岩倉具視の謹慎と復活:5年間の蟄居生活が維新を動かす礎となった理由とは?

歴史人物

明治維新を語るうえで欠かせない人物のひとり、岩倉具視。公家でありながら討幕の中心人物とされ、「維新の十傑」のひとりにも数えられています。しかし、彼は1862年から5年間にわたって公的な活動を禁じられ、京都郊外の岩倉村で謹慎生活を送っていました。

この記事では、岩倉具視がなぜ謹慎に追い込まれたのか、その背景と過程、そしてその間に何を考え、どのような政治的準備を進めていたのかを丁寧に解説します。

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岩倉具視とは何者だったのか?

岩倉具視は下級貴族の出身ながら、学識と行動力によって頭角を現し、朝廷と幕府の関係を軸に動乱の時代を生き抜いた稀有な存在です。幕末の重要な政治局面に深く関与し、「討幕」や「王政復古」のシナリオを描いた中心人物のひとりです。

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幕府寄りとされた岩倉の政治スタンス

1858年、日米修好通商条約の勅許をめぐって幕府と朝廷が対立した際、岩倉具視は「廷臣八十八卿列参事件」に名を連ね、反対を表明しました。ただし彼の立場は過激な攘夷ではなく、実務的な国防体制を重視した現実主義でした。

安政の大獄では、朝廷に被害が及ばないよう京都所司代と連携し、調整役に徹したことから、結果的に「幕府寄り」との評価を受けることになります。

和宮降嫁と公武合体への貢献

岩倉具視は幕府と朝廷の安定的な関係構築を目指し、公武合体を推進します。その象徴が「和宮降嫁」です。幕府が朝廷の権威を借りることで政権安定を図ろうとする中、岩倉は勅使として江戸に赴き、徳川家茂から誓書を取り付けるなど、朝廷の立場を強化する外交手腕を発揮しました。

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攘夷運動の激化と岩倉具視の失脚

1861年、長州藩が孝明天皇に「航海遠略策」を献上し、公武合体を軸にした「現実的開国→将来的攘夷」方針が定まります。しかし、翌1862年、島津久光の動きにより政治の主導権が幕府から朝廷へと急速に移り始め、幕府との協調を進めていた岩倉は、次第に時代の潮流から外れていきます。

結果的に彼は、「四奸二嬪(しかんにひん)」と呼ばれる幕府追従派として公家から非難を浴び、孝明天皇の信任も失い、辞官・出家・洛中追放という処分を受けます。

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静かなたたかいの5年間とは何だったのか

1863年、朝廷内の対幕府感情の高まりとともに、岩倉具視は政界から追放され、京都市街からも姿を消し、洛外の岩倉村に居を構えました。これが、彼の5年間にわたる「幽棲」と呼ばれる蟄居生活の始まりです。

表向きは謹慎の身ながらも、岩倉は完全に政治の世界と断絶していたわけではありません。この時期はむしろ、岩倉具視にとって思想を熟成させ、討幕への構想を具体化する準備期間だったのです。

1. リモートワークでの政治活動

岩倉村には、薩摩藩士や朝廷内の進歩派公家たちが訪れ、岩倉と意見交換を重ねていました。直接会えない場合は書簡による連絡が交わされ、岩倉は各種の意見書や建白書を執筆していました。まさに現代の”リモート政治”とも言える活動です。

2. 薩摩藩との接近と路線転換

もともと岩倉は公武合体論者であり、幕府との協調による安定を目指していました。しかし、禁門の変や第二次長州征伐を通じて、幕府の限界を悟るようになります。とりわけ薩摩藩との思想的接近は著しく、幕府打倒の構想に共鳴していくようになります。

3. 思想の深化と自己改革

この5年間で岩倉は、単なる公家政治の枠を超えた国家構想を育てていきます。単に反幕府ではなく、近代的国家体制の樹立、中央集権、王政復古などの構想がこの時期に培われていきました。

4. 復帰を見据えた布石とネットワーク構築

岩倉はただ赦免を待っていたのではなく、復帰後の政局で主導権を握ることを見据えて、人的ネットワークの構築に尽力していました。木戸孝允や大久保利通らとの信頼関係もこの頃から強まり、後の「岩倉使節団」や新政府の布陣にもつながっていきます。

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赦免と復活:明治維新の中枢へ

1867年、孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位。同年11月、大政奉還の直後に岩倉具視は赦免され、政界に復帰します。5年に及ぶ謹慎期間を経て、彼は明治新政府の中心人物として一気に表舞台へと返り咲きます。

この間に熟考された彼の政治構想が、「王政復古の大号令」や「五箇条の御誓文」など、明治政府の骨格として形になっていくのです。

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まとめ:岩倉具視の謹慎は維新の起点だった

表向きは「政界追放」「蟄居」とされていた岩倉具視の5年間は、決して無為なものではありませんでした。むしろ、その静かな時間のなかで彼は政治的な知見を深め、人脈を築き、維新に向けた青写真を描いていたのです。

  • 単なる謹慎生活ではなく、意見書執筆と書簡交流による水面下の政治活動を展開
  • 薩摩藩をはじめとした討幕勢力との接触で思想転換を遂げる
  • 王政復古の原案をこの時期に固め、新政府構想の基礎を形成
  • 大政奉還後の赦免を経て、討幕の中心人物として舞い戻る

つまり、岩倉具視の「静かな戦い」とは、単なる忍耐ではなく、時機を見据えた冷静な政治的準備であり、まさに維新の幕を開ける布石であったのです。

その生き方は、現代を生きる私たちにも「一時の後退は飛躍の準備である」ことを教えてくれます。

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