「津田梅子」「大山捨松」と聞けば、明治時代の日本を代表する女子留学生として誰もが知る存在ですが、その陰に、同じく9歳でアメリカに渡り、ヴァッサー大学音楽学校で学んだ女性がいました。それが「瓜生繁子(うりゅう しげこ)」です。
彼女は明治初期、日本音楽教育の礎を築いた存在でありながら、なぜか現代ではほとんど名前を見かけることがありません。本記事では、瓜生繁子の功績と人生をたどりながら、なぜ彼女が歴史の陰に埋もれてしまったのかを掘り下げていきます。
アメリカへ渡った3人の少女 ― 瓜生繁子と女子留学生の黎明
1871年(明治4年)、岩倉使節団に帯同するかたちで、日本初の女子海外留学生がアメリカへ旅立ちました。そのうちの一人が、加賀藩士の娘として生まれた瓜生繁子でした。
同時に渡米したのは、後に津田塾大学を創設する津田梅子、大山巌と結婚し「鹿鳴館の華」と呼ばれた大山捨松。瓜生は彼女たちと共にアメリカでの教育を受けることになります。
繁子は音楽を専攻し、当時の名門・ヴァッサー大学の音楽学校でピアノを学びました。ヴァッサー大学は、リベラルアーツ教育に力を入れる米国の名門女子大学で、女子の高等教育における最前線に位置していました。
卒業を目前に帰国―評価されづらかった帰国の背景
1881年(明治14年)、政府の命令と自身の体調不良により、瓜生繁子は卒業式を目前にして帰国を余儀なくされました。卒業証書は後日、実家宛てに送付されたと伝えられています。
一方、大山捨松は学業優秀者としてヴァッサー大学を卒業し、アメリカの新聞にも大きく取り上げられた存在。そのインパクトの差が、現代における知名度の格差にもつながっているのかもしれません。
しかし、帰国後の瓜生繁子の人生をたどってみると、彼女が「実務的に成果を上げたパイオニア」であることがわかってきます。
日本初のピアノ演奏会と音楽教育への貢献
帰国後の瓜生繁子は、日本で最初の本格的なピアノ演奏会を開催した人物とされています。これは、日本人女性によるピアノ公開演奏としては極めて早い事例であり、当時としては画期的なことでした。
その後、音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部の前身)に助教として就職。自身がヴァッサー大学で使用していた「プライス・ピアノ教則本(カール・ウルバッハ著)」を日本の音楽教育に導入するなど、積極的な改革を行います。
1886年(明治19年)には東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)および東京音楽学校の教員に就任し、1902年(明治35年)までの16年間にわたって後進の指導に尽力しました。
後進の育成 ― 幸田延から滝廉太郎、山田耕筰へ
瓜生繁子が育てた門下生の一人に、後の日本音楽界の草分け的存在である「幸田延(こうだ のぶ)」がいます。
幸田延は東京音楽学校の教授となり、滝廉太郎、山田耕筰、三浦環、本居長与など、日本の音楽史に名を残す人物たちを育てました。瓜生繁子の音楽的遺産は、直接的ではなくとも、こうした人材を通じて確実に次世代へと継承されていったのです。
彼女の教えがなければ、「荒城の月」も「赤とんぼ」も、今とは違うかたちで存在していたかもしれません。
津田梅子との再会と教育活動
1900年(明治33年)、津田梅子が女子英学塾(現・津田塾大学)を創設する際、瓜生繁子もその設立を支援しました。
かつてともにアメリカで学んだ同志として、二人は日本の女子教育の発展に協力し合ったのです。津田梅子が英語教育を、瓜生繁子が音楽教育を担ったという構図が見て取れます。
幸せな家庭生活と軍人夫・瓜生外吉との絆
瓜生繁子は、留学時代に知り合った加賀藩出身の瓜生外吉(そときち)と1882年(明治15年)に結婚しました。
外吉はアメリカの海軍兵学校(アナポリス)に留学し、日本に帰国後、海軍士官としてキャリアを積み、日露戦争では第四戦隊司令官として仁川沖海戦に勝利。1907年(明治40年)には男爵となり、1912年には海軍大将、1922年には貴族院議員にまで昇進しました。
繁子はそんな外吉を支えながら、3男3女の子育てに専念。教育者としての活動と家庭人としての役割を見事に両立させた、明治女性の理想像ともいえる存在です。
悲劇と静かな晩年 ― 長男の殉職
しかし、華やかさの裏に悲劇もありました。長男の武雄は、海軍兵学校を卒業し少尉となったのち、航海訓練中の軍艦「松島」で火薬庫の爆発事故に巻き込まれて殉職しています。
この事故では、瓜生武雄のほか、大山巌・大山捨松の長男である高(たかし)も命を落としました。奇しくも同じ船、同じ事故で二人の「元留学生の息子」が命を落とすことになったのです。
瓜生繁子はその後、病に伏す夫・外吉を看病しながら晩年を過ごし、1928年、67歳で静かにその生涯を閉じました。
なぜ瓜生繁子は知られていないのか?
津田梅子が「お札になる女性」として語られ、大山捨松が華やかな社交界の象徴として知られているのに対し、瓜生繁子の名が埋もれてしまった背景にはいくつかの要因があると考えられます。
- 音楽教育という地味な分野に従事:制度や組織を創設するような派手な功績ではなく、「土台づくり」に徹した存在だったため。
- 記録の少なさ:新聞やメディアで取り上げられる機会が少なく、後世の資料が乏しい。
- 女性の評価基準の偏り:当時の女性評価は「社交性」や「結婚相手」に左右されがちであった。
しかし、音楽教育を根幹から支え、日本のクラシック音楽界における重要人物を育成した功績は、再評価されるべきものです。
まとめ ― 瓜生繁子の足跡が示す、真の教育者の姿
瓜生繁子は、明治日本における女子留学生の一人としてアメリカで学び、その知識と技能を「音楽教育」という形で日本に還元した草分け的存在です。
彼女の存在は、大山捨松のような社交界の華やかさも、津田梅子のような教育制度創設者としてのカリスマ性も持ち合わせていなかったかもしれません。しかし、静かに、確実に、日本の文化と教育の質を底上げした「縁の下の力持ち」であったことは間違いありません。
今こそ、瓜生繁子という名を日本の近代史に刻むときです。
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