岩倉具視の一世一代の決断が戊辰戦争の勝敗を決することに

歴史人物

岩倉具視は5年にもわたる謹慎生活から朝廷に復帰しましたが、王政復古の大号令、徳川慶喜の辞官納地問題まで僅か1ヶ月の間に展開していきます。

そして最大の山場は慶喜が薩摩討伐を名目に京都に進軍したことで鳥羽伏見の戦いが始まるのですが、その時岩倉が決定的な決断と策を提供しています。

この戊辰戦争を決定づけた決断と策を説明します。

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徳川慶喜の大政奉還に対して朝廷側は王政復古の大号令で

岩倉具視は1867年11月に謹慎処分が解けて、朝廷に参内するようになります。

朝廷は諸侯会議を招集して新体制を定めることとし、尾張、越前、薩摩、土佐、宇和島、安芸、肥前、備前らに上洛を命じ、幕府は国内統治として留まることになります。

討幕派にはこれは面白くありません。このために佐幕派を排除するクーデターを計画します。

1868年1月3日、薩摩、土佐、安芸、尾張、越前の藩兵が御所を封鎖し、親朝廷派を御書への参内を排除する行動に出ます。これによって朝廷を押さえることができたわけです。

ここで残念なことは慶喜はこの計画を知っていたにもかかわらず行動を起こしていないことです。

朝廷を押さえた方が有利となることは理解していないわけはないので、自分によほど自身があったのか相手をよほど見くびっていたのかどちらかでしょう。

二条城に拠点があるので、ここから抑えにかかれば事態は有利に展開していたはずです。ただどれだけ兵が確保できるかが問題ですが。

これによって、王政復古の大号令を発することになります。事実上の朝廷でのクーデターです。この中身は次の通りです。

1.将軍職辞職を勅許。2.京都守護職・京都所司代の廃止。3.幕府の廃止。4.摂政・関白の廃止。5.新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

総裁1名、有栖川宮熾仁親王、

議定10名、仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津茂久(薩摩藩)、徳川慶勝(尾張藩)、浅野茂勲(芸州藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)

参与20名、岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩士三人(丹羽賢、田中不二麿、荒川甚作)、越前藩士三人(中根雪江、酒井十之丞、毛受洪)、芸州藩士三人(辻将曹、桜井与四郎、久保田平司)、土佐藩士三人(後藤象二郎、神山左多衛、福岡孝弟)、薩摩藩士三人(西郷隆盛、大久保利通、岩下方平)

小御所会議において徳川慶喜への辞官納地を決める

この後、小御所会議が設けられます。徳川慶喜の出席が許されていないのを非難する議論が続いたが、逆に岩倉具視が逆襲することとなり、徳川慶喜が辞官納地をして誠意を見せるべきと切り返します。

しかしながらなかなか決着がつかず、休憩の間に西郷が出席者の粛清を行う姿勢を見せることで、最終的には徳川400万石の半分200万石の辞官納地を要求することで議論は決した。

脅しか本気かはわかりませんが、本気だったと思います。ここで決着がつかなければならないので、西郷にしても岩倉にしても朝廷以外に居場所がないわけですから、不退転の決意だったのでしょう。

その後の神経戦で幕府側は徐々に巻き返しを図っていきます

この後でも、政治的な動きは続いているのです。徳川慶喜は征夷大将軍を廃されても上様として全国を支配する意向を示すことになる。

また、朝廷側でもあまりに行き過ぎた改革に諸藩が動揺し御所からの藩兵の引き上げを示すようになり、妥協が必要となってきます。

朝廷側では慶喜が辞官納地に応じれば、議定として、前内大臣の地位を保全する妥協を図るようになります。

徳川幕府方はかなり神経戦で揺り戻しを図っているのです。この後、慶喜は恭順の意を表するとして、二条城から大阪城に移ります。慶喜は慶喜の方で外国政府に対して外交権が幕府にあることを承認させるようになります。

その後は、大阪城にこもったまま神経戦を開始しています。朝廷側は辞官納地を本当に受けるのかどうか疑心暗鬼の状態が続きます。朝廷の中では松平春嶽が慶喜の擁護を展開しています。

ここらの連携があったかどうかはわかりません。やはり幕府側の諸大名は長年統治してきただけに、したたかな対応をしています。このままのペースでいけば、幕府側は質量ともに優っているのですからひっくり返すことはできるのです。

ただ、決定的に欠けているのが、西郷、岩倉たちのような不退転の決意です。

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幕府内での薩摩討伐の盛り上がりから鳥羽伏見の戦いに発展

大阪城の中では幕閣の中でも主戦論が展開を始めます。そして、1月中旬ごろには、京都を囲むように幕府軍を展開することになります。

作戦としては、これで良いのです。できればこのままじわじわと京都を封鎖し続けるほうが良かったのでしょう。慶喜の作戦は、最良ではなかったものの、この時点では当を得ていたのです。

何しろ幕府方の勢力は1万5千で朝廷方の3倍です。しかも近代装備の軍も擁しています。しかし江戸の方で薩摩による焼き討ち事件の報告が入るとともに、大阪城内は薩摩討伐の勢いが主流となってきます。

ついに幕府軍は京に進軍することに

幕府軍は1月26日「討薩表」を出して、京に進軍することになります。

もうこうなると戦争になるのは明白です。それなのにこれを徳川と薩摩の私戦、とか、朝廷の奸賊を除くための戦いなどと体裁を取ることがまずいのです。

せいぜい御所に突入して天皇を救出して、天皇を閉じ込めている勢力を打倒するというそれこそ不退転の決意を示さなければならなかったのです。

こんな感じですから、1月27日から始まった戦闘も戦闘目的がはっきりしないままに、各個撃破されてしまいます。

戦闘開始の報をうけた朝廷側の対応は

1月27日に戦闘が始まったことを受けて緊急の会議が開催されます。松平春嶽とか山内容堂はこれは徳川と薩摩、長州の戦いであるので、朝廷は中立を守るべきと抵抗勢力となって事態を収めようとしています。

ここで、岩倉具視の決心が大勢を決することになるのです。幕府側に今日まで進軍されてしまっては、もはや勝ち目はないしこれまで朝廷を押さえていたことも無に帰すことになります。

もはや岩倉も、西郷も、大久保も引くことができないのです。この不退転の決意がこの鳥羽伏見の戦いの帰趨を制することになります。

錦の御旗の登場で戦闘の大勢は決まってしまいます

ここで登場するのが錦の御旗というものです。何日か前から最後の手段として準備していたようです。もちろん正式のものではなく岩倉発案の陰謀です。

しかし、その場を切り抜けるためにはどんなことでもするというそれこそ必死の対応がなした事です。ここまでくれば腹はきまります。

朝廷では仁和寺嘉明彰親王を征討大将軍に任命し錦の御旗と節刀を与え官軍とします。これで勝負ありということになります。

戦争目的がはっきりしない幕府方の諸藩は次々と日和見を決めるか、逃亡するか、官軍側に寝返ってしまいます。結果は皆さまのご承知の通りです。

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岩倉具視の一世一代の決断が戊辰戦争の勝敗を決するのまとめ

鳥羽伏見の戦いの背景から事前の状況について解説してきました。この時の徳川慶喜と岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通の姿勢の差が勝敗を決したと考えられるのではないでしょうか。

逆に、徳川慶喜は策に溺れた感があるようです。しかも、戦闘目的がはっきりせず、それが全体に伝わっておりません。最初は京都を取り囲んで威力行動をするつもりで、前線を展開したはずです。

それが、目的をはっきりさせないままに、京に進軍したため、どう見ても戦闘意欲に欠ける展開となってしまいます。

徳川慶喜は全体的な着想は優れていますが、どうしても自分本位の作戦になり、戦闘目的を徹底しないことがこの失敗につながったのでしょう。

もっとも、徳川慶喜は結果としての早急な政権交代を行ったことを狙っていたのでしょうか。これは誰もわかりませんし、本人も最後まで語らなかったようです。

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