シーボルトと言えば、江戸時代の末期に日本に滞在し、蘭学や医学の分野で当時の知識人に大きな影響を与えた人物としてよく知られています。そして、帰国間際に当時国外への持ち出しが厳しく禁じられていた日本地図を国外に持ち出そうとしたことから、いわゆる「シーボルト事件」として追放処分を受けたことも教科書などで紹介されています。
そのシーボルトがオランダに帰国後、現地で家庭を築き、生まれたアレクサンダーとハインリッヒという二人の息子たちが、明治時代の日本の文明開化において実は大きな貢献を果たしていたことは、意外と知られていないかもしれません。ここでは、この兄弟の日本での活躍について詳しく解説します。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの帰国後
「シーボルト事件」で国外追放となったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1830年にオランダに帰国しました。持ち帰った日本のコレクションは膨大で、文学・民俗学の資料が5,000点、哺乳動物の標本が200点、鳥類が900点、魚類750、爬虫類170、無脊椎動物標本5,000、植物が2,000種、植物標本にいたっては12,000点を数えるといいます。まさに一大知的資源でした。
その後、15年が経った48歳の時、ドイツ貴族出身のヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけます。長男がアレクサンダー(1846年生まれ)、次男がハインリッヒ(1852年生まれ)です。
アレクサンダー・フォン・シーボルトの業績
12歳で来日し日本語を習得
1858年、日蘭通商条約が締結されたのを契機に、父フィリップは再び職を得て日本に戻ります。このとき、12歳の長男アレクサンダーも同行し、長崎や江戸で日本語を学びました。
16歳で英国公使館の通訳として採用
1862年、アレクサンダーは16歳にして英国公使館の特別通訳生として採用され、翌年には正式な通訳・翻訳官となります。薩英戦争や下関戦争の現場にも通訳として同行しており、五代友厚、伊藤博文、井上馨といった後に明治政府を支える中心人物たちと、すでにこの時期に面識ができた可能性があります。
パリ万博に同行、渋沢栄一と接点も
1867年、徳川昭武がパリ万博に将軍徳川慶喜の名代として派遣された際、アレクサンダーは通訳として同行します。ここでは渋沢栄一とも同行しており、一説にはアレクサンダーが渋沢に英語を教えたとも伝えられています。
欧州での日墺条約締結に貢献
しばらくヨーロッパにとどまった後、1869年に再び日本に戻ります。この間に、日墺修好通商航海条約の締結に貢献したとされますが、この条約は内容的には不平等条約の色合いが強く、日本側にとっては必ずしも有利なものではありませんでした。それでも彼はこの功績によってオーストリア・ハンガリー帝国から男爵の爵位を授与されています。
明治政府に雇用され、条約改正交渉にも携わる
1870年からは明治政府の要員として正式に雇用され、フランクフルトでの紙幣印刷の交渉、ウィーン万博への参加調整などに従事。1878年にはパリ万博の日本代表委員にも選ばれました。
1881年からは井上馨の秘書として、条約改正のための交渉に携わり、最終的には1894年に締結された日英通商航海条約の調印にも関与したとされています。
ハインリッヒ・フォン・シーボルトの業績
17歳で日本に到着しオーストリア公使館に勤務
次男のハインリッヒは、兄アレクサンダーがパリ万博から帰国する際に同行し、1869年、17歳で日本に到着します。到着後はオーストリア・ハンガリー帝国公使館に勤務し、これも兄の推薦があったものと推察されます。
考古学者として日本文化を紹介
ハインリッヒは兄とは異なり、文化・学術面での功績が目立ちます。父フィリップの影響を色濃く受けており、考古学に強い関心を持っていたとされます。ウィーン万博にも参加し、その際には出品物の選定にも関わりました。
彼は日本の収集家たちと幅広く交流し、日本の民俗資料を大量に欧州へ持ち帰りました。これらの資料は欧州でのジャポニズム(日本趣味)ブームの形成にも寄与したと考えられています。
大森貝塚発掘、アイヌ研究にも携わる
さらに、エドワード・S・モースによる大森貝塚の発掘にも参加しており、日本の考古学の黎明期における重要人物でもあります。また、アイヌ民族の研究も行っており、その先駆的な業績は高く評価されています。
ハインリッヒの日本での家庭生活
ハインリッヒは日本橋の商家の娘・岩本はなと結婚し、2男1女をもうけました。長男は夭折し、次男は東京美術学校(現在の東京芸術大学)の一期生として日本画を学びましたが、わずか25歳で亡くなっています。
妻の岩本はなは長唄、琴、三味線、踊りのすべてで免許皆伝の腕前で、乃木希典に頼まれて学習院の宿舎で躾係を務めたり、福沢諭吉の娘の踊りの師匠を務めたこともあると伝えられています。娘の蓮も同様に長唄と琴で免許皆伝を取得しています。
まとめ:日本に深く根ざしたシーボルト家の功績
幕末に来日し追放されたフィリップ・シーボルトの存在は広く知られていますが、その息子たち、アレクサンダーとハインリッヒもまた、日本の近代化と国際化の中で重要な役割を果たしました。
アレクサンダーは外交分野で明治政府の要人として活躍し、ハインリッヒは考古学・文化紹介の分野で日本の知的遺産を欧州に広めました。二人とも10代で日本に渡り、それぞれの分野で日本に深く関わりながら人生を歩んでいった姿は、時代を超えて感銘を与えてくれます。
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