皆さん、こんにちは!
幕末の歴史に興味はありますか?わずか1ヶ月の間に日本の歴史を大きく動かした人物、それが岩倉具視です。
長い謹慎生活から復帰したばかりの彼が、徳川慶喜の大政奉還から王政復古、そして鳥羽・伏見の戦いまで、いかにして時代を動かしたのか。特に、「錦の御旗」という伝説的なアイテムが、どのようにして戦いの勝敗を決定づけたのか、その裏側に迫ります。
この記事では、歴史が少し苦手な方にも分かりやすいように、丁寧な言葉でその激動のストーリーをひも解いていきます。さあ、一緒に歴史の舞台裏を覗いてみましょう。
岩倉具視、復帰からわずか1ヶ月のスピード革命
岩倉具視は、1867年11月に謹慎処分が解かれ、朝廷に復帰しました。ここから日本の歴史は、驚くべき速さで動き始めます。
徳川慶喜が政権を朝廷に返上した「大政奉還」に対し、朝廷側は「王政復古の大号令」を発することで応じます。これは、朝廷が日本の政治の中心に立つことを宣言した、事実上のクーデターでした。
このクーデターは、薩摩藩、土佐藩、尾張藩などの討幕派が御所を封鎖し、反対派を排除することで実現しました。岩倉具視はこの計画の中心人物の一人であり、彼の復帰がこの動きを加速させたことは間違いありません。
国葬第一号は薩摩の大久保利通
国葬第二号は錦の御旗を捏造した岩倉具視だった pic.twitter.com/zJAXO1JGE1— 梵 (@ombon8) August 30, 2022
小御所会議:徳川慶喜への「辞官納地」要求の真相
「王政復古の大号令」の後、今後の日本の体制を話し合うために小御所会議が開かれました。この会議の最大の焦点は、徳川慶喜の処遇でした。
会議は慶喜の出席が許されないことへの批判で紛糾しましたが、ここで岩倉具視が立ち上がります。彼は、慶喜が政治的・経済的な権力を朝廷に返上する「辞官納地(じかんのうち)」によって、新政府への誠意を示すべきだと強く主張しました。
議論が平行線をたどる中、薩摩藩の西郷隆盛は、反対派を武力で排除するような強硬な態度を見せます。この強烈なプレッシャーによって、最終的に「慶喜の辞官納地」が決定されます。
この出来事は、岩倉と西郷がもはや後に引けないという「不退転の決意」で臨んでいたことを物語っています。彼らにとって、この改革を成功させることこそが、唯一の生きる道だったのです。
徳川慶喜の反撃と鳥羽・伏見の戦いの勃発
慶喜は辞官納地に応じる姿勢を見せつつも、大阪城に拠点を移し、外交権を確保するなど、政治的な巻き返しを図ります。一方で、江戸で発生した薩摩藩邸焼き討ち事件が、幕府内の主戦派の感情を激化させます。
1868年1月、ついに幕府軍は「討薩(薩摩を討つ)」を掲げ、京都に向けて進軍を開始します。しかし、この時の幕府軍には、決定的な弱点がありました。それは「何のために戦うのか」という明確な目的が共有されていなかったことです。
「徳川と薩摩の私的な争い」「朝廷の奸賊(悪人)を除くための戦い」といった曖昧な大義名分では、兵士たちの士気も上がりません。この戦略的な弱点が、後の敗北につながっていきます。
岩倉具視の究極の決断:「錦の御旗」の登場
1月27日、鳥羽・伏見で戦闘が開始されたという一報が京都に届きます。朝廷内では、この戦争にどう関わるべきか、激しい議論が交わされました。松平春嶽や山内容堂といった穏健派は、朝廷は中立を保つべきだと主張します。
しかし、この時も岩倉具視は揺るぎませんでした。彼は、ここで妥協すればこれまでの努力が全て水の泡になると考え、ある「切り札」を準備していました。
それが、「錦の御旗(にしきのみはた)」です。
これは、朝廷が「官軍」であることを示す象徴であり、これを掲げることで、徳川軍は「朝敵(ちょうてき)」、つまり天皇に弓を引く反逆者と見なされることになります。
「このままでは我々の命も危うい。ならば、最後の手段だ!」
この言葉は、岩倉具視の覚悟の深さを物語っています。彼は、正式な手続きを経ずに、自身の発案でこの御旗を準備させていたのです。
仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)を征討大将軍に任命し、錦の御旗と「節刀(せっとう)」と呼ばれる刀が与えられると、事態は一変します。
戦闘の目的が曖昧だった幕府軍の諸藩は、「天皇に逆らう者」となることを恐れ、次々と戦意を喪失。日和見を決め込む藩や、官軍に寝返る藩も現れ、戦いの大勢はわずか数日で決まってしまいました。
鳥羽伏見の戦い勃発2日後の慶応4年の今日(1/5)、薩長軍が錦の御旗を掲げます。これは岩倉具視が勝手にこしらえた旗で、薩長軍は心理戦に出ました。慶喜は薩長の思惑通りに「俺は朝敵になってしまった…」と落ち込み、戦意を喪失。写真は、何年か前の福島民友に載ってた、新たに発見された錦の御旗。 pic.twitter.com/tNup2iUEH5
— 幕末ジャーナリスト(新選組検定事務副長) (@kuni_s47) January 5, 2025
まとめ:岩倉具視と徳川慶喜、勝敗を分けた「決意の差」
鳥羽・伏見の戦いの結果は、徳川慶喜と岩倉具視の「決意の差」にあったと言えるのではないでしょうか。
- 徳川慶喜: 政治的な駆け引きには長けていましたが、いざという時の「不退転の決意」と「明確な戦闘目的」に欠けていました。戦いを有利に進められる状況だったにもかかわらず、その曖昧な姿勢が敗北を招いたと言えるでしょう。
- 岩倉具視: 長い謹慎生活を経て、もはや失うもののない彼は、勝利のためならどんな手段もいとわないという強い覚悟を持っていました。この必死の決断が、「錦の御旗」という奇策を生み出し、戊辰戦争の序盤戦を官軍の勝利へと導いたのです。
この鳥羽・伏見の戦いは、単なる武力衝突ではなく、明確な「大義」を掲げた側が勝利するという、幕末の歴史を象徴する出来事でした。
岩倉具視という一人の人物の行動が、いかにして日本の歴史を変えたのか、この記事を通じて少しでも感じていただければ嬉しいです。
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