井上準之助は浜口内閣と第二次若槻内閣で大蔵大臣に就任し、金本位制、いわゆる金解禁を緊縮財政路線とともに実施しました。
このため、世界恐慌の影響もあって日本経済はデフレーションに陥り中小企業、農民層が厳しい状況となりました。
また緊縮財政路線は軍部特に海軍から恨みをかうこととなり、このことが彼の暗殺につながることとなります。この原因となった金解禁についても説明します。
井上準之助はどの様に暗殺されたのでしょう
1932年(昭和7年)2月9日に前大蔵大臣であり民政党総務委員長の井上準之助が東京の本郷駒込小学校で演説うことになっていました。
自動車に乗って通用門に入っていくところを、犯人の小沼正が懐からピストルを取り出し、井上の腰に当てて3発発射しました。
小沼はステッキで殴られて気絶し、周りの群衆からリンチに会います。当然でしょうけど。その場で警察に逮捕されることになります。井上は帝大病院に搬送されますが、間もなく死亡してしまいます。
浜口雄幸と井上準之助でペア画している渋いカップル pic.twitter.com/EsEwRVgHio
— ここんちょ®︎ (@Beteran_Akachan) July 5, 2021
井上準之助が暗殺された理由は何だったのでしょうか
井上準之助は浜口内閣及び第二次若槻内閣の大蔵大臣として1929年7月から1931年12月まで就任していました。
その時の金本位制への復帰、いわゆる金解禁政策を行い、緊縮財政路線を引いていました。
この金解禁政策が実にタイミングが悪いことに、1929年の世界恐慌と重なったおかげで、日本国内が深刻な不況になってしまい、中小企業や農村が疲弊することになるのです。
何しろ不況ですから農作物の値段が下がってしまいます。こういうこともあり、農村出身者が多い軍部、ひいては右翼から狙われることになってしまうのです。
また、緊縮財政によって軍事費の大幅な縮減を図ることで、更に軍部には恨みをかうことになったのが原因と言われています。
#今日はなんの日歴史編
1932年 血盟団事件:井上準之助暗殺今日は井上準之助が血盟団員によって暗殺された日
井上は金解禁を行い昭和恐慌を起こしたとして標的になったよ
血盟団は財閥、特権階級を暗殺し
クーデターで天皇中心の国家を作るべきと主張する団体で陸海青年将校にもパイプをもってたよ pic.twitter.com/LwL6rrH4Xu— 神門 南🍊皇道派Vtuber (@GoudoMinami) February 9, 2020
金解禁政策、金本位制とはどのようなことでしょうか
これについては、用語ではわかるのですが、今一つ実感がわかないですよね。私なりに説明したいと思います。
金本位制とはどういうことか
まず、金本位制とはどういうことかというと、日本の円と金の価格を固定することなのです。こうすると日本の円の価値は安定しますようね。
円を持っていれば必ず金何グラムと交換されるのですから。第一次世界大戦の前には主要国は金本位制を採用していました。
まずここからスタートするのです。それぞれその国が持つ金の量に応じてお札を刷ることができるのです。逆に言えば金がなければお金を供給できないのです。
第一次世界大戦を契機に各国は金本位制から離脱します
しかしながら第一次世界大戦が起こると各国は金本位制を停止します。なぜなら、それぞれの国が戦争のために軍需品を買い込みますから、金がどんどん海外に流出してしまします。
このため日本を含む各国は金の輸出を禁止します。金本位制を停止することになるのです。
第一次世界大戦が終わり、それぞれの国内が安定してくると、各国は再び金輸出解禁、金本位制に復帰します。
第一次世界大戦が終わっても日本だけが金本位制に戻りません
ところが日本だけはこの流れに乗り遅れることになります。というのは日本は戦後の不況が襲っていました。もう一つの特殊事情は1923年の関東大震災です。
日本は復興のための輸入品が増えてきて、輸出する物がないという状況になります。この状態で金輸出解禁をすれば、日本の金がどんどん国外に流出してしまいます。
このため日本だけは頑なに金輸出禁止を貫いていたのです
主要国で日本だけが取り残されることはまずいと考え、各国からも金輸出解禁に復帰するよう求められていることから、浜口雄幸首相は井上準之助を大蔵大臣に据えて、金解禁に軸足を運ぶことになるのです。
金解禁にあたって重要なのは金とのレートの設定です
この時に重要な決定をしなければならないのです。それは、金と円の値段をいくらに設定するかということです。
金輸出禁止前は100円が金75グラムとされていました。それは49.85ドルだったのです。しかしながら、大戦中及びその後の日本円は円安に振れて、100円が46.5ドルになっていたのです。
本来は実勢価格の100円46.5ドルで行えば混乱は少なかったのです。ところが日本の威信を重視し旧価格の49.85ドルで設定しました。1930年1月のことです。
このため、日本円の政策金利を上げたり、通貨量を減らしたりして、円高に誘導しようとするのです。このため、物価・賃金が下がるという状況になってくるのです。いわゆる円高不況です。
このため体力のない弱小企業は淘汰されて強い企業だけが生き残るという、どこか平成不況と似たような状況になります。
更に悪いことが起こります。1929年10月の暗黒の木曜日です。これによって世界恐慌が起こる中で日本がデフレ政策を行っているのですから、空前の不況になるわけです。
これを昭和恐慌と言っています。井上のミスとしてはこのアメリカの株価暴落を一過性のものと考え重視しなかったことでした。
このため日本の不況は深刻化してしまい。これが、浜口雄幸首相の暗殺未遂事件、井上重之助元大蔵大臣の暗殺事件につながるわけです。
金解禁はその後どのようになったのでしょうか
1931年12月、犬養毅が総理大臣になると高橋是清が大蔵大臣に就任します。即座に金輸出を禁止して、紙幣を大量発行します。
このため、100円49.85ドルだった為替レートは1934年には100円29ドルまで40%の円安になります。ものすごい円安誘導ですね。
しかしこのため、1931年11億円であった輸出は1934年には21億円まで回復し、不況からの脱出に成功します。
井上準之助暗殺の経緯とその理由の金解禁をわかりやすく説明しますのまとめ
逮捕された小沼の暗殺理由は以上の通りです。しかしながら、この犯行は小沼単独ではなく血盟団という過激右翼組織が一人一殺の方針の下におこなわれた計画的なテロなのです。
武器となるピストルも暗殺計画もすべて血盟団が関与して提供としています。このような団体がどうして取り締まりの対象にならなかったかが不思議なくらいですが、当時の風潮もあったのでしょう。それだけ政府への国民の反発が強かったのかもしれません。
犯人小沼正は、そんなことから、無期懲役の判決を受けますが、1940年には恩赦で釈放されてしまいます。そして戦後まで右翼活動を続けて生き残っていきます。
なんだか釈然としませんが。この辺の状況については、後日まとめて解説していきたいと思います。
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