大西瀧治郎中将の運命:終戦後の自決とその歴史的影響

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大西瀧治郎中将は終戦時に軍令部次長の要職に在り徹底抗戦を主張していました。そして、8月15日のポツダム宣言受諾の次の日に遺書を残し割腹自殺を遂げました。

一般には彼は特攻隊、神風特別攻撃隊の発案者として知られており、その責任を負って自害したとされています。しかし、特攻の責任は彼だけに帰するものではありません。

彼の戦争中の生涯については、「あゝ決戦航空隊」として映画化もされております。そして、彼が自害したことによりどのような影響があったのかを調べてみました。

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大西瀧治郎中将の最後と遺書は

昭和20年8月16日の午前2時から3時ごろに、渋谷区にある海軍の宿舎において割腹自殺を遂げたとされています。連絡を受けて何人かの人が駆け付けますが、介錯と延命措置を拒否してその日の夕刻に亡くなったといわれています。

海軍の宿舎は今の東急電鉄の本社があるあたりだそうです。

また、駆け付けた中にはその後、右翼の大物として有名となる、児玉誉士夫もおり、最後まで見届けておりす。

遺書は5通ありました。そのうち代表的なものは、つぎのものです。

特攻隊の英霊に申す

善く戦いたり深謝す最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり

然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、

吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

次に一般青壮年に告ぐ

我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い

聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり

隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ

諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く

特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と

世界人類の和平の為 最善を尽せよ

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大西瀧冶郎中将が自決をした原因は特攻作戦の実施にあったのか

大西は昭和19年10月に第一航空艦隊長官に内定しました。この時点での最重要課題は、フィリピン防衛となります。

しかし、その時点での航空戦力を考えたときに、戦力的にまともに戦える状態ではないので、各方面から体当たり攻撃の要望が相次ぐ状態になります。

大西自体も、それまでは体当たり戦法を提唱されていても、今はその時期ではないと退けていた一人です。

しかし、その時点でのフィリピン決戦のための戦力分析をしたときに、通常の攻撃では不可能という結論に達します。

この体当たり論はそれまでも、戦法としては提唱されていたのですが、ここで、初めて第一航空艦隊長官として正式に命令することになるのです。

その役割を担うことになったのが、大西です。いわばその外堀はすべて埋まっていて、後はボタンを押すだけになっていたのが、誰がボタンを押すのかという役割を引き受けたことになります。

このため、大西は当初はフィリピン作戦に限定して体当たり攻撃を行うことを海軍大臣に承認を求めています。しかし、これを行えば、必ずほかの部隊、また、陸軍もこれに同調することは想定されていました。

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特攻作戦によりレイテ沖海戦、フィリピン防衛戦の様子はどのようだったのでしょうか

大西は海軍の軍人ですから、連合国の機動部隊の殲滅、資材のマニラ湾からの搬入を阻止することを主眼に考えていました。

フィリピン防衛の想定される戦い方は

日本の海軍の状況を考えて、それだけこの戦いですべてが決すると考えていたのです。つまり連合国側は大舞台でマニラ湾に上陸しようとします。またそれを援護するために機動部隊を派遣します。

第一航空艦隊としてはこの機動部隊の機能を無力化する必要があります。そのため、航空母艦の甲板を使用不能にするために、爆撃を行うのです。

残念なことに航空将兵の技量から、もはや通常の爆撃では成果を上げることが難しいと判断したようです。

一旦航空母艦の甲板が使用不能になれば、マニラ湾に突入する日本の残存の戦艦部隊も航空部隊の援助がなくても十分に戦える可能性が出てきます。

特攻部隊はどのように編成されたのか

実際の編成はそれぞれの部隊に任されていましたが、10月19日から20日の間に人選は決定されました。そして10月20日に正式に決定しています。この攻撃隊の命名を神風特別攻撃隊と命名されています。

また、その隊名も国学者本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」から、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名されました。編成は26機ですが、体当たり攻撃は13機となっています。

21日から偵察が入り艦隊を見付けると出撃となりますが、なかなか、天候に左右されたり、発見できずに帰還したりしています。

そして25日から26日にアメリカ機動部隊に遭遇し、攻撃を開始します。空母1撃沈確実、空母1大火災、巡洋艦撃沈という報告が入ります。

一説によれば、戦死1,500名、負傷1,200名、艦載機128機喪失という成果を上げたとも言われています。アメリカ側もこの攻撃は想定していないため、かなりの被害があったようです。

その後の戦況はどのようだったか

この戦闘の成果は、広く伝わり、他の部隊、陸軍も特攻作戦に傾斜していきます。

大西もこれに意を強くして他の部隊にも他の部隊に特攻への参画を呼びかけますが、中には強く反対する部隊もあり、この頃までは、ある程度の自主的判断が優先されていたようです。

しかしながら、レイテ沖海戦としては、日本の主力艦隊はレイテ湾に突入することができず、作戦としては失敗となります。

昭和20年に入りフィリピン侵攻が本格化すると、ほとんど特攻は常態化することになります。

本来は、フィリピンで日本の海軍は壊滅状態となっているので、当初は大西もここで終わりと考えていたのではないでしょうか。そうであればまだ日本にとっては良かったのかもしれません。

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大西中将はどのように終戦を迎えたでしょうか

大西中将率いる第一航空艦隊は台湾に転出する命令を受けます。

命令とはいえ、かねがね第一航空艦隊の戦力が亡くなれば、諸君とともに陸戦隊となってフィリピンで戦うと言っていましたので、この転出命令については、残された部隊からは相当な反発があったようです。

また、台湾に転出してからも、特攻攻撃を持続しています。このあたりから、少し様相が変わってきたような気がします。もはや勝敗は決しており、どのような形を残すのかに重点が置かれたような感じも見受けます。

そして、5月には海軍軍令部次長に着任します。もはや実戦ではやることがなくなってしまいますが。最後まで徹底抗戦を主張しています。

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大西中将の自決はどのような影響を与えたのでしょうか

大西中将自体はこのフィリピンの作戦を指導した段階で最後は自分もと決めていたのではないでしょうか。後の台湾転出、軍令部次長も役割があるからやっただけで、大勢は決していたことはわかっていたでしょう。

それでも、何かを守ろうとして努力したのだと思います。彼の自決は周りも予想していた通りだったと思います。しかし、これですべてが住んだわけではありません。

彼以外にも多くの協力者、賛同者がいてこの特攻作戦は策定され、実行されたのです。

遺書にもすべて背負って亡くなったようですが、本人はともかく同等の地位にあった人、命令する立場にあった人についてはそれぞれ考えるところがありそれぞれの人生を歩んでいます。

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大西瀧治郎中将が、終戦後最期をとげた原因とその影響のまとめ

大西中将このようにして亡くなりましたが、妻の淑恵さんは引き続き特攻で亡くなった隊員の慰霊に尽くしていました。各地の慰霊法要に出向いては謝罪をして回っていたと言われています。

そして昭和27年鶴見の総持寺に大西の墓を建てることができました。さらに海鷲観音像を建てております。昭和38年には、「大西瀧治郎君の碑」も建立されています。

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