東条英機内閣はなぜ成立したのか?日米開戦は避けられたか?

歴史人物

東条英機が内閣の首班指名を受けて組閣したときに、戦時内閣が成立したといわれています。一方、東条英機を首班に指名したのは、陸軍を押さえるためとも言われています。

一体どちらが正しいのでしょうか。そして、東条内閣が成立しても戦争への道を避ける方法はなかったのでしょうか。今回はこのようなテーマを説明していきます。

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東条英機内閣の前の近衛文麿内閣が辞職した理由

正確には第3次近衛内閣1941年7月18日から10月18日まで続いた内閣ですが、これは第2次近衛内閣で独断専行気味だった松岡洋右外務大臣を外すことで成立した改造内閣でした。

7月に南部仏印地区に進駐したことがアメリカの反発を受けることになり、米国内の日本資産の凍結、8月には石油類の対日輸出の禁止まで招くことになります。

9月には御前会議で帝国国策遂行要領を決定し、10月下旬までに対米戦の準備を完了することになってしまいます。

この背景としては、海軍は対米戦の勝算が見通せないにもかかわらず、それを公言できない陸軍も仏印、中国からの撤兵は考慮できるが、それを表立って表明することはできない

このようにそれぞれの組織のメンツと建前を重視して、国策が考えられないことに原因があったと思われます。

近衛首相はフランクリン・ルーズベルトとの会談を企画して、大筋の合意を得て、その後に決めようとします。いわゆる頂上決定方式ですが、これも方法論で失敗に終わります。

それでも外務省は対米譲歩案を作ってまとめようとしますが、これも拒否され、万策尽きた形で近衛内閣は総辞職となってしまいます。

10月14日の閣議でも東条陸相は「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか。」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です。」と、強硬な発言を展開しています。

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強硬派の東条英機が首相になった理由

当初は陸軍将官であった東久邇宮稔彦王が幅広い支持を集めていました。しかし、この時、こんな忖度が起こるのです。

「戦争が起こった場合皇室が責任を取るのはまずいのではないか。」「対米戦が起こった際に、敗北は必至の状況であるから、開戦時の首相が皇族ではまずいのではない。」「皇室が国民の怨嗟の対象になる可能性がある。」などです。

変ですよね。この頃の重臣は、既に戦争になることを織り込み済みで議論しています。しかも、アメリカと戦争をして勝てないことまでわかっています。

それなのに、戦争の責任が皇室に及ぶことを避けて別の人から首相を選ぼうとしています。一番被害を被るのは国民ですが、明治憲法の下ではまだその視点はないですね。でもここまで見通せても、まだ戦争をする神経が理解できないでしょう。

それでも、ほとんど希望はないが、対米戦争を主張する陸軍を押さえるには、現役陸軍大臣の東条英機しかないという結論に達したようです。

また、加えて、東条英機は昭和天皇に対する忠誠心が強いので、昭和天皇が開戦に消極的な意向があるのを最大限汲み取って、開戦を避けてくれるかもしれないという期待もあったようです。

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東条首相及び内閣はどのような行動をとったのか

東条英機は首相指名の際に、昭和天皇から対米戦争回避に尽くすよう指示を受けております。このため外務大臣には東郷茂徳を決めて、一旦帝国国策遂行要領を白紙に戻します。

内閣の発足から東条英機首相は姿勢変更

11月1日の内閣発足から、従来の対米開戦路線の姿勢とは打って変わって、対米和平に取り組むこととします。

対米交渉の妥協案として中国からの撤兵を含んだ案も作成し、日独伊三国軍事同盟の形骸化も含んだ案で交渉しようとしていきます。

ハル・ノートの提示を受けてすべては水泡に

しかしながら、これらの努力も11月26日にアメリカ側から提示されたハル・ノートの提示によって瓦解してしまいます。

ちなみにこの内容を下に記載しておきます。

ハル・ノート

第一項「政策に関する相互宣言案」

一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則

他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則

通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則

紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則

(略)

第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」

イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案

仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保

日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵

日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力

最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始

アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除

円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立

日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)

本協定内容の両国による推進

日本にとっては、致命的ともいえる中国からの撤兵、汪兆銘政府の非承認、三国軍事同盟の否定が明確に入っています。

さすがに、対米協調派の東郷外相にしてもこれに失望し、開戦論に傾いていきます。この内容を見た関係者はすべて失望したことでしょう。事実上の最後通牒と受け取ったのではないでしょうか。喜んだのは開戦派の面々だけだったようです。

こうして、乗り越えられないところまで来てしまった日本は、交渉を断念し対米開戦を決意することになります。この段階ではすべての閣僚が対米開戦やむなしとなったようです。

対米開戦決定を上奏した東条首相は、天皇の意向を実現できなかったことから、上奏中に何度も涙声になったとも言われています。また、開戦の日に首相官邸の自室から皇居に向かって泣いてお詫びをしたともいわれています。

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東条英機内閣はどのように成立したのかのまとめ

対米開戦派の東条英機を首相に指名したことについては、ある程度機能したようです。そして、交渉ができれば、あるいは開戦を避けられたかもしれません。

しかしながら、ハル・ノートを突きつけられた段階で勝負ありということになるでしょう。それでも、交渉する可能性もあったようですが、中には何人かの有識者も指摘していますが、まず、無理だったのではないでしょうか。

その前提として私は2つの問題があると思います。

1つ目は、日本側の組織があまりにもセクショナリズムで固まって、国益全体を考えていないことです。海軍もそうです。

戦争をすれば必ず負けるということがわかっていてもそれを言えない、言わない体質です。組織として体裁が悪いということと、国を亡ぼすことの順序ができていないことです。

2つ目は、それまでの教育の成果かどうかわかりませんが、日本全体が、日本の実力を知らないままに舞い上がっていたことです。

それまでのマスコミ操作も功を奏していたのでしょう。ハル・ノートの内容を提示すれば、国内中大騒動になってすぐに開戦を決意してしまうでしょう。

でも、この二つは今も解消されていないような気がしますが、いかがでしょうか。

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