幕末という激動の時代において、**水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)**は、日本史を語る上で欠かせない重要人物です。彼は「名君」として藩政改革を断行する一方で、その激しい思想から**「烈公(れっこう)」**という異名で恐れられました。
斉昭が掲げた強烈な**尊王攘夷(そんのうじょうい)思想**は、幕府との決定的な対立を生み、最終的に日本全体を揺るがす**幕末の動乱の火付け役**となります。彼の行動は、後に徳川慶喜や渋沢栄一といった多くの人々の運命に大きな影響を与えました。
この記事では、初めて歴史を学ぶ方にも分かりやすいよう、斉昭公の生涯、その思想、そして日本を大きく変えた藩政改革と幕政での対立について、丁寧に解説していきます。
2. 徳川斉昭の生涯:遅咲きの藩主が起こした激しい改革
徳川斉昭は、1800年に水戸藩の第7代藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸で生まれました。幼少期から学問に優れていた斉昭でしたが、兄たちが藩主や他家への養子になる中、自身は「部屋住み」という、世に出る機会がない立場にありました。
突如の藩主就任と積極的な改革(30歳)
転機が訪れたのは、兄である第8代藩主が亡くなった後のことです。様々な経緯を経て、斉昭は30歳という比較的遅い年齢で、**水戸藩第9代藩主**に就任します。
遅れて藩主になった分、斉昭は非常に積極的で、就任するやいなや、水戸藩の体制を根本から変える**大掛かりな藩政改革**に着手します。
彼は、後に幕末の志士たちに大きな影響を与える**藤田東湖(ふじた とうこ)**や**武田耕雲斎(たけだ こううんさい)**といった優秀な人材を登用し、以下の4つの柱を中心に改革を推し進めました。
斉昭が行った藩政改革の主な柱
- **経界の義(けいかいのぎ):** 領内の土地を正確に把握するための**全領検地**を実施し、財政基盤を強化しました。
- **土着の義(どちゃくのぎ):** 江戸に住むことが多かった藩士たちに対し、藩内に移住(**土着**)させ、武士と領民との結びつきを強め、領地防衛の意識を高めました。
- **学校の義:** 藩士教育の最高学府である**藩校「弘道館(こうどうかん)」**を開設し、さらに領民のための郷校(ごうこう)も建設しました。これは文武両道を奨励するためです。
- **総交代の義:** 水戸藩は徳川家康の命により「江戸定住」が求められていましたが、これを廃止し、藩主が水戸と江戸を頻繁に往来する**参勤交代のような体制**に変え、水戸の支配力を強めました。
思想の激しさ:寺院弾圧と「廃仏毀釈」の先駆け
斉昭の思想的な激しさは、宗教にも及びます。彼は**強烈な尊王攘夷思想**の持ち主であったため、寺院を弾圧し、神社を優遇する政策を採りました。これは、明治時代初期に起こった**「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」**という仏教排斥運動の、**先駆け**のような出来事だったと言われています。
3. 「烈公」の思想:尊王攘夷と幕府との大対立
斉昭が「烈公」と呼ばれた最大の理由は、彼の**尊王攘夷**という強烈な政治思想にあります。
- **尊王(そんのう):** 天皇を尊び、敬うこと。
- **攘夷(じょうい):** 外国の勢力(夷狄)を打ち払い、国から追い出すこと。
斉昭は、天皇を中心とした国づくりを目指し、外国勢力には徹底的に反対する姿勢を貫きました。この姿勢が、幕府との決定的な対立を生むことになります。
幕政との二大対立事件
斉昭は、御三家の一つである水戸藩の藩主として、幕政にも積極的に発言しましたが、以下の二つの大問題で幕府、特に**大老・井伊直弼(いい なおすけ)**と激しく対立しました。
【対立1】1853年 ペリー来航と「開国か攘夷か」の論争
1853年、アメリカの**ペリー提督**が浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。外国の脅威を肌で感じた幕府内では、開国か攘夷かで大論争が巻き起こります。
当然、尊王攘夷の急先鋒である斉昭は**開国に猛反対**しました。一方で、幕府の最高権力者となった井伊直弼は、日本の国力を冷静に見極め、**開国(日米修好通商条約の締結)**を推し進めました。この方針の違いが、両者の溝を決定的に深めます。
【対立2】第13代将軍の後継者問題(将軍継嗣問題)
病弱だった第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の後継者を誰にするかという問題が起こりました。このとき、斉昭は自分の息子である**一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)**を推挙しました。慶喜は聡明で、一橋派(改革派)に担がれていました。
一方、井伊直弼は紀州藩の**徳川慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)**を推挙しました。この対立は**「一橋派」と「南紀派(慶福派)」**という二大勢力に分かれ、幕府を二分するほどの大きな争いとなりました。
最終的な失脚:安政の大獄
結局、井伊直弼がこの二つの争いで勝利を収めます。
- 開国を独断で断行(日米修好通商条約締結)。
- 将軍継嗣に徳川慶福を決定。
斉昭は、こうした井伊直弼の行動を激しく非難したため、1859年、井伊による大規模な弾圧**「安政の大獄(あんせいのたいごく)」**によって、**謹慎処分**を受けてしまいます。このとき、斉昭は58歳でした。
そして、斉昭は謹慎中の1860年に、水戸で急逝します。彼の死因は心筋梗塞とも言われています。
4. 徳川斉昭が残したもの:文武両道と幕末の導火線
徳川斉昭の生涯は幕府への抗議の末に閉じられましたが、彼が水戸藩に残したもの、そして日本に残した影響は計り知れません。
文武両道の精神を育んだ「弘道館」
斉昭が建設した藩校**「弘道館」**は、今なお水戸のシンボルとして親しまれています。
弘道館の設立目的は、文武の奨励でした。斉昭自身も文武に秀でており、それは彼の残した漢詩にもよく現れています。
斉昭の漢詩:弘道館賞梅花(弘道館の梅を愛でる)
弘道館中千樹梅 (弘道館の中には千本の梅がある、)
清香馥郁十分開 (清らかな香りが満ち満ちていっぱいに咲いている。)
好文豈謂無威武 (好文(こうぶん)と呼ばれる梅はどうして勇ましさがないと謂われるのか、)
雪裡春占天下魁 (雪の中に埋もれていても春に咲き誇り、天下の魁(さきがけ)になるではないか。)
※文を好む心にも、梅のように雪に耐えて真っ先に咲く**強さや勇ましさ(威武)**があるという、斉昭らしい信念が込められています。
桜田門外の変と幕末の暗黒史
しかし、斉昭が奨励した**尊王攘夷**の思想は、幕末の歴史に暗い影を落とします。
斉昭を謹慎に追い込んだ井伊直弼は、その翌年、斉昭を慕う**水戸藩の浪士たち**によって江戸城桜田門外で暗殺されてしまいます。これが有名な**「桜田門外の変」**です。
斉昭の激しい思想は、彼の死後も水戸藩士たちに受け継がれ、彼らの行動が幕末のテロリズムと動乱の**「導火線」**となってしまったのです。その意味で、斉昭は後世から見れば時代錯誤とも言える思想の持ち主だったかもしれませんが、激動の時代においては、彼の**情熱と信念**こそが、多くの人々の心を動かす原動力となったことは間違いありません。
井伊直弼の側から見た解説は井伊直弼の安政の大獄から桜田門の変に至った生涯をやさしく解説
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