幕末を語るときに新選組について語らないわけにはいかないでしょう。幕末の京にあって、会津守護職の傘下で不逞浪士の取り締まり、市中警護を行った武装集団です。
土方歳三はこの新選組の副長として、結成当初から数々の内部抗争を戦い抜き、その地位を確立した人です。
従って、当初は悪役として取り扱われることが多かったのですが、司馬遼太郎の「燃えよ剣」の頃から、幕末のヒーローになってきました。土方歳三がどのように新選組を作っていったかを解説していきます。
土方歳三の多摩での生活
天保6年(1835年)武蔵国多摩郡に農家の10人兄弟の末っ子として生まれまする。多摩では豪農の家であり豊かなようであった。また、姉も日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いており、農家とはいえかなり家柄は良かったようです。
土方歳三の少年時代はあまり記録が残っていませんが、奉公に出たとも、家伝の骨折、打ち身などの効く石田散薬の行商をしていたともいわれています。その間も、剣術の稽古はしていたようです。
姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎は天然理心流に入門しており、近藤勇とは義兄弟の契りを結ぶまでなっていたようで、そんな縁で、近藤勇の天然理心流に入門することになります。安政6年(1859年)のことですから、土方歳三24歳です。相当遅い入門ですね。
それでも翌年の万延元年(1860年)に関東地方の剣術家の名鑑には土方歳三の名前が載っているようですので、それまでに、いろいろな道場に顔を出して相当腕を上げていたようです。
文久元年(1861年)天然理心流の紅白試合の時にはそれなりの地位に上がっていたようです。
この天然理心流の道場は試衛館と言われていますが、ここのメンバーが後の新選組の中核をなすことになります。
近藤勇は宗家ですが、門弟としては、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客としては、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一がいたようです。この道場は多摩郡にあるかと思うでしょうが、実は江戸の中にあります。現在の新宿区市谷柳町だそうです。
いずれにしろ、このメンバーが文久3年(1863年)2月第14代将軍の徳川家茂警護のための浪士組に応募して京都に赴くことになります。土方歳三28歳の頃です。
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【69】5月11日歳三の命日に寄せて pic.twitter.com/AmurkMEMoZ— 土方歳三資料館 (@toshizoofficial) July 11, 2021
京都での壬生浪士
こうして京都まで行くのですが、京に率いた清川八郎が浪士組を尊王攘夷に向かわせようとしてこれに同意したものは江戸に向かい新徴組となります。
これに同意しない者は壬生浪士組としてそこに留まります。これが後の新選組となります。第一次の隊士募集により36名の規模となり、京都守護職の松平容保から不逞浪士の取り締まりと市中警備をまかされます。
そして転機が訪れます。
8月18日の政変と言われている孝明天皇・中川宮・会津藩・薩摩藩による急進派公家と長州藩を朝廷から排除した事件が起こります。ここで、会津藩より壬生浪士組は京都警護を行い、活躍することとなり。新選組として発足します。
しかし新選組はその後、内部抗争が発生します。新選組の初期メンバーは大まかに次のグループに分かれていました。
芹沢一派 芹沢鴨、新見錦など7名
近藤一派 近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、斎藤一など10名
その他 10名
そして最初にその他グループが暗殺されたり、江戸にもどったりしています。その後芹沢一派が粛清されるという構図になります。
結果的に生き残ったのは近藤一派ですから、その間の権力闘争は相当すさまじいものがあったのでしょう。また、壬生浪士組といっても、やはり雑多な世界ですから、内輪、市中の者との喧嘩も絶えず、あちこちで金の無心などもあり大変な世界だったようです。
最終的に近藤勇が局長になり、土方歳三は副長となり、隊内の規律から体制など基本的にすべてのことを取り仕切っていたようです。これまでの権力闘争もかなりの部分は土方が描いていたようです。そういう意味では、とっても怖い人です。
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新選組の活躍
新選組内の内部抗争も文久3年には決着がついたようでようやく本領を発揮するときが来ます。
池田屋事件
元治元年(1864年)6月5日の出来事になります。長州藩は前年8月18日の政変で京から一掃されましたが、その挽回を図って活動をしているという情報を得ていました。
調べにより、炭薪商の古高俊太郎を取り調べ、「御所に火を放ち、中川宮を幽閉、一橋慶喜、松平容保を暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去る。」という内容だったようです。
古高の捕縛は知るところとなり、その奪還についての会合を池田屋で行うことを突き止めたようです。
夜の10時頃、尊攘志士が池田屋で謀議しているのを突き止め、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で踏み込み、後は外を固めます。
途中で沖田は病で離脱、藤堂は負傷で離脱し、一時2人だけで戦いますが、土方隊が到着して、新選組に有利に展開します。結果9名討ち取り4名捕縛という戦果になります。
また、逃走した尊攘志士も、続く市中相当で20名余りが捕縛されます。
この事件により、新選組の知名度が一気に上がります。
禁門の変
これも前年の8月18日の政変により京から追放された長州藩が京都守護職の松平容保を排除しようと挙兵したもので、本格的な京での戦闘になります。長州藩は山﨑天王山、嵯峨の天竜寺、伏見の長州屋敷に陣営を構えることになります。
7月19日に蛤御門で長州藩と会津・桑名藩の間で戦闘が勃発します。中立売門でも、堺町御門でも戦闘が始まります。しかしながら、長州藩は門を突破できずに、戦いの帰趨は決まってきます。
戦いは1日で終了しますが、長州藩の敗残兵の掃討戦がしばらく続きます。新選組も会津藩の傘下として活躍しております。
これらの活躍により隊士は200名を超えるまで増強されます。隊士を収容するため壬生寺から西本願寺に移転します。
また、長州征伐に参加することを想定して、一番隊から八番隊までの小隊編成に変更します。同時に隊内の規則も定めます。こういうところにずいぶん神経を使ったようです。
この後は、新選組は文字通り絶頂期を迎え、幕臣として京都の警護に活躍することになります。
大河オタクの一言!(前から)写真1は幕臣の仕事に身が入らない篤太夫、成一郎、言い争いをする篤太夫、成一郎、奉行所の手伝いをする篤太夫、護衛の任に当たる新選組です。写真2は謀反人を捕える土方歳三、歳三と話す篤太夫、パリ万博の話がきた徳川慶喜、幕臣の事を考える篤太夫です。 pic.twitter.com/ipqBcm5Hjj
— まちたつ (@QOa2FRaFWLkv9ct) July 1, 2021
油小路事件
慶応3年(1867年)最後の大々的な内部抗争、粛清事件として有名です。新選組を離脱した御陵衛士を結成した伊藤甲子太郎が薩摩藩と通報して近藤勇を暗殺しようとたくらんでいるとの、間諜として入った斎藤一からの報告があります。
伊藤をはじめとして4名の衛士が粛清された事件です。試衛館以来の隊士であった藤堂平助も粛清されてしまいます。
1867年の今日(11月18日)、油小路事件(近藤勇が伊東甲子太郎を暗殺)が発生。甲子太郎は新選組を脱退し、御陵衛士を結成してました。近藤らは、甲子太郎らが新選組から出てったことを、快く思ってなかったのです。で、近藤は「甲子太郎、粛清すべし」との方針を出し、隊士がそれを実行に移したのです pic.twitter.com/z9AJeyYiid
— 幕末ジャーナリスト:幕末歴史研究 (@kuni_s47) November 18, 2019
土方歳三はどのようにして新選組を作ったかのまとめ
武蔵国多摩郡から始まって、わずか数年にして天下に名を知られる戦闘集団となった新選組を実質的に作り上げた土方歳三の前半生を描いてみました。
何しろ、世の中が荒っぽい時代です。何かとあれば切り合いになってしまいます。また、新選組は出自を問わない集団ですので、いろいろな組織から、間者も入っている状況ですので、相当厳しい規律を必要としたのでしょう。
そんな殺伐とした時代を描くことになってしまいましたが、ある意味、時代が必要としていたと考えるしかありません。
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