高島秋帆は渋沢栄一と何処で出会ったか?西洋砲術の先駆者の生涯

歴史人物

高島秋帆は渋沢栄一と本当に出会ったでしょうか。「青天を衝け」で玉木宏さん演じる高島秋帆との出会いが重要な示唆となります。

この西洋砲術の先駆者、高島秋帆の生涯について洋式砲術と洋式銃陣の公開演習という大事業、逮捕、幽閉という災難について解説します。

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高島秋帆、西洋砲術の先駆者の生涯

まずは、ざっと高島秋帆の生涯についてざっとお知らせしておきます。

寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起の三男として生まれる。

文化11年(1814年)、長崎会所調役頭取となる。

天保5年(1834年)、私費で銃器等を揃え高島流砲術を完成させる。

肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門する。

自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上する。

幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』を提出する。

天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行う。

幕府から砲術の専門家として「火技中興洋兵開基」と称せられる。

天保13年(1842年)、長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。

武蔵国岡部藩にて幽閉される。

嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免される。

幕府に開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を提出する。

富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練を指導する。

元治元年(1864年)、『歩操新式』等の教練書を編纂する。

慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去する。

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高島秋帆は渋沢栄一と何処で出会ったか

「青天を衝け」では玉木宏さん演じる高島秋帆が、江戸から武蔵野国岡部藩(埼玉県深谷市)に移送されるときに渋沢栄一に牢屋であったことになっています。

そして若き日の渋沢栄一に国防の必要性を伝えられたことになっています。

どうして、高島秋帆は罪人になってしまったのでしょうか。そこについては、後で説明します。

本当に出会ったかどうかは定かではありませんが、場所が深谷ですし、渋沢栄一の出身地そのものです。

高島秋帆はその頃、幽閉といってもその専門の砲術で一家をなしていますので、かなりの方が教えを請いに訪ねて来ていることから、相当自由に活動できていたようです。

深谷では有名人になっていたことでしょう。

好奇心の強い栄一ですから、直接一度ぐらいは顔を合わせたかもしれませんね。または、教えに面会に来た人にくっついていった可能性も高いと思います。

明治になって、高島秋帆の記念碑を作る際にも、渋沢栄一は寄付をしているところからすると、牢屋ではともかく、あながち作り話ではなかったかもしれません。

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高島秋帆、西洋砲術の先駆者の生涯における逸話、エピソード

高島秋帆の生涯の中で重要なエピソードとなる二つの事件を解説します。

天保12年(1841年)、武蔵国徳丸ヶ原で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習

これはとても画期的なことですし、高島秋帆にとっては記念すべきイベントになったことでしょう。

高島秋帆はこの時期に300名からの弟子を有していたといわれていますし、演習に参加した弟子は100名に及ぶといわれています。

しかもその装備も下のような状況ですので、大名並の兵力を有していたとも考えられます。一介の町民にしては大変なものです。それを支える財力も相当にあったことでしょう。

いかに長崎会所の貿易にうまみがあったかがわかります。

演習部隊の様式の服装もしておりますし、頭にはコーン型の帽子もかぶっております。

モルチール砲の操練(ボンベン榴弾、3発)

モルチール砲の操練(ブラントコーゲル焼夷弾、2発)

ホーウイッスル砲の操練(ガラナート石榴弾、2発)

ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル葡萄弾、1発)

馬上筒の操練(1往復3挺使用、6発)

ゲベール銃備打ち(97名の一斉射撃)

野戦筒の操練(3門の砲を使用)

剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)

この演習を記念してこの地を高島平の名称となったとのことです。そうです。板橋区の高島平団地があるところです。

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天保13年(1842年)、逮捕・投獄、高島家は断絶

武蔵国岡部藩にて幽閉される。

得意の絶頂から1年後には大変なことになってしまいました。ちょうど厄年になる時期ですので災いが降ってきたのでしょうか。

原因はこの前の年の高島平の演習によって、江戸幕府に重く用いられたことによるものです。しかも町人の身分ですから面白くない人がたくさんいたでしょう。

さらに、長崎会所の経済状況もうらやまれていたこともあったでしょう。

老中水野忠邦の部下の鳥居耀蔵もそんな一人でした、洋式には全く興味がない儒学一辺倒の人で、この人の企てた冤罪と言われています。

長崎奉行井沢政義も親戚だったようで都合よくはめられたようです。

長崎会所の経営も付け込まれる要素があったかもしれません。しかし、それにしても厳しい処分でした。

逮捕されてから3年間は小伝馬町の牢に入っていたようです。

しかし、幸いなことに江戸で火事があり、囚人が解き放されたとき、しっかり戻ってきたので、罪が減ぜられたようです。まじめな人だったんですね。

最終的に小追放ということで武蔵国岡部藩、今の埼玉県深谷市に幽閉されたそうです。幽閉といっても、実際かなり自由に暮らせたようで、いろいろな藩から教えを請いに現れたと聞いております。

時代は彼を放ってはおけません。黒船来航により、途端に海防の必要性が高まって、赦免して取り立ててします。本当にご都合主義ですね。

こうして不幸な40代の10年間が過ぎました。

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高島秋帆、西洋砲術の先駆者の生涯のまとめ

西洋砲術の先駆者、高島秋帆の生涯について述べてきました。この当時の人々は、本当に浮沈が大きく胸が痛くなることが多いです。

彼の場合も60余年の生涯のうち、10年間は不幸の時代を過ごしたわけですが、名誉回復となってとりあえずは良かったかと思います。

しかし、長崎時代からするとある程度の地位は回復したものの、全面回復には程遠い状況だったのではないでしょうか。

これを身分制のせいだと考えれば、渋沢栄一の持っている身分制への不満とつながるところがありますね。

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