは、江戸時代から財力を誇った両替商、**三井組**と**小野組**でした。この二大商人と栄一の連携により、資本金250万円(当時としては巨額!)で第一国立銀行は船出します。設立総会は1873年(明治6年)6月11日。本店と横浜、大阪、神戸の三支店で、日本の未来を担う営業がスタートしたのです。
💡 【豆知識】:当時の「国立銀行」は、政府が出資したものではなく、国立銀行条例に基づいて設立された「民間銀行」です。政府が発行する紙幣(国立銀行紙幣)を発行できる特権を持っていました。
1-2. 拡大路線が仇に…小野組破綻と銀行の連鎖危機
順調なスタートに見えた第一国立銀行ですが、設立からわずか数ヶ月で、早くも暗雲が立ち込めます。原因は共同出資者の一方、**小野組**の放漫経営でした。
小野組は、同じく両替商であった三井組とは対照的に、積極的な拡大路線を取っていたため、裏側では巨額の借入金を抱えていました。当初、明治政府は銀行経営安定のため、無利子無担保で国庫金を預けていましたが、大蔵卿の**大隈重信**がこの運用に不安を感じ、突然、借入金に対する**担保**を要求し始めます。
これにより、火の車だった小野組の経営は一気に破綻へと追い込まれました。そして、小野組に資本金100万円を超える百数十万円もの大口融資をしていた第一国立銀行も、**設立早々、巨額の貸し倒れという大損害**を被る危機に直面したのです。「日本最初の銀行が、わずか数ヶ月で潰れてしまうのか…」日本経済の将来は、まさに風前の灯でした。
2. 全財産を差し出す!古河市兵衛の「男気」と渋沢栄一の決断
2-1. 破綻の渦中で閃いた古河市兵衛の覚悟
小野組の破綻が公になった時、小野組の米穀部と鉱山部を支配していた人物こそ、後の**古河市兵衛**です。この時、彼が取った行動は、歴史に語り継がれるほどの「男気」に満ちていました。
通常であれば、会社の破綻に際しては、個人の財産を隠匿したり、できる限り傷を負わないよう立ち回るのが常でしょう。しかし、市兵衛は違いました。彼は、第一国立銀行の頭取を務めていた渋沢栄一に対し、こう申し出たのです。
市兵衛は、私財をなげうってでも、日本初の近代銀行を守り抜くという**壮絶な覚悟**を示したのです。この決断が、第一国立銀行の損失を最小限に抑え、結果的に小野組の出資分を減額した形で銀行を存続させる決定打となりました。
2-2. 渋沢栄一が惚れ込んだ「正直さ」のエピソード
この古河市兵衛の行動には、冷静沈着な渋沢栄一も大いに意気に感じたと言われています。栄一は後年、市兵衛のこの**「正直さ」と「潔さ」**を、ある幼少時のエピソードと共に語り継ぎました。
市兵衛と豆腐の物語
市兵衛が子どもの頃、天秤棒を担いで豆腐を売っていた時のこと。不注意から駕籠とぶつかり、豆腐を全て台無しにしてしまいます。駕籠に乗っていた侍は見ても見ぬふり。しかし、それを見ていた商家の老人が市兵衛の元へ駆け寄り、潰れた豆腐を買ってやろうと申し出ます。
豆腐の代金は全部で120文。しかし市兵衛は、**「100文売ると4文の駄賃がつくことになっているから、4文はいらない」**と正直に答えたのです。老人はその正直さに感心し、4文を余計に駄賃としてくれたそうです。
このエピソードが示すように、市兵衛は幼い頃から**目先の利益より「正直」を重んじる人物**でした。この天性の誠実さが、後に第一国立銀行を救うという、日本経済史に残る偉大な行動につながったのです。
(参考:九目氏のX投稿)
3. 転んでもただでは起きない!「鉱山王」古河市兵衛の逆転劇
3-1. 一旦雌伏し、鉱山事業に全てを賭けた再起
全財産を提供した市兵衛は、当然ながらしばらく鳴りを潜めます。しかし、彼の情熱は尽きていませんでした。彼が再起の道として選んだのが、小野組時代に手がけていた**鉱山事業**でした。
彼は、秋田県の**阿仁鉱山**や**院内鉱山**の払い下げを申請するなど、資金作りと並行して鉱山経営に乗り出そうとします。度重なる失敗を経て、小野組倒産からわずか1年後の1875年(明治8年)、ついに新潟県の**草倉鉱山**の払い下げに成功します。
再起にあたっては、信用が失墜している自身の名前を表に出さず、小野組時代に縁があった**相馬藩主を名義人**とするという**「知恵」と「テクニック」**を駆使しました。ここから、古河市兵衛の「鉱山王」としての伝説が幕を開けるのです。
3-2. 渋沢栄一も動いた!「足尾銅山」買収の舞台裏
鉱山経営に自信を深めた市兵衛は、さらなる大勝負に出ます。1877年(明治10年)、再び相馬家を名義人として、かの有名な**足尾銅山**を買収します。
この時、渋沢栄一は、かつて銀行を救ってくれた市兵衛の**「男気」に応える**形で、この買収を積極的に支援しています。しかし、当時の足尾銅山は、江戸時代に採掘がされ尽くしたため、「もはや採掘の可能性は低い」と見られていました。誰もが手を引く状況でした。
それでも市兵衛は、**「生産性が低いのは、採掘方法と経営状態が悪いからだ」**と見抜き、自らの目利きと経験に賭けます。しかし、彼の見込みは正しかったものの、現場の山師集団との折り合いがつかず、責任者がわずか4年で4人も変わるなど、困難な状況が続きます。まさに、**「逆境の連続」**でした。
3-3. 待望の大鉱脈発見!古河財閥の礎を築く
苦しい経営が続く中、市兵衛の信念が実を結びます。1881年(明治14年)、ついに**待望の大鉱脈を掘り当てる**ことに成功!その後も鉱脈が次々と見つかり、足尾銅山は瞬く間に**日本屈指の大銅山**へと急成長を遂げます。
鉱山経営で得た巨万の富を元に、市兵衛は経営の多角化を推し進め、後の**古河鉱業**、そして巨大な**古河財閥**を興すことになります。第一国立銀行の破綻危機から全てを失った一人の男が、わずか数年で日本の近代を支える「鉱山王」へと変貌を遂げた、まさに**「逆転の人生ドラマ」**でした。
4. 光と影:栄光の裏側にある「鉱毒事件」という重い十字架
4-1. 事業拡大の代償:足尾鉱山鉱毒事件
古河市兵衛が築いた「古河王国」の輝かしい成功の裏側には、避けて通ることのできない**「影」**が存在します。それが、日本最悪の公害事件の一つとされる**足尾鉱山鉱毒事件**です。
銅山の発展と同時に、工場排水に含まれる有害物質が渡良瀬川を通じて下流の農村に甚大な被害をもたらしました。農民たちは命がけで抗議活動を繰り広げ、田中正造らによる激しい闘争が繰り広げられました。
市兵衛は、事業が順調になった後、この公害問題への対応が極めてはかばかしくありませんでした。住民の訴えに耳を貸さず、むしろ抑え込むような強硬な姿勢を取ったとされています。(参考:たぬ吉氏のX投稿)
4-2. 偉人の「二面性」から学ぶもの
第一国立銀行の危機に際しては、**私財を全て投げ打つほどの「正直さ」と「潔さ」**を見せた古河市兵衛。しかし、事業が大きくなり、巨大な富と権力を手に入れた後には、公害問題への**非情な対応**という側面も持ち合わせることになりました。
人は多くの面を持っています。善良な市民の一面もあれば、時に非情な経営者の一面もある。この古河市兵衛の波乱に満ちた生涯は、私たちに**「誠実さ」と「責任」**、そして**「権力と富が人をどのように変質させるのか」**という、現代にも通じる重い問いを投げかけているのではないでしょうか。
渋沢栄一と古河市兵衛。日本の近代化を背負った二人の巨人の物語は、単なる成功譚ではなく、現代社会を生きる私たちにとっても示唆に富む貴重な教訓の宝庫です。
コメント