皆さんは「伊藤博文(いとうひろぶみ)」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか? 多くの方が、日本で初めて内閣総理大臣になった人物、そして少し前まで千円札の肖像になっていた偉人、というイメージをお持ちかもしれませんね。
でも、ちょっと不思議に思ったことはありませんか? 明治維新を成し遂げた立役者といえば、三条実美(さんじょうさねとみ)、岩倉具視(いわくらともみ)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)といった「維新の三傑」や「維新の元勲」と呼ばれる方々が真っ先に思い浮かびます。さらに、「維新十傑」と呼ばれるすごい人々もいました。
驚くことに、実は伊藤博文はこれらの主要メンバーには含まれていないのです。では一体、なぜ彼らを押しのけて、あるいは彼らが不在になったからこそ、伊藤博文が初代総理大臣という重要なポストに就くことができたのでしょうか?
この記事では、歴史に詳しくない方にも分かりやすいように、明治維新後の日本の混乱期に何が起こり、どのようにして伊藤博文が国のトップに立つことになったのか、その真相をじっくりと解説していきます。彼に代わる有力な対抗馬はいなかったのか、そのあたりも一緒に見ていきましょう!
明治維新の立役者たち:元勲と十傑とはどんな人々?
明治維新という大事業を成し遂げた有名な人たちには、「元勲(げんくん)」や「十傑(じっけつ)」と呼ばれるグループがありました。まずは、彼らがどんな人たちだったのかを簡単にご紹介しますね。
明治維新の元勲
まず「元勲」と呼ばれるのは、主に明治維新に大きな功績を残し、新政府で重要な役割を担った人々です。特に以下の5人がよく挙げられます。
- 三条実美(さんじょうさねとみ):公家出身で、明治政府の最高職である太政大臣も務めました。
- 岩倉具視(いわくらともみ):同じく公家出身。岩倉使節団を率いて欧米を視察し、日本の近代化に貢献しました。
- 西郷隆盛(さいごうたかもり):薩摩藩出身。西南戦争で有名ですが、明治維新の立役者の一人です。
- 大久保利通(おおくぼとしみち):薩摩藩出身。「維新の三傑」の一人で、新政府の基盤作りに尽力しました。
- 木戸孝允(きどたかよし):長州藩出身。「維新の三傑」の一人で、版籍奉還や廃藩置県を進めました。
この5人については、中学校の歴史の教科書でも必ず出てくるくらい有名なので、多くの方がご存知かもしれませんね。
明治維新の十傑
次に「十傑」ですが、こちらは時代や数え方によって多少メンバーが異なります。一般的には、維新に大きく貢献した10人の志士たちを指すことが多いです。ここでは、本文で挙げられているメンバーを紹介します。
- 西郷隆盛(さいごうたかもり):薩摩藩
- 大久保利通(おおくぼとしみち):薩摩藩
- 小松帯刀(こまつたてわき):薩摩藩。大政奉還や版籍奉還に貢献した功労者です。
- 大村益次郎(おおむらますじろう):長州藩。日本の近代軍制の基礎を築いた「軍事の父」と呼ばれます。
- 木戸孝允(きどたかよし):長州藩
- 前原一誠(まえばらいっせい):長州藩
- 広沢真臣(ひろさわさねおみ):長州藩
- 江藤新平(えとうしんぺい):肥前藩。司法制度の確立に尽力しました。
- 横井小楠(よこいしょうなん):肥後藩。幕末の思想家として知られます。
- 岩倉具視(いわくらともみ):公家
ここに挙げた方々の中には、先ほどの「元勲」と重複する人もいますね。ざっと数えても、これだけの功労者がいたことが分かります。江戸幕府側にも勝海舟(かつかいしゅう)のような素晴らしい人物はいましたが、新政府のトップになるのは現実的ではなかったでしょう。
なぜ消えた?明治維新の功労者たちの悲劇的な運命
これだけ多くの功労者がいたのだから、明治政府の中心で長く活躍する人がたくさんいたと考えるのが自然ですよね。しかも、彼らの多くは維新当時30代から40代と若く、これからという時に若くして亡くなることは考えにくいものです。しかし、現実は非常に厳しかったのです。
驚くべきことに、先ほど紹介した元勲・十傑の中から、多くの人々が明治新政府の初期に命を落としてしまうという悲劇が起こりました。その詳細を見ていきましょう。
- 明治2年1月5日(1869年2月15日):横井小楠、京都で暗殺される。(享年59歳)
- 明治2年9月4日(1869年11月5日):大村益次郎、京都で襲撃され、後に死亡。(享年45歳)
- 明治3年7月20日(1870年8月16日):小松帯刀、大阪で病死。(享年34歳)
- 明治4年1月9日(1871年2月27日):広沢真臣、東京の私邸で暗殺される。(享年37歳)
- 明治7年(1874年)2月1日:江藤新平、佐賀の乱を起こし、鎮圧後に斬首刑に処される。(享年40歳)
- 明治9年(1876年)10月28日:前原一誠、萩の乱を起こし、鎮圧後に斬首刑に処される。(享年42歳)
- 明治10年(1877年)5月26日:木戸孝允、京都で病死。(享年43歳)
- 明治10年(1877年)9月24日:西郷隆盛、西南戦争で敗れ、鹿児島で自害。(享年49歳)
- 明治11年(1878年)5月14日:大久保利通、東京清水谷で暗殺される。(享年47歳)
- 明治16年(1883年)7月20日:岩倉具視、東京で病死。(享年57歳)
なんと、挙げられた11名のうち、実に10名がこの短い期間に亡くなってしまったのです。内訳を見てみると、病死が3名、自決が1名、刑死(反乱の責任による処刑)が2名、そして暗殺が4名にも及びます。特に暗殺の多さは、当時の政情がいかに不安定で、命がけの時代だったかを物語っていますね。
この結果、元勲の中で唯一生き残ったのは三条実美だけとなりました。このように、明治維新を牽引した中心人物たちが次々と舞台から姿を消していったのです。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人は、「維新の三傑(いしんのさんけつ)」と呼ばれ、明治維新において特に大きな功績を残したと評価されています。彼らは互いに協力し、時には対立しながらも、日本の近代化に大きく貢献しました。しかし、彼らもまた、激動の時代の渦中で命を落としました。
初代総理大臣の座を巡る伊藤博文の台頭と対抗馬たち
功労者の多くが志半ばで世を去る中、新しい時代を担う人材が台頭してきます。その中で、伊藤博文はどのようにして初代総理大臣の座に近づいていったのでしょうか? そして、彼には他に有力な対抗馬はいなかったのでしょうか?
明治新政府において、総理大臣のような中心的な地位に就くには、政府内で重要なポストを歴任し、経験と実績を積むことが必須でした。
事実上の総理大臣「内務卿」での活躍
明治政府の重要ポストといえば、真っ先に挙げられるのが「内務卿(ないむきょう)」です。これは戦前の「内務大臣」の前身にあたる役職で、大日本帝国憲法が発布されるまでの間は、事実上の総理大臣として国の行政全般を統括する非常に重要な役割を担っていました。
歴代の内務卿を見てみましょう。
歴代の内務卿と伊藤博文の活躍
- 初代:大久保利通(薩摩閥)
1873年(明治6年)11月29日〜 - 2代目:木戸孝允(長州閥)
1874年(明治7年)2月14日〜 - 3代目:大久保利通(薩摩閥)
1874年(明治7年)4月27日〜 - 4代目:伊藤博文(長州閥)
1874年(明治7年)8月2日〜(ここで伊藤博文が登場!) - 5代目:大久保利通(薩摩閥)
1874年(明治7年)11月28日〜 - 6代目:伊藤博文(長州閥)
1878年(明治11年)5月15日〜(大久保利通の暗殺を受けて再任) - 7代目:松方正義(薩摩閥)
1880年(明治13年)2月28日〜 - 8代目:山田顕義(長州閥)
1881年(明治14年)10月21日〜 - 9代目:山縣有朋(長州閥、陸軍中将)
1883年(明治16年)12月12日〜
この一覧を見ると、明治政府が薩摩藩と長州藩の薩長閥(さっちょうばつ)によって動かされていたことがよくわかりますね。そして、大久保利通という大物政治家の後に、伊藤博文がしっかりと内務卿の座に就いていることが見て取れます。この頃から、彼はすでに政府内で一目置かれる存在になっていたのです。
では、内務卿のポストに就いた中で、伊藤博文の対抗馬になり得た人物はいたのでしょうか? 候補としては、松方正義(まつかたまさよし)、山田顕義(やまだあきよし)、山縣有朋(やまがたありとも)が挙げられます。
- 松方正義:主に大蔵卿(現在の財務大臣のような役職)を歴任し、「財政の松方」として知られる財政通でした。しかし、大久保利通の後任として長く内務卿を務め、行政全般に精通していた伊藤博文と比べると、総理大臣候補としては少し不利だったかもしれません。
- 山田顕義、山縣有朋:この二人は、伊藤博文と同じ長州藩出身で、かの有名な松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ伊藤博文の後輩にあたります。後に総理大臣になる山縣有朋もこの時点では伊藤より経験が浅く、彼らは伊藤の盟友であり、協力者としての側面が強かったでしょう。
明治政府の閣僚を指導する「参議」ポスト
もう一つの重要なポストが「参議(さんぎ)」です。これは形式的には閣僚(「卿」と呼ばれる大臣たち)を指導する役割を担っていました。明治18年(1885年)当時、参議を務めていた主要な人物は以下の通りです。こちらもやはり、主要な藩閥出身者が中心となっていますね。
- 大木喬任(おおきたかとう):佐賀藩
- 伊藤博文(いとうひろぶみ):長州藩
- 山縣有朋(やまがたありとも):長州藩
- 井上馨(いのうえかおる):長州藩
- 山田顕義(やまだあきよし):長州藩
- 西郷従道(さいごうつぐみち):薩摩藩(西郷隆盛の弟)
- 松方正義(まつかたまさよし):薩摩藩
- 大山巌(おおやまいわお):薩摩藩
- 福岡孝悌(ふくおかたかちか):土佐藩
- 佐々木高行(ささきたかゆき):土佐藩
ここにも有力な人物はいますが、やはり伊藤博文の強力な対抗馬になり得たのは、財政手腕に長けた松方正義くらいだったでしょう。長州藩出身の井上馨(いのうえかおる)は伊藤博文の非常に親しい盟友であり、彼を支える立場でしたので、対立することはまずありませんでした。
意外なことに、初代内閣総理大臣の伊藤博文、早稲田大学創設者の大隈重信、松方財政で有名な松方正義、そして「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄といった日本の近代を築いた偉人たちが、現在のJRA(日本中央競馬会)の母体となった日本レース・クラブの初期メンバーとして、馬主や競馬の運営に関わっていたそうです。彼らが多様な分野で活躍していたことがうかがえますね。
最終的に総理大臣はどのように決まったのか?若きリーダー伊藤博文の誕生
明治18年(1885年)、日本は「太政官制(だじょうかんせい)」という古い政治制度から、現代にもつながる「内閣制度(ないかくせいど)」へと大きく移行することになりました。この新しい制度の導入にあたり、誰が初代内閣総理大臣になるのか、ということが最大の焦点となりました。
最有力候補:三条実美の辞退と伊藤博文への期待
これまでの政府のトップは「太政大臣(だじょうだいじん)」であり、その座にいたのは、維新の元勲で唯一生き残っていた三条実美でした。彼は公家の中でも非常に格式の高い三条家の出身で、その家柄、身分ともに申し分ありませんでした。形式的に見れば、彼が初代総理大臣になるのが最も自然な流れでした。
しかし、三条実美自身は、初代総理大臣の座に就くことを望んでいなかったと言われています。なぜでしょうか?
理由の一つは、大久保利通が亡くなった後、数年にわたって明治政府の行政全般を実質的に切り盛りし、新しい制度を徐々に作り上げてきたのが伊藤博文だったという事実です。彼は行政の内部を隅々まで把握しており、国を動かす具体的な実務能力に長けていました。
また、当時の日本は、不平等条約の改正など、山積する国際問題に直面していました。将来的には、清国(現在の中国)やロシアとの戦争に備え、国力を高める必要もありました。このような複雑で荒々しい国内外の情勢を乗り切るには、調整型の公家出身者では難しく、具体的な行動力と国際感覚を持ったリーダーが必要だと考えられていたのです。
一説には、内閣制度が始まるにあたり、「英語ぐらい読めないと。」という話がきっかけで伊藤博文に決まったとも言われています。伊藤博文は若くして欧米を視察し、諸外国の政治制度や文化に触れていました。彼こそが、これからの国際社会で日本をリードしていくにふさわしい人物だと評価されたのでしょう。
こうして、44歳という当時の総理大臣としては最も若い年齢で、伊藤博文は初代内閣総理大臣の座に就くことになりました。
まとめ:伊藤博文が初代総理大臣になれたのは「彼しかいなかった」から
今回は、明治維新に貢献した数多くの元勲や十傑がいたにもかかわらず、なぜ伊藤博文が初代総理大臣に選ばれたのかを、客観的な視点からじっくりと解説してきました。
結論として言えるのは、「やはり伊藤博文しかいなかった」ということです。
- 維新の功労者たちの悲劇:明治新政府の初期に、中心的な役割を担っていた多くの元勲や十傑が、病気や暗殺、反乱によって次々と命を落としました。これにより、彼らが生きていれば伊藤博文の道はなかったかもしれませんが、結果として有力なライバルがいなくなってしまったのです。
- 内務卿としての実績:伊藤博文は、事実上の総理大臣であった「内務卿」のポストを大久保利通から引き継ぎ、長く務めることで、日本の行政を深く理解し、その実務能力を高く評価されていました。
- 国際的な視野と行動力:激動の国際情勢の中で、不平等条約の改正など、喫緊の課題を解決していくには、柔軟な発想と国際的な視野を持つリーダーが必要でした。海外経験も豊富で、英語にも堪能だった伊藤博文は、まさにその要件を満たしていました。
- 政治的な立ち位置:大隈重信(おおくましげのぶ)のように、能力はありながらも、当時の政界では急進的な考え方が受け入れられにくかった人物もいました。伊藤博文は、藩閥政治の中でバランスを取りつつ、着実に実績を積み上げていったと言えるでしょう。
伊藤博文は、公式には長州藩の武士とされていますが、実は生まれた時は農民でした。その意味では、農民出身でありながら国のトップに上り詰めた彼は、まさに戦国時代の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の再来と言っても過言ではないでしょう。
奇しくも、両者ともに朝鮮問題(伊藤博文の場合は日韓併合問題)がその後の運命に大きく影響したことは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。
伊藤博文の生涯と、彼が初代総理大臣となるまでの道のりを知ることで、明治という時代の激しさ、そして彼がいかにしてその時代を切り拓いたのかを感じ取っていただけたなら幸いです。
この記事を通じて、皆さんの日本史への興味がさらに深まれば嬉しいです!
伊藤博文にはこんなエピソードもあります。
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