徳川家康はどのように織田信長との同盟を維持し実力を蓄えたか

歴史人物

徳川家康は清州同盟で織田信長との同盟を結んだ後は、三河国の平定に全力を注ぎます。西側の脅威はなくなり、今川も弱体化したので地力をつけるには最適の選択だったでしょう。

その後21年間にわたり同盟を律儀に守り、どのように力をつけていったかを説明します。力がない立場から地力をつけるための方法を学ぶ良い事例になるでしょう。

ちょうど日本が日英同盟を結んだように、また、日本が日米同盟を結んだように。

 

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桶狭間の戦い以降の徳川家康と織田信長の立ち位置

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いとき、徳川家康は17歳、織田信長は26歳で9歳年上になります。
徳川家康は三河国の土豪の棟梁ですが、今川義元の庇護のもとに成り立っています。まだ、三河国一国を治める状態にはなっていません。
織田信長はほぼ尾張国一国を治める状態になっています。
徳川家康は、それから6年後の永禄9年(1566年)には三河国をほぼ手中に収めることができるようになります。
織田信長は7年後の永禄10年(1567年)に斎藤氏を破り美濃国の平定を完了します。尾張、美濃の二か国を領有する立派な戦国大名になっていきます。
このように、織田信長が年周りもそうですが、一歩ずつ先を歩んでいる様子がわかります。この背景として桶狭間の戦いの後の、徳川家康の決断と織田信長との同盟の成立が大きく寄与しています。

その頃は両者の基盤がしっかりしているとはいえず、お互いに弱いところを補い合って、織田信長は美濃攻略、徳川家康は三河平定に全力を注げたところが大きいでしょう。

織田信長にとっても武田信玄の脅威に対しては、徳川家康が緩衝材になりますから、勢力を西の方に向けることができます。

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清州同盟後の徳川家康の遠江への侵攻

徳川家康は永禄9年(1566年)には晴れて朝廷から三河守に任じられています。この頃から徳川を名乗るようになっています。
永禄11年(1567年)信長が将軍足利義昭を奉じて上洛する際には、家康も軍勢を派遣しています。

同じころ、武田信玄が手薄になった今川領の遠江に侵攻を開始します、家康もそれと同時に遠江に侵攻を始めます。こうなっては今川氏真では支えきれないでしょう。

結局遠江はこの両者によって切り取られてしまいます。
徳川家康は元亀元年(1570年)居城を岡崎から浜松城を作って移り住みます

この頃、織田軍は浅井・朝倉軍と対峙しており、ここにも同盟のため援軍を送っており、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を破ります。
それにしても、今川義元の後継者たる今川氏真の器量にはがっかりさせられますね。10年間のうちに領国二か国がなくなってしまい、最後は徳川家康の庇護のもとに下ることになるのです。まさに逆転の人生です。

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織田・徳川連合軍最大の危機、武田氏との戦い

こうして徳川家康は、戦国最強と言われている武田信玄と境を接することになります。すでにこの頃には駿河国にも進出しております。
元亀3年(1573年)いよいよ武田信玄が三河遠江に侵攻してきます。信長に援軍を要請しますが、織田軍の方も浅井・朝倉連合軍と京都方面で手一杯となっています。
武田信玄が遠江に侵攻してきましたが、一言坂でも敗退、二俣城も落城してしまいます。さらには援軍に来た織田軍とも合流するが、三方ヶ原で大敗してしまいます。

そして命からがら浜松城に戻ってきましたが、ようやく落ち着きを取り戻し、篝火をたいて城門を開き待ち受けます。これを空城計(くうじょうけい)といいます。

これによって警戒心をいだいた武田側は、浜松城への突撃を断念してしまいます。

空城計とは兵法36計の第32計にあたる戦術。あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。

武田軍の指揮官が信玄の教えにより兵法に通じており、浜松城に十分な備えがあるかもしれないと考えて、城攻めに移らなかったのです。
それにしても、この時が家康にとって本当に危なかった時期でした。
徳川美術館に「徳川家康三方ヶ原戦役画像」というのが残っていますが、この時の敗戦の教訓を残すために家康が描かせたと言われています。
信玄はその年は浜名湖の北岸で越年しますが、2月頃になって信玄の病気により撤退し始めます。家康は信玄の様子に疑問をいだき、武田領に侵攻したりしていますが、武田軍の抵抗がないことから、信玄の死を確信したといわれています。
かくして徳川家康の人生で最大の危機は、家康の冷静な浜松城の空城計によって免れることができました。更に信玄が病気になってしまうという運にも恵まれました。

天正2年(1574年)には後を継いだ武田勝頼が侵攻してきますが、前回ほどの勢いはなく、家康と一進一退を繰り返す状態になります。

そして、長篠の戦いにおいて武田軍を打ち破ることになり、大きく勢力を割くことになります。

織田信長から見た武田信玄、勝頼との戦いについてはこちらへ

織田信長は武田信玄、武田勝頼にどの様に対峙したのか
織田信長が尾張、美濃を平定して、足利義昭を奉じて京に侵攻してきたころから、最大の脅威は武田信玄となります。何しろ史上最強と言われている軍団ですし、しかも、情報戦でも織田軍をしのいでいるようです。この武田軍に対して織田信長はどのように戦ってき...

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徳川家康はどのように織田信長との同盟を維持し実力を蓄えたかのまとめ

徳川家康にとって織田信長との同盟は本当に効果的でした。

これが、今川方についていたら、三河の平定どころか、織田の侵攻を食い止めるのが精一杯ですし、駿府の方も武田に侵食されて、両者とも生き残れなかったでしょう。

結果的にこの同盟は、20年間武田軍の防波堤として、徳川が機能したように見えますが、徳川にとっては織田よりも一歩遅れていますから、地力をつけるしかなかったのです。

しかも運の良いことには最大の勝ち馬である織田信長に乗れたこと、最大の脅威の武田軍が信玄の死によってとん挫したことです。
その後、織田信長にとっては最初は同盟でしたが、だんだん家臣のような存在になってきていますが、それでも勝っている限りは愚直に従ったのが良かったかなと思われます。
これによって、本能寺の変の後に、大きく領地を広げる機会を得るのですから。

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