大隈重信といえば早稲田大学の創設者として有名です。大学をバックにした銅像の写真が有名ですが、実は右足が義足なのです。どうして右足を失うことになったかその理由を解説していきます。
そして、その時の背景として、彼の外務大臣として不平等条約改正という明治政府の念願にどのように取り組んだかを解説します。
大隈重信が右足を失った事件はどのように起こったのでしょうか
明治22年(1889年)当時大隈重信は外務大臣の地位にありました。
10月18日午後4時ごろ総理官邸から外務省に戻る途中の外務省正門のところで(外務大臣公邸とも言われています)、国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜が大隈が乗っている馬車に爆弾を投げつけます。
外務省でしたら今も明治時代も位置は変わりませんから、外務省の桜田通りに面したあたりでしょう。
大隈重信はその後の手術で一命はとりとめますが、右足の大腿部から切断することになってしまいます。
爆弾を投げつけた来島常喜はその場で喉をついて自害してしまいます。(皇居に向かって割腹自殺したともいわれています。)よほど覚悟ができていたのでしょう。
大隈重信が爆弾を投げつけられた理由は何だったのでしょうか
幕末に欧米列強と結んだ不平等条約のうち日本に在留する外国人の裁判権が日本にないことが一つの問題とされていました。
中学では治外法権の撤廃と習ったことと思います。外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けないのですから、不平等といっても仕方がないでしょう。それだけ欧米から見て日本の法制度が信用できなかったということですが。
大隈重信外務大臣が取り組んだ条約改正
この条約改正は明治政府の悲願として歴代の政府が取り組んできました。大隈重信も明治21年に外務大臣として最優先事項として取り組みます。
明治21年(1888年)メキシコとのあいだで完全な対等条約である日墨修好通商条約が結ばれるという幸先の良いスタートを切ることになりました。
条約改正交渉の内容は前任の井上馨外務大臣の内容を大筋引き継ぐものだったのです。
とりあえず完全な治外法権の撤廃は難しいので、外国人が関与する犯罪については、裁判官、検察官に外国人を任用するなどの妥協案で進めていました。
この妥協案は、明治22年(1889年)アメリカ合衆国、ドイツ帝国、ロシア帝国と調印までこぎつけます。そしてイギリスと交渉中でした。
条約改正内容がタイムズにリークされると世間は
しかしこの交渉過程が、イギリスのタイムズにリークされてしまいます。
このため、日本の世論から激しい反対運動が起こります。反対論の主流は日本の司法権が犯されるというものです。
外国人が関与した事件はいくら日本の制度に準拠しても日本人裁判官が裁けないのですから、屈辱的と考えるのでしょう。ある程度の限定を加えても一旦火が付いた以上はなかなか消せませんね。
明治政府内の意見調整はどうなったか
更に困ったことには、政府内部からも、制定されたばかりの大日本帝国憲法に抵触するという反対運動も起こっています。これは裁判官、検察官は日本人であることという原則です。
この時期、大日本帝国憲法の制定も同時並行で進んでいましたので、伊藤博文は憲法に専念、大隈重信は条約に専念ということで、ほとんどお互いのやり取りがない状態でした。ほとんどの閣僚が反対する中、賛成者は黒田首相、大隈外相だけとなってしまいます。
最後は明治天皇まで出てきて、調整に乗り出しますが、黒田首相、大隈外相は最後まで強硬路線で、譲りませんでした。10月18日も条約改正の閣議が開かれ議論は平行線のまま終了したのです。
面白いのは、明治天皇がわざわざ調整に入っても、黒田首相も大隈外相も簡単に下りない状況が続くことです。戦前の天皇は絶対と思っていましたが、そうでもないようです。
正解は大隈重信でした。
内閣総理大臣、外務大臣などを務め、明治維新から大正時代まで長きにわたって政治の世界で活躍したほか、早稲田大学の創設者としても知られています。
当時のジャーナリストは早稲田出身が多く、大衆人気の高かった大隈の好感度アップに一役買っていたそうです。 pic.twitter.com/CUSKANfftR— 東京歴史倶楽部 (@rekishiclub) July 20, 2020
爆弾を投げた来島常喜はどんな人だったでしょうか
来島常喜は福岡藩士の二男として1860年福岡に生まれます。
福岡で教育を受けた後上京し、不平等条約の解消、国会開設を要求する結社や欧米の植民地主義に反対する大アジア主義を掲げる右翼団体の玄洋社に所属していました。
大隈重信の条約改正案がスクープされると、この改正案については反対しておりました。直前に玄洋社を退職してとも言われています。大隈重信襲撃事件では単独犯として実行しています。
大きくて立派な墓が目に入ったので、誰だろうと近づいたら、大隈重信に爆弾を投げつけて自害した来島恒喜でした。先日の谷中霊園。 pic.twitter.com/58T6jq3Kmj
— 遠矢浩規 (@tohyaofficial) April 26, 2019
大隈重信の遭難事件によって条約改正はどうなったのでしょうか
事件の翌19日、黒田清隆首相と山縣内相は明治天皇に拝謁し条約改正の延期を伝えます。そして閣議で条約改正の中止を決定し、アメリカ、ドイツ、ロシアの調印済みの条約も延期を申し入れます。
ほぼ完成まで来ていたのに大隈重信としては残念だったでしょう。
4日後の22日は入院中の大隈重信を除き全閣僚が総辞職の意向を表明します、最終的には黒田首相と、大隈外相以外の閣僚は留任するという結果になりました。
現代から見ると変な気がしますが、現代と違って、各大臣が天皇に信任を得る形になっているの、こういうことも起こるのです。結果的に黒田首相と大隈外相は責任を取らされたような形になったのでしょう。
この妥協的な条約改正の方針は取りやめて、対等な条約改正を目指して外交努力を続けていくことになります。更に5年の期間がかかり、1894年の日英通商航海条約によって実現することになります。
本日は来島恒喜烈士のご命日。全生庵での法要と墓参へ。
当時の外務大臣・大隈重信による不平等条約解消案に反発した烈士は単身、爆弾を投げ、大隈暗殺を図り自決。
大隈の身体自体は右足の喪失のみに終わりましたが、内閣総辞職。
ナショナリストによるテロルが政治を突き動かした歴史の一つです。 pic.twitter.com/PDOJBqfCnR— kazz (@kazz2650) October 18, 2018
大隈重信は犯人の来島常喜をどのように考えていたのか
大隈重信はその後来島に関しては意外と評価しているのです。
「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」とか、「いやしくも外務大臣である我輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と言っていたそうです。
現代の感覚からすると相当の開きがありますよね。やはり明治の人間は動乱を経験したので、腹が座っているのでしょうかね。ほんの切り傷を負わせただけでも後々まで恨むのが世の常ですから。
そして、なんと来島の法要に毎年代理人を送り続けていたそうです。
明治27(1894)年 7月16日 日英通商航海条約調印。初めて領事裁判権が撤廃される。
日清戦争勝利を契機に日本が明治の初めから取り組んでいた各国との不平等条約の条約改正交渉の結果、ようやく達成で最初の改正条約。安政五カ国条約締結以来、日本政府の悲願だった治外法権の撤廃がなされた。 pic.twitter.com/moeREVpHaE
— 藤井勝 (@prideofjapan2) July 15, 2021
大隈重信の右足は義足だと知っていますかのまとめ
大隈重信の義足の話から当時の不平等条約の改正の一コマ、幻の条約改正を取り上げてみました。明治時代も22年にもなって世の中も落ち着いたかと思いますが、それでもこんな事件が起こるものなのですね。
それにしても、大隈重信の来島に対する発言が以外で面白いですね。あんなことをされても、評価することについて、度量が大きいのか、その当時の世相がそうなのかわかりませんが。
なお、大隈重信の右足は、しばらく自宅で保管していたようですが、早稲田大学から大隈の菩提寺である佐賀県の龍泰寺に保管されているそうです。残念ですが公開はされていません。
義足については、早稲田大学大学史資料センターと佐賀市の大隈記念館にあるそうです。
来島についても意外な人が援助をしています。例えば谷中の来島の墓は勝海舟が建てたとか。また、来島の墓碑、別の墓碑だと思いますが、戦前の首相だった広田弘毅の父親が寄贈したとも言われています。
彼らとどんな関係があったのかはまだ調べられませんが、意外とつながっているものです。
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