シーボルトの娘からメーテルのモデルへ:楠本イネと楠本高子の驚くべき生涯

歴史人物

シーボルトの娘「楠本イネ」と孫「楠本高子」はともに美人として有名です。なかでも、高子は後に「銀河鉄道999」のメーテルのモデルになったとも言われています。

シーボルトは幕末の日本に渡って蘭学と医学を教え、日本の知識人に大きな影響を与えた人ですが、どのような経緯でイネと高子が生まれ、育っていったかを解説します。

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シーボルトの血を引く美人母娘:楠本イネの誕生

シーボルトが日本に滞在したのは1823年から1828年までです。シーボルトは有名な学者として長崎で多くの子弟を育てることになります。本来はドイツ人だったそうですが、オランダ人と称して日本に滞在したそうです。

帰国直前1827年長崎の円山町の遊女のお瀧がお抱えとなります。そして、イネが私生児として生まれることになるのです。

シーボルトは翌年には日本から禁止の地図などを持ち出したことで、国外追放になってしまいますので、お瀧さんは、一人でイネを育てなければなりませんでした。

一説では回漕業者俵屋時次郎と結婚したとも言われていますし、シーボルトの弟子も何かと面倒を見たことかと思います。

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日本の歴史を彩る女性たち:楠本イネと楠本高子の運命の物語

イネは背が高く色白の美人として育っていきます。しかし、当時では混血はとても珍しいので肩身の狭い思いをしたことでしょう。

小さい時から聡明だったそうです。やがて、父シーボルトの門下生二宮敬作から医学の基礎を学びます。石井宗謙から産科を学びます。また、

村田蔵六(大村益次郎)からオランダ語を学びます。さらには、メーデルフォールとボードウィンから産科・病理学を学びます。

美人だったイネが娘高子をもうけたいきさつ

しかしこの間に、大変なことが起こってしまいます。岡山の石井宗謙に産科を学んでいた時に、師の石井宗謙に強姦されて娘高子をもうけることになってしまいます。

イネは石井を激しく憎んだばかりか。シーボルト門下生からも石井は非難の的になってしまいます。当時の女性の地位はやはり低かったのでしょうね。

明治の代になりイネは医術の道で名を上げる

1859年に追放処分が取り消され来日した父シーボルトと長崎で母瀧とともに再会もしています。

明治維新直後は大村益次郎が京都で襲撃された際には、治療にあたったボードウィンとともに大阪でその最期を看取っています。

1871年異母弟にあたるアレクサンダーとハインリッヒの支援を受けて東京の築地で開業もしております。結構腕も良かったようで好評だったようです。

宮内省御用掛となり明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会ったり、弟ハインリッヒとその妻岩本はなの第一子の助産も担当しております。

この女官の出産は単なる出産ではありません。明治天皇の皇子の出産ですから相当な信用があったということです。残念ながら、子供は死産、葉室光子も経過不良のため急逝してしまいます。

1875年医術開業試験制度が始まりますが、女性には門戸が開かれていないし、既に相当の実績があるので受ける必要もなかったかも知れません。この機会に長崎に帰ってしまい産院を開業していたようです。

1889年に62歳の時娘の楠本高子と同居するため、産院を閉鎖して東京に移り住むことになり、1903年77歳で亡くなります。

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楠本高子:「銀河鉄道999」メーテルのモデルとされる美人の系譜

そのような事情から高子は1852年に生まれます。13歳の時まで、長崎で祖母お瀧の下で育てられます。最初は天がタダで授けたということでタダ子と言っていたそうです。

お瀧は女性には学問はいらないという当時の典型的な考え方の人でした。イネと違って琴、三味線、舞などの芸事に熱心に取り組んでおり、イネとはどうも違っていたようです。

イネの時にもお世話になった二宮敬作の導きで宇和島藩の奥女中として奉公を始め、1866年シーボルト門下の医者の三瀬諸淵と結婚することになります。ここまでは順調で良かったですね。

美貌の高子の運命とその子孫

ところが、1877年には夫が亡くなってしまいます。そして夫の異母兄石井信義に産婦人科を学ぶことになります。

ところがここでとんでもないことが起こるのです。母と同じように名前まで同じ石井信義に強姦されてしまいます。そして男児を生むことになってしまいます。

しかし高子には救いの手が伸びます。以前から高子に求婚していた医師山脇泰助と再婚することになります。そして一男二女を授かることになります。

これでやっと平穏な暮らしができると思ったことでしょう。しかし、山脇は結婚後7年で亡くなってしまいます。

楠本高子は東京で母のイネと同居

その後は、子供を連れて上京し、叔父になるハインリッヒ・シーボルトの世話になり母のイネと暮らすことになります。

同居してからは、高子は昔習った芸事で結構身を立てることができたそうです。そして1938年に86歳で亡くなります。

おはようございます。今日は8月27日、楠本イネの命日です

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シーボルトの娘からメーテルのモデルへのまとめ

シーボルトの子孫は二系統あるわけです。シーボルトがオランダに帰国後に結婚しても受けたアレクサンダーとハインリッヒの系統と日本で残った楠本イネとその娘高子の系統です。

どちらも明治の代になった日本でお互い助け合って仲良く暮らしているところがほほえましいしうらやましくもあります。

楠本イネも高子も美人だったと言われています。イネについては若い頃の写真が見つからないのですが、高子の写真は確かに美人と言えるものでしょう。

これには一つのエピソードがあります。漫画家の松本零士が楠本高子の写真を見て衝撃を受けて「これこそ自分がずっと思い描いていた女性だ」と言ったという説があります。

たしかに宇宙戦艦ヤマトのスターシア、とか銀河鉄道999のメーテルと雰囲気が非常に似ています。

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