浜口雄幸(おさち)は第27代の内閣総理大臣になります。その容貌と強引な施策の実施からライオン宰相と呼ばれていました。
原敬首相が暗殺されて9年後の1930年(昭和5年)11月14日東京駅で右翼の青年に銃撃されます。幸いその時、一命はとりとめましたが、9か月後には亡くなってしまいます。この事件の内容を説明します。
浜口雄幸首相遭難事件はどのように起こったか
1930年(昭和5年)11月14日浜口首相は岡山県で行われる陸軍の演習の視察と昭和天皇の行幸への付き添いのため午前9時発の神戸行き特急燕に乗車するため東京駅に着きます。
第4ホームを移動中に至近距離から愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離からピストルで撃たれます。駅長室に運び込まれた後、輸血が施され、東京帝国大学医学部付属病院で手術をして一命は取り留めることになります。
犯人はその場で逮捕されます。
場所についてはホーム上ですが、東京駅の中央口から入って新幹線の階段の側に事件の概要を示すプレートと床に印が残っています。ただし、この印は襲撃場所の真下ということになります。
また、この同じ列車で、後に首相となる広田弘毅大使が出発しており、外務大臣幣原喜重郎その他大勢もいたのですが、銃撃に気がつかず、広田大使はそのまま出発したといわれています。
浜口首相は翌年の1月に退院しますが、野党政友会の犬養毅、鳩山一郎から執拗な登壇要求がつづいたため、3月に出席します。
そして4月には再入院、手術となり首相と民正党総裁を辞任することになります。しかしその後も経過は良くなく8月26日に満61歳で亡くなることになります。
犬養毅も、鳩山一郎も罪なことをしたと思います。いくら内閣を追求する絶好のチャンスでも、もう少し状況を察する必要があったのではないでしょうか。やがてこれが自分に降りかかることになります。
東京駅で1930年に起きた浜口雄幸首相遭難現場を見学しました。 pic.twitter.com/thAAVqt5pj
— 千田嘉博_城郭考古学 (@yoshi_nara) August 7, 2021
浜口雄幸首相が襲われる原因となったのは
浜口雄幸は襲撃される前年の1929年7月から内閣総理大臣となっていますが、幾つかの重要な施策を展開しております。
経済対策として金解禁を実施
第一次世界大戦の好況も終わり、更に1927年には金融恐慌という具合で国内は長い不況になっていました。日本を不況から脱出させるためには、金解禁が不可欠であると断行しております。
ただしこれは痛みを伴う対策であったため直後の世界恐慌と相まって、より深刻なデフレを招くことになります。このため、国民的な人気とは裏腹に、産業、生活は苦しい状況が続いていました。
対外協調路線の外交政策
幣原喜重郎を外務大臣として起用して、対中国の関係改善及びアメリカ、イギリスとの協調外交を推進しました。この対外協調路線は右翼勢力からは不評な施策でした。
軍備縮小と緊縮財政の実施
経済政策としての緊縮財政をするとともに、ロンドン海軍軍縮条約で条約を締結します。これは、海軍軍令部や野党の政友会の強硬な反対もあったがこれを進めてしまいます。
この時の議論で、陸海軍の軍備は天皇陛下の決めることになっているので、これが統帥権の侵犯にあたるとの意見が出てきたのです。
ここら辺は大日本帝国憲法のある意味不備なところがあったのかもしれません。こんなことから、右翼にとっては許しがたいと思ったのかもしれません。
1870年5月1日、浜口雄幸が生まれました。
第27代内閣総理大臣を務め、その風貌からライオン宰相と呼ばれました。
出生時には「幸雄」と命名されますが、出生届を出しに行った父親が酒を飲み酩酊し誤って「雄幸」と記入したことからこのような名前になりました。 pic.twitter.com/lB2UhRs2zI— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) April 30, 2021
犯人の佐郷屋留雄はどのような人でしょうか
佐郷屋留雄は1908年生まれですから犯行当時は21歳でした。清の吉林省でうまれ、15歳で家出して、日本郵船営口丸の舵夫となって各地の汽船会社を転々していました。
更に、満州、シンガポールに行ったりした後、黒龍会の世話になりますが、傷害事件を起こして、1930年愛国社の社員となります。いろいろなところを転々としたのですが、右翼系団体に出入りしていたのですね。
犯行に及んだ理由としては直後に、「社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した」と述べていることから大体推測はつきます。しかし、統帥権とは何かについて答えられないことから、表面的に吹き込まれていたのでしょう。
結果的に、浜口首相は一命をとりとめましたが、後で特殊な細菌の保持者でありその細菌の侵入で亡くなったことから、殺人未遂ということで起訴され、2年後に殺人罪により死刑の判決を受けました。
しかし、これも原敬首相の時と同じように恩赦で無期懲役となり、なんと7年後には仮出所しているのです。これは軽すぎるのではないでしょうか。
明治時代にも多くの暗殺事件が起こりましたが、犯人は自ら命を絶つか、死刑になっています。それが数十年たつと、自ら命を絶つどころか、簡単に出所してしまうのです。
更に、その信条を犯人が明確に答えられないことも目立つようになります。ここら辺がバックに右翼がついていて、暗殺を教唆したか指示したかが疑われることになるのです。
佐郷屋は出所した後も右翼活動をつづけます。1554年右翼団体護国団を結成して団長になります。さらには、全日本愛国者団体会議の初代議長にもなっています。
こんなように順調にその後を全うして、64歳で亡くなっています。なんとなく釈然としないものが残るのです。
在任中に体調不良で亡くなった首相もけっこういらっしゃるので、これでよかったんじゃないかと。
浜口雄幸は銃撃されて一命をとりとめたものの、体調が戻ってないのに、国会に登壇させられて亡くなったとか。マジで胸くそ悪い。
こういう非道はさすがにあかん。 pic.twitter.com/TE7ncEV9Od
— リモコン (@ObPc5JifEzqV2Gp) August 28, 2020
浜口雄幸内閣総理大臣は東京駅で狙撃された理由と犯人のその後のまとめ
1930年(昭和5年)に起こった浜口首相襲撃事件を取り上げました。確かに、全体が不況のさなかにあって経済対策にうまくいかなかったことは否定できませんが、それと暗殺とは別ですよね。
しかも、9年前の原敬首相の頃から暗殺者に対して非常に寛大な措置が続いているのです。この後も戦争に突入するまでに多くのテロ事件が起きていますが、概して、処分が甘い傾向にあります。
こんなことも、テロがその後、頻繁に発生する温床になったのかもしれません。そのことは、後に粛軍演説、反軍演説を行う斎藤隆夫も帝国議会で厳しく追及していますが、時代の流れを止めることはできなかったようです。
コメント