伊藤博文はどうして初代の総理大臣になることができたか。

歴史人物

伊藤博文は大日本帝国の初代の総理大臣となったことで広く知られています。また、少し古いのですが、千円札の肖像として使われたこともあります。

しかし、伊藤博文はどうして初の総理大臣に成れたのでしょう。明治維新と言えば、三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允という維新の元勲がいます。その他にも維新十傑と呼ばれている人たちがいます。

これらの中に、伊藤博文は入ってもいないのです。それではこれらの人たちがどうしていなくなってしまったのか、伊藤博文がどうして出てきたのか、対抗馬はいなかったのかを解説していきます。

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明治維新の元勲、十傑というのはどんな人たちでしょうか

明治維新の時の有名人として、元勲、十傑と呼ばれている人たちがいました。まずはその人達を紹介します。

明治維新の元勲

三条実美(公家)、岩倉具視(公家)、

西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)

この5人は解説不要でしょう。中学校の教科書にも出ているでしょうから。

明治維新の十傑

西郷隆盛(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、小松帯刀(薩摩藩)

大村益次郎(長州藩)、木戸孝允(長州藩)、前原一誠(長州藩)、広沢真臣(長州藩)

江藤新平(肥前藩)、横井小楠(肥後藩)、

岩倉具視(公家)

ここらあたりになると、少し解説がいるかもしれませんが、本題から外れてしまいますので、省略します。こちらには三条実美は入っていません。

ざっとこんな具合に功労者がいるわけです。重複がありますが、これを除いても11人いることになります。その他にも江戸幕府側でも勝海舟などもいますが、さすがに幕府出身者では難しいでしょう。

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明治維新の元勲、十傑の人たちはその後どうなったのか

11人もいるのですから、半分ぐらいは活躍することになりますよね。明治維新の功労者と言っても大多数は30代、40代ぐらいですから、そう簡単に若死にするわけではないですし。ところがどうもそういうわけにはいかなくなるのです。

明治2年1月5日(新暦1869年2月15日)、横井小楠、京都で十津川郷士らに襲われ死亡。59歳没。

明治2年9月4日大村益次郎、京都の旅館で元長州藩士らに襲われる。11月5日(新暦1869年12月7日)、死亡。45歳没。

明治3年7月20日(新暦1870年8月16日)、小松帯刀、大阪で病死。34歳没。

明治4年1月9日(新暦1871年2月27日)、広沢真臣、東京の私邸で襲われ死亡。37歳没。

明治7年(1874年)2月1日、江藤新平、佐賀の乱を起こす。鎮圧されて捕らえられ、4月13日、佐賀にて斬首刑ののち梟首刑。40歳没。

明治9年(1876年)10月28日、前原一誠、萩の乱を起こす。鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑。42歳没。

明治10年(1877年)5月26日木戸孝允、京都で病死。43歳没。

明治10年(1877年)9月24日西郷隆盛、西南戦争で敗戦し、鹿児島で自害。49歳没。

明治11年(1878年)5月14日大久保利通、東京清水谷で石川県士族らに襲われ死亡。47歳没。

明治16年(1883年)7月20日岩倉具視、東京で病死。57歳没。

ということで、11名中10名が亡くなってしまいます。内訳は、病死3名、自決1名、刑死2名、暗殺4名です。そして残ったのが三条実美だけとなります。

病死は仕方がないとしても、暗殺が4名もいるわけですから、恐ろしい世の中ですね。

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内閣総理大臣を巡って伊藤博文の対抗馬になる人はどんな人がいたのか

功労者はさておき、明治になって新しい人も進出してきますが、それでも明治政府の中で一定の地位にいることが必要条件です。それではどんな重要ポストがあるのでしょうか。

明治政府の重要ポストと言えば「内務卿」です

これは戦前の内務大臣の前身ですし、大日本帝国憲法が発効するまでは、事実上の総理大臣として機能していました。歴代を拾い上げれば次の通りです。

1            大久保利通          1873年(明6)11月29日藩-薩摩閥

2            木戸孝允              1874年(明7)2月14日 藩-長州閥

3            大久保利通          1874年(明7)4月27日 藩-薩摩閥

4            伊藤博文              1874年(明7)8月2日   藩-長州閥

5            大久保利通          1874年(明7)11月28日藩-薩摩閥

6            伊藤博文              1878年(明11)5月15日藩-長州閥

7            松方正義              1880年(明13)2月28日藩-薩摩閥

8            山田顕義              1881年(明14)10月21日藩-長州閥

9            山縣有朋              1883年(明16)12月12日藩-長州閥、軍-陸軍中将

見事に、薩長で明治政府を仕切っていたことがわかりますよね。そして伊藤博文はしっかり大久保利通の後釜に座っています。もうこの頃から一目を置かれる存在になっていたようです。そして、対抗馬はいないかとみていくと、松方正義(薩摩藩)、山田顕義(長州藩)、山縣有朋(長州藩)しかいません。

山田顕義(長州藩)、山縣有朋(長州藩)は伊藤博文の松下村塾の後輩にあたります。また、松方正義は主に大蔵卿を歴任しており、財政通として知られていますが、事実上大久保利通の後任として君臨してきた伊藤博文と比較されると不利でしょう。

明治政府の閣僚を指導する参議ポスト

形式的には閣僚たる卿を指導するポストとして参議が定められています。この人たちも一応は要注意なのです。明治18年当時に参議についていた人々は次のようです。これも明治政府を構成する主要藩閥から選出されていますね。

大木喬任(佐賀藩)、

伊藤博文(長州藩)、山縣有朋(長州藩)、井上馨(長州藩)、山田顕義(長州藩)、

西郷従道(薩摩藩)、松方正義(薩摩藩)、大山巌(薩摩藩)、

福岡孝悌(土佐藩)、佐々木高行(土佐藩)

ここらにも要注意人物はいますが、やはり対抗馬の可能性があったのは松方正義ぐらいだったでしょう。井上馨は伊藤博文のシンパになっていますので対抗することはありません。

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最終的にどのように総理大臣は決められたのか

明治18年(1885年)の太政官から内閣制度に移行する中で、誰が内閣総理大臣になるかを決めることになります。

格から言えばそれまでの太政大臣いわば政府のトップとなっている三条実美です。何しろ維新の元勲で唯一の生き残りです。しかも、家柄も貴族の中にあっても三条家と言えば全く高貴な身分ですから、申し分ありません。

でも、大久保利通亡き後、数年にわたって明治政府を切り盛りし、制度を徐々に作り上げてきたのは伊藤博文です。行政の内部まで見渡すことができる存在です。

しかも、平安時代ならいざ知らず、今後も条約改正などの諸問題も解決しなければなりません。

ここまでは見通せていないでしょうが、9年後には清国と、19年後にはロシアと戦争をするまでの国にする必要があったのです。内容を考えれば、とても、調整型の公家出身では不可能だったでしょう。

結果的には、「英語ぐらい読めないと。」という話がきっかけになって決まったとも言われていますが、三条実美も実際は内閣総理大臣になるつもりはなかったと思います。

いくら三条実美でも荒々しい内外の情勢はわかっていたでしょうから。結果として44歳という総理大臣の中で最も若い総理大臣が誕生します。

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伊藤博文はどうして初代の総理大臣になることができたかのまとめ

明治維新に活躍した元勲、十傑が数多くいた中で、伊藤博文がどうして初代の総理大臣になれたのかを客観的に調べてみました。そして明治政府の枢要ポストを歴任した方も調べてみました。やっぱり伊藤博文しかいなかったというのが結論です。

ポストも藩閥も考えなければ大隈重信も可能性はあるのですが、まだまだ、この時代にあっては急進的な考え方なのでとても選ばれないでしょう。

残念なのは、大久保利通、小松帯刀、木戸孝允、大村益次郎あたりでしょうか。もっとも彼らが生きていれば伊藤博文の線もなくなるでしょうけど。

伊藤博文は長州藩の武士ということになっていますが、生まれたときは農民です。

そういう意味で、農民から総理大臣になったのですから、豊臣秀吉の再来と言っても良いでしょう。両名とも朝鮮問題が命取りになったのは皮肉ですけど。

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