シーボルトの娘、楠本イネとその孫、楠本高子は、それぞれ美貌で知られ、高子は特に「銀河鉄道999」のキャラクター、メーテルのモデルとしても語り継がれています。本稿では、19世紀から20世紀にかけての日本で、彼女たちがどのようにして生き、どのような影響を及ぼしたかを探ります。
シーボルトの遺伝を受け継ぐ美貌:楠本イネとその背景
楠本イネは、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の初期の女性医師の一人です。彼女はドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと日本人女性の間に生まれました。幼少期から混血児として多くの困難に直面しながらも、医学への情熱を育みました。
楠本イネの誕生と初期の人生
シーボルトが日本に滞在したのは1823年から1828年までです。シーボルトは有名な学者として長崎で多くの子弟を育てることになります。本来はドイツ人だったそうですが、オランダ人と称して日本に滞在したそうです。
帰国直前1827年長崎の円山町の遊女のお瀧がお抱えとなります。そして、イネが私生児として生まれることになるのです。
シーボルトは翌年には日本から禁止の地図などを持ち出したことで、国外追放になってしまいますので、お瀧さんは、一人でイネを育てなければなりませんでした。
一説では回漕業者俵屋時次郎と結婚したとも言われていますし、シーボルトの弟子も何かと面倒を見たことかと思います。
医術を極めたイネ:明治時代の女性医師としての足跡
イネは背が高く色白の美人として育っていきます。しかし、当時では混血はとても珍しいので肩身の狭い思いをしたことでしょう。
小さい時から聡明だったそうです。やがて、父シーボルトの門下生二宮敬作から医学の基礎を学びます。石井宗謙から産科を学びます。また、
村田蔵六(大村益次郎)からオランダ語を学びます。さらには、メーデルフォールとボードウィンから産科・病理学を学びます。
しかしこの間に、大変なことが起こってしまいます。岡山の石井宗謙に産科を学んでいた時に、師の石井宗謙に強姦されて娘高子をもうけることになってしまいます。
イネは石井を激しく憎んだばかりか。シーボルト門下生からも石井は非難の的になってしまいます。当時の女性の地位はやはり低かったのでしょうね。
1859年に追放処分が取り消され来日した父シーボルトと長崎で母瀧とともに再会もしています。
明治維新直後は大村益次郎が京都で襲撃された際には、治療にあたったボードウィンとともに大阪でその最期を看取っています。
1871年異母弟にあたるアレクサンダーとハインリッヒの支援を受けて東京の築地で開業もしております。結構腕も良かったようで好評だったようです。
宮内省御用掛となり明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会ったり、弟ハインリッヒとその妻岩本はなの第一子の助産も担当しております。
この女官の出産は単なる出産ではありません。明治天皇の皇子の出産ですから相当な信用があったということです。残念ながら、子供は死産、葉室光子も経過不良のため急逝してしまいます。
1875年医術開業試験制度が始まりますが、女性には門戸が開かれていないし、既に相当の実績があるので受ける必要もなかったかも知れません。この機会に長崎に帰ってしまい産院を開業していたようです。
1889年に62歳の時娘の楠本高子と同居するため、産院を閉鎖して東京に移り住むことになり、1903年77歳で亡くなります。
フィリップ・フォン・シーボルトの子として知られる「オランダおいね」こと楠本イネは1827年生まれ。フィリップの長男 アレクサンダー・フォン・シーボルトは1846年生まれなので19歳差である。1859年のフィリップの再来日に同行した12歳のアレクサンダーは長崎でイネと初対面している。 #青天を衝け pic.twitter.com/N2oQQTYh84
— 酒上小琴【サケノウエノコゴト】 (@raizou5th) July 11, 2021
楠本高子:運命を共有した美人孫
高子は1852年に生まれます。13歳の時まで、長崎で祖母お瀧の下で育てられます。最初は天がタダで授けたということでタダ子と言っていたそうです。
お瀧は女性には学問はいらないという当時の典型的な考え方の人でした。イネと違って琴、三味線、舞などの芸事に熱心に取り組んでおり、イネとはどうも違っていたようです。
イネの時にもお世話になった二宮敬作の導きで宇和島藩の奥女中として奉公を始め、1866年シーボルト門下の医者の三瀬諸淵と結婚することになります。ここまでは順調で良かったですね。
美貌の高子の運命とその子孫
ところが、1877年には夫が亡くなってしまいます。そして夫の異母兄石井信義に産婦人科を学ぶことになります。
ここでとんでもないことが起こるのです。母と同じように名前まで同じ石井信義に強姦されてしまいます。そして男児を生むことになってしまいます。
しかし高子には救いの手が伸びます。以前から高子に求婚していた医師山脇泰助と再婚することになります。そして一男二女を授かることになります。
これでやっと平穏な暮らしができると思ったことでしょう。しかし、山脇は結婚後7年で亡くなってしまいます。
楠本高子は東京で母のイネと同居
その後は、子供を連れて上京し、叔父になるハインリッヒ・シーボルトの世話になり母のイネと暮らすことになります。
同居してからは、高子は昔習った芸事で結構身を立てることができたそうです。そして1938年に86歳で亡くなります。
おはようございます。今日は8月27日、楠本イネの命日です
アレクサンダー・フォン・シーボルトの家庭教師になって日本語を教えてたのがあの楠本イネの娘・高子の夫、三瀬諸淵。日本の近代的な医学の発展に大きく貢献した人。
ちなみに高子はメーテルのモデルじゃないかと噂されてた女性ですね(*´ー`) pic.twitter.com/uB8lzNV4vx— 山本八重さん@会津問屋 (@aizu_sniper_yae) July 4, 2021
「銀河鉄道999」メーテルのモデルとしての高子
楠本高子は、アニメ「銀河鉄道999」のキャラクター、メーテルのモデルの一人とされています。彼女の氷のような美貌と冷静な性格が、メーテルというキャラクターに影響を与えたと言われています。このつながりは、文化的なアイコンとして高子の名を後世に残す要因となりました。
二人の交錯する運命:楠本イネと高子の関係とその影響
楠本イネとその娘高子は、美貌と運命を共有しながら、日本の医学と文化において顕著な足跡を残しました。母と娘、そして後世に至るまで、彼女たちの生き様は多くの人々に影響を与え続けています。
母と娘、そして孫:三代の美人としての生活
イネと高子の関係は、単なる親子以上のものでした。イネが医学の道を極める中で、高子もその知識と美貌を受け継ぎ、さらに広げていきました。二人はその時代の女性としては珍しいほど自立しており、彼女たちの生活は当時の女性の新たな可能性を示していました。
後世への影響:楠本家の遺産と文化的遺産の保持
楠本家の遺産は、単に物質的なものに留まらず、医学、教育、そして文化的な価値を含む豊かなものでした。イネと高子の精神的遺産は、後の世代に大きな影響を与え、特に女性の地位向上や教育の重要性に関して彼女たちの存在が重要な役割を果たしています。
結論:シーボルトの女性たちの遺産と現代への意味
シーボルトの娘、楠本イネとその孫、楠本高子の生涯は、日本の社会と文化に深い印象を残しました。彼女たちの存在は、医学、教育、そして女性の社会進出というテーマを通じて、現代にも大きな影響を与えています。
楠本イネの医学への貢献として、彼女は日本初の女性西洋医としての地位を確立し、女性が高等教育を受ける道を切り開きました。一方、楠本高子の美貌とその文化的影響は、「銀河鉄道999」のメーテルのモデルとして、現代のポップカルチャーにもその名を留めています。
これらの女性たちの遺産は、彼女たちの時代を超えて、現代の女性が直面する様々な課題に対する理解を深める手がかりを提供しています。彼女たちの生き方は、多くの女性にとってのロールモデルとなり、新しい世代の女性たちが自らの道を切り開く勇気を与えています。
最終的に、楠本イネと楠本高子の物語は、過去と現在を繋ぎ、未来への架け橋となる貴重な教訓を私たちに与えてくれます。彼女たちの生きた証は、今後も多くの人々にインスピレーションを提供し続けるでしょう。
この記事を通じて、シーボルト家の女性たちがどのように時代を超えて影響を与え続けているのか、その深い意味と現代社会への影響を探りました。彼女たちの精神的遺産は、今後も多くの人々に価値ある洞察を提供し続けることでしょう。
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