津田梅子は新5千円札の肖像になることで有名になりましたが、津田塾大学の創始者ぐらいとしか知られていないでしょう。「津田梅子~お札になった留学生~」で2022年3月に放映されましたので、少しは知られるているでしょう。
彼女は明治初期に初めての海外女子留学生として6歳でアメリカに渡ったことから人生が変わります。日本に帰国しても、理解されない、歓迎されない中で女子の教育に一生をささげた人です。
その内容を簡単に説明しましょう。
津田梅子の生まれた環境は
津田梅子は1864年(元治元年)12月31日に幕臣の津田仙の次女として東京都新宿区に生まれます。父は外国奉行の通訳としてオランダ語、英語に堪能でした。
やがて明治維新となり、父は築地のホテルに勤めたり西洋野菜の栽培などを始めています。女子の教育にも当時としては斬新なほど理解があり、自分の子供が活躍することを夢見ていたようです。
津田梅子の人生を決定づけたアメリカ留学は
父津田仙が北海道開拓使の嘱託になったことから始まります。開拓次官の黒田清隆の発案で、海外に女子の留学生を送る計画が決まります。黒田清隆も当時としてはとても斬新な方ですね。
しかしながら、募集はしても、人が集まりません。当然でしょう。今なら応募殺到で大変な騒ぎになるところですが、当時10年も嫁入り前の娘を一人で海外に出す親はおりませんでした。
これに応募すればすっかり婚期を逃してしまいますからね。
留学させた父津田仙の考え方は
ところが津田仙は自分の娘をなんとしても応募させたくて、最初は姉の琴子を応募させようとしますが、家族そろっての大反対にあい、琴子自身も不安だったようです。
そこで、当時6歳だった梅子を応募させてしまいます。家族からも周りからも鬼と言われたようです。確かに6歳ですから、まるで赤ちゃんにしか見えないでしょう。
結局この応募は明治政府の企画でしたが、応募したのは幕府側の5人だけでした。
津田梅子の留学はどのようだったか
しばらくは5人が一緒に預けられる生活をしていたようでした。しかしながら1年ほどで2人が病気のため帰国してしまいます。残った三人は山川(大山)捨松12歳、永井(瓜生)繁子10歳と梅子になりますが、この3人は終生親しく交流することになります。梅子はコレジエト・インスティチュートに通った後、アーチャー・インスティチュートに進学し卒業します。
梅子は何しろ6歳でしたので、日本語がしっかり身につく前に海外生活を始めたおかげで、日本語についてはかなり苦労することになります。また、キリスト教への信仰も芽生え洗礼を受けることになります。
津田梅子(1864 – 1929)。女性教育者。満7歳の時日本初の女子留学生の一人として渡米。帰国後華族女学校の英語教授となるが、女子教育の必要性を感じ再び渡米。1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を開き、女子高等教育に尽くした。 pic.twitter.com/kGb4rV7XN3
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) September 2, 2021
津田梅子の帰国後の活動とその功績は
1882年(明治15年)に17歳で帰国することになります。しかし最初に送り出された北海道開拓使は既に閉鎖されております。
また、その頃はまだ外国帰りの人材をましてや女子の活用などは全く考えられておらず、職業に就くこともできなくなります。ましてや、梅子は日本語が不十分なことと、まるっきり日本の生活様式を忘れてしまっているので受け入れは絶望的でした。
それでも留学時に同行した伊藤博文の紹介で、1883年(明治16年)華族子女の教育を行う桃夭女塾に英語教師として、1885年(明治18年)華族女学校で英語教師として勤めることとなります。
しかし、日本の女子教育は良家の子女を育てるという風潮が主流であり、梅子が目指すような自由で自主的な女子教育とは相当の隔たりがあり、悩むことになります。
また、彼女に対する縁談の圧力にも辟易としていたようです。
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◇津田梅子氏の新五千円札に一言
何故、この写真にしてやらないの?!
偽造防止かも知れんけど、財務省と造幣局の悪意を感じるワァ〜#新紙幣 #五千円 #津田梅子 #Mars9241 pic.twitter.com/KtCgIUYjga
— Mars (@Mars9241) September 2, 2021
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津田梅子は再度の留学で学位を習得
そこで彼女の初めての決断があったのです。自分のための女子教育を行うためには大学の学位も必要性を感じ始めていました。彼女は何しろ6歳からの留学でしたので、大学の学位をまだ持っていなかったのです。
1889年(明治22年)24歳で再びアメリカに渡ります。専攻は自分の好きなものを目指したようです。フィラデルフィアのプリンマー大学に生物学を学ぶことになります。
この時、1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガンに師事し、カエルの卵の割れ方と対軸の方向性の論文を書いています。
今回は日本で自立的な女子教育を打ち立てることを目指していますので、日本女性留学のための奨学金設立、募金活動なども行っています。
【史学舎】
新紙幣に津田梅子肖像が採用されるとのお話ですが、津田梅子となると瓜生繁子・大山捨松の存在抜きではその功績を語る事など出来ないと存知ます。
津田塾大学の前身・女子英学塾はこの3人とアリス・ベーコンの4人が大きな核となって出来たもので、女性の維新の開拓者達でもございます。 pic.twitter.com/4PXSb4VZzd— トレインタイムス【共同広報】(YouTubeにてLIVE・各種番組公開中) (@TrainTimesCIC) April 9, 2019
津田梅子は教育者として女子英学塾を開校
1892年(明治25年)帰国して、華族女学校、明治女学校、女子高等師範学校教授、を歴任して経験を積みます。
そして1900年(明治33年)女子英学塾を東京都麴町区に設立します。やっとこれまでの良家の子女教育から進歩的でレベルの高い教育をすることができるようになります。
開校当時は授業内容が厳しくてかなりの脱落者も出たと言われています。それまでの、通り一遍の学校とは違っていたようです。
このとき協力してくれたのが、初めての女子留学生の大山捨松、瓜生繁子そしてアメリカの滞在先の娘であったアリス・ベーコンです。もちろんその他の多数の方の援助もあったようです。
梅子は女子英学塾の経営に邁進しますが、健康を損ない1919年(大正8年)に塾長を辞任します。そして1929年(昭和4年)病没します。享年66です。
従来の「家」制度による家政学が中心だった官制の良妻賢母育成女子高等教育制度に疑問を抱いた津田梅子が、瓜生繁子や大山捨松とともに女子英学塾(のちの津田塾大学)を東京市麹町区一番町(現・千代田区)に開校(塾生10人)。 pic.twitter.com/TGmCJCwZMN
— 大森博子 Hiroko Ohmori🐟🌧 (@11111hiromorinn) July 13, 2020
津田梅子は何した人か?功績を簡単に説明しますのまとめ
津田梅子さんはこのように日本の女子教育の草分けとして一生を捧げてきました。そして結婚圧力の強い中で、一生結婚はしませんと貫いた方でした。
津田梅子さんのお墓は最初は青山墓地にありましたが、その後、本人の希望もあり現在の小平の津田塾大学のキャンパスの中にあるそうです。そのお墓にはちょっとした伝説が伝わっています。
「1回お参りすると結婚ができなくなる。2回お参りすると離婚する。3回お参りすると呪いが解ける。」というものです。
ほかにも、「1回お参りすると結婚できなくなる。2回お参りすると呪いが解ける。3回お参りすると結婚が前向きに進む。」とも言われています。どちらが正しいかは、お試しください。
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