大河ドラマ「青天を衝け」の中で、渋沢栄一を世に出した大恩人である平岡円四郎が大きく取り上げられています。
彼の目利きにより見いだされ、口利きで後の徳川慶喜の家臣として一橋家に抱えられ、その中で活躍することで、渋沢栄一は世の中に認められるようになったのです。
そんなことから、渋沢栄一にとっては大恩人と言えるでしょう。しかも最初はぐずぐずしていたた渋沢を最後まで面倒見ています。
この人も興味尽きない人ですので、その実像を見てみましょう。
平岡円四郎の生涯は?
文政5年10月7日(1822年11月20日)旗本岡本忠次郎の子として生まれますが、旗本平岡文次郎の養子となります。
藤田東湖、川路聖謨から認められて、徳川慶喜の一橋家に仕えることとなります。その頃藤田東湖、川路聖謨も相当の人ですから、かなりできた人なんでしょうね。
徳川慶喜も一橋家に行って気が合う家来がなかったようで、相当重宝されたようです。と言っても平岡の方が十歳以上年上ですが。
安政5年(1858年)第13代将軍徳川家定の後継者問題で活躍します。自分の主君が将軍になるチャンスがあるなら、家臣としても一生懸命根回しに奔走することでしょう。
結局は紀州の慶福になって、処分されてしまいます。井伊直弼には相当睨まれたことでしょうね。
安政の大獄で左遷されます。四年ぐらい鳴かず飛ばずで甲府の方に引っ込んでいたようです。
文久2年(1862年)慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。ここからが、活躍のチャンスと言えるでしょう。悪い時もあれば良い時もあるということです。
文久3年(1863年)一橋家用人として復帰します。
主に京都で活躍することになるのですが、朝廷からは攘夷をしろと徳川慶喜は言われていますが、そんな事できっこないということがわかっていますので、サボタージュしております。
そして、体制を安定させるために、慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされてしまいます。
過激派から見れば、殿様は攘夷をしたいのだが、その側近が邪魔しているということになるのでしょう。
元治元年(1864年)一橋家家老並に任命される。近江守に叙任される。
元治元年6月16日(1864年7月19日)在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らに暗殺されます。享年43。
この頃もそうですが、過激派の考えというものは何時の世も同じです。殿様の周りの奸臣を取り除くという考えなんでしょう。
70年後にも天皇陛下の周りの奸臣を除くとして盛んにテロが横行しました。
平岡平四郎はどのように渋沢栄一を見つけ出したか。
平岡平四郎は一橋家に仕官してからは、有用な人材を求めて全国を探し歩いたといわれています。
一橋家は御三卿と言って立派な大名なのですが、水戸藩とか薩摩藩のように国を持っているわけではありません。全国に散らばった領地をまとめて藩としているのです。
国があってお城があってという具合にはいきません。家臣と知ってもそれぞればらばらの領地にいますので、はっきり言ってまとまりがあるはずがありません。
御三卿という格は立派でも、何かをなそうとする実力、実行力に欠けるところがあるのです。
やはり、組織をまとめるには人材ということで、有為な人材を求めることになるのです。
一方、栄一の方はその頃尊王攘夷の志士かぶれをしており、時々、江戸に出てはその筋の過激派とも接触を持っていたころです。
江戸にいる過激派といえばかなりの部分が水戸藩士につながるわけですから、そんなところから、なかなか役に立つ人物だと噂が立ったのかもしれません。
そうなると、お互い水戸藩つながりですので、平岡にも情報が入ってきたことでしょう。あんがい、「青天を衝け」に近いストーリーだったかもしれません。
といっても栄一にしてみれば、平岡に会ったことが人生を変えることになるのですから。
両者とも目先が効くので、会ってしまえばうまくいくのでしょう。
いずれにしろ、この出会いが、渋沢栄一が一橋家に加わる転機となるのですから、日本の近代史の中で大きな役割を果たしたことになります。
平岡円四郎のエピソードと暗殺の理由
平岡円四郎は藤田東湖や川路聖謨から推挙されて一橋家に家臣として入ったものの、相当の変人であったようです。身なりも作法も全くわきまえない様子であったようです。
さすがに殿様の慶喜もまずいと思ったらしく、作法の指導を自ら行ったとの話が伝わっております。なんか順序が逆ですよね。
一方こちらは徳川慶喜さんによる、ご飯の正しいよそい方になります。平岡円四郎さんはもちろん、明日の給食でご飯をよそう係になった人は、これを見てご飯のよそい方を工夫しましょうね。#青天を衝け pic.twitter.com/b2xwlvwinj
— きみー (@fab_gabrielis) March 7, 2021
平岡円四郎を襲ったのは、水戸藩藩士の江幡広光、林忠五郎の二名です。こちらの方はガチガチの尊皇攘夷派ですから、上記のような理由で排斥したかったのでしょう。
この時、平岡円四郎は命を落としてしまいますが、川村恵十郎という剣の達人が同行しており、傷は負ったもののこの両名を倒しています。
もう少し早く対処していたら、明治以降にも活躍できたのにと惜しむものです。川村恵十郎はその後も明治政府で活躍することになります。
渋沢栄一の後日談は次の通りです。
「この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。
然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。
平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。」
意外に冷めた見方をしているのに驚きます。
平岡円四郎は渋沢栄一を世に出した大恩人のまとめ
渋沢栄一が世に出るチャンスを作った平岡円四郎の生涯について解説してきました。人間にはそれなりの役割があり、思わぬところにチャンスが巡ってくるものだと思います。
もし平岡がいなければ、渋沢栄一も維新の志士としてどこかで命を落とすか、故郷で商売にいそしむかしていたことでしょう。
人間とはわからないものです。
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