伊藤博文の女好き、女癖のエピソードとその妻子

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日本での初代の総理大臣であった伊藤博文は数々のエピソードがありますが、その中で有名なのは無類の女好きということです。

とにかく、傍らに女性がいないことはないというくらいの人だったそうです。

立派なのは、新聞記事のスキャンダルになったり、それを読んだ明治天皇からお叱りを被りますが、全く気にしなかったそうです。そんなエピソードをご紹介します。

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伊藤博文の妻は何人いたのか

女好きで有名だった伊藤博文ですが、妻になったのは二人だけです。意外とあっけない感じなのです。どうやら二番目の妻が立派すぎたみたいです。

伊藤すみ子は先輩の妹

伊藤博文は若いころ禁門の変で斃れた松下村塾の先輩にあたる入江九一の妹すみ子を嫁にもらいます。

この人は松下村塾の同輩でもあり、後の伊藤博文内閣の内務大臣になった野村靖の妹でもあります。

ここまでは良かったのですが、その後、下関の芸者小梅と関係し、子供までできてしまいました。このため、先妻のすみ子は離縁されてしまいます。

浮気の相手の妊娠で、正妻が離縁されるなんて本末転倒ですが、気の毒なことでした。すみ子は再婚したそうです。

伊藤梅子は美人芸者

その小梅とは1866年に結婚しています。これ以降は再婚しておりませんので、2名だけとなります。

意外とあっけない感じがしますが、小梅変じて梅子という女性は大変偉い人でした。梅子は大変に向学心が強く、和歌を学び、英語まで学び、婦徳の鑑とまで称されているそうです。

何しろ、伊藤博文は次々と芸者を家に連れてきて、一緒に寝泊まりするし、お金も全部使ってしまうという性質でしたが、梅子は連れ込んだ芸者の世話をしたり、お化粧の手伝いをしたり、お土産まで持たせたといわれています。よくできた奥さんと言えば奥さんですよね。

博文が暗殺されたときにも涙一つ見せなかったといわれていますが、直後に「国のため光りをそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と和歌を詠んだといわれています。

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伊藤博文の子供は何人いたのか

伊藤博文と関係した女性は数えきれないほどでしたが、子供は意外とできなかったようです。何十人と言われている渋沢栄一とか徳川慶喜ほどではなく、生まれたのは6人で、育ったのは5人だけでした。

長女貞子

長女の貞子は夭逝します。

二女生子

二女生子は母が梅子です。後に内務大臣になる末松謙澄(けんちょう)に嫁ぎます。

末松謙澄は豊前国に生まれ、勉学の末、東京日日新聞に勤めます。やがて社長福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て、政府に入ります。

日朝修好条規の起草、西南戦争では降伏勧告状の起草もしています。イギリス留学中には、1879年に義経=ジンギスカン説を唱える論文を発表しています。生子とは帰国後の1889年に結婚しています。

その後、法制局長官、男爵、貴族院議員、逓信大臣、内務大臣、子爵、帝国学士院会員を歴任しています。1920年にスペイン風邪のため亡くなっています。

三女朝子

三女朝子は母が伊藤家の女中でした。西源四郎は長門国の出身です。外務省に勤めます。シャム特命全権公使、ルーマニア特命全権公使になっております。

この方の系統からは外務省関係者が多く出ております。松本剛明衆議院議員、元外務大臣も玄孫にあたります。

長男文吉

長男文吉は庶子ですが、後に伊藤家の養子になります。日本鉱業の社長になります。男爵の爵位をもらいます。

二男眞一

二男眞一の母は新橋の芸者・歌です。満鉄大阪事務所長を務めます。

四女澤子

四女澤子も庶子です。戸籍上は日高憲明の二女ですが、後に二女の生子夫妻の養女となります。

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伊藤博文の女好き、女癖のエピソードは

伊藤博文はとにかく亡くなるまで、病気だろうが、仕事中だろうが、国家の大事の戦争、条約締結交渉時でも、一貫して女性を求めていたのですから、ほぼ病気のようなものです。

基本的には芸者が相手ですので、当時としてはそれほどスキャンダルになることもなかったようです。

本人もそんなことは最初から認めているようですし、気にもしなかったようです。それでも、こんなエピソードが。

相手にしてはいけない相手に手を出して

伊藤博文は鹿鳴館時代にパーティに参加しますが、この時に戸田極子(とだきわこ)に夢中になってしまいます。

戸田極子は岩倉具視公爵の三女で美濃国大垣藩知事の戸田氏共伯爵の妻になっていました。その美貌から鹿鳴館の華と呼ばれていました。

いくら総理大臣でも相手が相手ですから遠慮しておればいいものを、関係を迫ったとも言われています。一説には、極子は鹿鳴館から裸足で脱出したとも言われています。

そんなことですから、さすがに当時としても大きなスキャンダルになったようです。伊藤博文が1888年に首相を辞任したのは、日本国憲法を起草する枢密院議長に就任するためと公式には言われていますが、このスキャンダルが原因とする説もあります。

明治天皇のお叱りもなんのその

伊藤博文の女癖があまりにも醜いため、ついに明治天皇が直々にお叱りしたとも言われています。

それでも堂々と、自分は秘かに囲い者を置いているのではなく、公認の芸者と堂々と遊んでいるだけです。と答えたようですから、立派なものです。

確かに、伊藤博文の場合は何も隠し立てせずに、ひたすら遊んでいるのですから立派と言えば立派なものです。

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伊藤博文の女好き、女癖のエピソードとその妻子のまとめ

伊藤博文と言えば大日本帝国憲法の発案者であり、大久保利通亡き後の日本の骨格を形作る様々な制度を作って生きた人です。その業績は言い尽くせないくらいです。

しかしながら、その一方ではこんなような一面もあったということです。表の世界で理を尽くして物事を突き詰めていった一方、こんな生き抜きをしていたのでしょう。人間とはわからないものです。

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