清水卯三郎のパリ万博での功績と文明開化への貢献

歴史人物

清水卯三郎は、幕末から明治時代にかけて多方面で活躍し、特にパリ万博での日本茶屋展示を通じて国際的に高い評価を受けました。埼玉県出身の彼は、渋沢栄一と同時代を生き、西洋の先進文化を日本に取り入れることに尽力しました。この記事では、彼の経歴や文明開化における先駆的な役割について詳しく掘り下げます。

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清水卯三郎の経歴とパリ万博での活躍

清水卯三郎は幕末から明治時代にかけて多岐にわたって活躍した実業家で、特に1867年のパリ万博への参加で著名です。彼はこの万博に日本から唯一の商人として参加し、日本の伝統的な茶屋を展示しました。この展示は非常に好評を博し、ナポレオン三世から銀メダルを授与されるほどでした。この成功は、西洋諸国との文化交流の架け橋となり、後の日本の国際展示会への参加にも大きな影響を与えました。

清水卯三郎の経歴は

とりあえず、簡単な経歴をまとめます。

1829年4月7日(文政12年3月4日)武蔵国埼玉郡羽生村に酒造業を営む清水家の三男として生まれる。

1849年(嘉永2年)蘭語を教わる。

1856年(安政3年)本草学と西洋薬学を応用した「日本大黄考」発刊。

1859年(安政6年)英語を学ぶ。

1860年(万延元年)『ゑんぎりしことば』(英語辞典)を発刊する。

1863年(文久3年)の薩英戦争の際には英国側通訳として参加。英国艦船に拘束されていた薩摩藩の五代才助、松木弘安を保護。

1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に日本人商人として唯一の参加・出品を行う。

1868年(慶応4年)浅草に貿易商として「瑞穂屋」を開店。

1869年(明治2年)「六合新聞(りくごうしんぶん)」を刊行し海外事情を紹介。

1874年(明治7年)には化学の入門書の翻訳「ものわりのはしご」を出版。

1875年(明治8年)歯科医療機械を輸入販売。

1881明治14年、「西洋烟火之法」発刊。「保歯新論」発行。

1894年(明治27年)「日本大辞林」発行。

1910年(明治43年)1月20日に死去、享年82。埼玉県羽生市北の正光寺。

パリ万博での日本茶屋展示とその影響

1867年のパリ万博には唯一の商人として参加する。万博会場に日本のお茶屋を分解して運び、現地で組み立てさせ、「日本茶屋」と称します。

茶屋は檜造りで六畳ひと間に土間、そして建物の周囲には植木を散らした日本庭園がしつらえています。

柳橋芸者3名をパリまで連れてきて、芸者衆に独楽を回して遊ばせたり、キセルでたばこを吸わせたり、有料で茶菓のもてなしもさせた。現代のお金にすれば3,000円ぐらいと言われています。

この柳橋の芸者「すみ」「かね」「さと」の名前も残っています。彼女たちはどんな心境でパリまで来たんでしょう。どんな人たちだったかは興味がありますが、調べることができませんでした。

この催しは大変好評で、何度もリピーターが現れる始末で、結構儲かったようです。展示物中心の博覧会から、現代でいえばコンパニオンも導入したことがユニークかと思います。

博覧会終了後、ナポレオン三世から銀メダルを授与されました。

その他の国際的な貢献

万博後、卯三郎は欧州とアメリカを巡り、多くの知識と技術を日本に持ち帰りました。これには歯科器具や活版印刷機などが含まれ、彼はこれらを日本に初めて紹介した人物とされています。また、彼は日本で初の歯科器具の輸入販売を行い、現代日本の歯科医療の基盤を築くのに寄与しました。これらの活動を通じて、卯三郎は日本の近代化と国際化に大きく貢献したのです。

これらの情報は、清水卯三郎の功績を深く理解するのに役立つでしょう。彼のパリ万博での活躍やその後の国際貢献は、日本の文化と技術が国際舞台で評価されるきっかけを作りました​ 。

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清水卯三郎と文明開化

ひらがな普及の提唱とその背景

1873年(明治6年)森有礼(初代文相)を中心に啓蒙団体明六社設立されます。福澤諭吉のほか、ほとんどが明治維新政府の新知識人ですが、卯三郎は商人ながら有力メンバーにはいっています。

1874年(明治7年)『明六雑誌』に「平仮名ノ説」を発表します。この中で、漢字廃止を唱えますが、そのかわりとして、ローマ字でなく、かな専用を採用しようとするものです。

独自の“やまとことば”を用いた。がな文学論者として、ひらがなの普及が国民の知識や教養の向上に役立つものとして、ひらがなの普及を進めました。

清水は経歴から言ってもオランダ語、英語、フランス語、ロシア語に精通しているばかりか、漢学にも造詣が深く、現代でいけば語学の天才ですから、その体験から得た結論かとも考えられます。

日本の文章は漢字かな交じりですので、確かに文章の普及を考えると難しい点があります。そういう意味では、ひらがな一本は欧米と同じ形なので、普及しやすいとも考えられるでしょう。

この考えのもとに、同志とともに「かなのとも」を作り、機関誌「かなのみちびき」を創刊することとなりました。

1883明治16年、かな文字推進の三団体が団結し「かなのかい」を結成、卯三郎は機関誌などを出版し応援した。『かなのくわい大戦争』発行。

1887明治20年、『ことばのはやし』発行。1899年には「わがよ の き 上」を書き残したが、これは、自分の自叙伝のことですが、全て仮名文字で記されています。でも、読みにくいかもしれません。

自分の墓にも「志みづ うさぶらう の はか」とひらがなで書かれています。

歯科器械の輸入と医療分野への影響

1875年にはアメリカのS.S.ホワイト社から歯科器械を輸入し販売を開始しました。これが我が国の歯科器械販売の始まりとなりました。

最初の輸入品は、鉄蓋釜(蒸和釜),砥石車(レーズ),錐ヤスリ,歯抜,金切,アマルガムなどでした。

歯科関係の本「歯科全書」も出版しています。

1891年(明治24年)歯科医学に関する論文を、欧米歯科雑誌から抄訳して掲載した「歯科雑誌」を発行、また40種あまりの歯科に関する出版もしました。

卯三郎のこれらの取り組みは、日本の医療技術の近代化を促進し、後の多くの医療機器輸入業者に影響を与えました。また、彼は関連する技術書籍の翻訳と出版にも携わり、日本の歯科医療の知識基盤の向上に貢献したのです​。

これらのセクションは、清水卯三郎がいかにして日本の文化と医療の近代化に貢献したかを詳細に説明しています。彼の業績は、日本が急速に近代化する過程で重要な役割を果たしました。

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清水卯三郎の遺した影響とその評価

博覧会の開催提言とその後の影響

明治5年の段階で『博覧会ヲ開ク之議』という建白書を政府に提出します。これは1867年のパリ万博に参加した経験が大きく影響しているものでしょう。

その内容は次のようなものです。

博覧会を開催して天下万民の見識を広め、産業をさかんにして英仏の右にでることが私のたっての願いなのです。我が国の技術者たちは、一度 博覧会で西洋の機械に触れれば、たちまち知識も技術も高まって、かの国の力を奪う事になるでしょう

彼は博覧会を開くことにより、日本が貿易によって栄える道を切り開き、また西洋の製品の実物を見せることで、多くの日本人を触発し、これからの日本が、西洋の製品をそのまま輸入するだけでなく、西洋の技術を身に付け、自ら製品を作ることが出来る国にならなければならない。

これを受けた政府もと大いに評価しました。後に明治10年(1887)に第一回内国勧業博覧会を開催し、最新式の西洋の機械が展示されることになりました。

明治政府もそれほど余裕があったとは思えないのですが、どこかの政府に比べれば、中々対応が早いですよね。

清水卯三郎の業績のまとめと今日への意義

清水卯三郎の業績は、多岐にわたりますが、特に彼の国際貢献と文明開化への影響は計り知れません。パリ万博での成功を皮切りに、彼が日本に持ち帰った多くの知識と技術は、日本の近代化を促進しました。彼の歯科器械の輸入は、日本の医療技術の進歩に寄与し、ひらがなの普及提案は言語教育に新たな方向を示しました。

今日においても、彼の先見の明は日本社会に多大な影響を与え続けています。教育、医療、産業の各分野における彼の貢献は、明治時代の日本が急速に変化する社会に適応する上で、極めて重要な役割を果たしました。

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