松平容保、京都守護職の就任由来と京都での活動が維新での悲劇に

歴史人物

松平容保は幕末の会津藩主であり、京都守護職として活躍した方です。配下には有名な新選組や見回り組などがあり、幕末映画・ドラマの題材になることも多いのです。

京都守護職になったため、後の戊辰戦争で大変苦労することになります。そんなことを解説していきます。

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松平容保活動年譜

天保6年(1835年)12月29日、江戸高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれる。

弘化3年(1846年)会津藩第8代藩主・容敬の養子となる。

嘉永4年(1851年)会津藩主就任。

嘉永5年(1852年)会津藩主・肥後守となる。

嘉永6年(1853年)会津藩、品川第二砲台管守を命じられる。

安政元年(1854年)駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる。

安政2年(1855年)大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる。

安政6年(1859年)蝦夷地の守備を命じられる。

文久2年(1862年)京都守護職就任。幕政参与。

文久3年(1863年)八月十八日の政変。一橋慶喜、松平春嶽らとともに朝議参与。

元治元年(1864年)2月11日、陸軍総裁(のちに軍事総裁と改め)。京都守護職に復職。禁門の変(蛤御門の戦い)。

慶応2年(1866年)将軍家茂病死。孝明天皇崩御。

慶応3年(1867年)参議に就任。大政奉還。

慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦い。藩主を辞任。降伏嘆願書を提出も拒否される。奥州列藩同盟。会津戦争。

明治2年(1869年)容保は和歌山藩へ預け替えとなる。

明治3年(1870年)容大が斗南藩知事に任じられ、五戸(現青森県)へ向かう。

明治4年(1871年)容保も斗南藩に預け替え、その後東京へ移住。

明治5年(1872年)蟄居を許される。

明治13年(1880年)日光東照宮の宮司。上野東照宮祠官、保晃会会長に就任。土津神社祠官を兼務。

明治26年(1893年)12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。享年59。

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松平容保の京都守護職の就任由来を決めた会津家訓十五箇条

松平容保の生まれは美濃高須藩であるが僅か11歳で会津藩主容敬の養子となり、後に藩主となります。この場合、養子の身として、なるべく藩の方針に従おうとする例が多いようです。

どうしても行先ですから、そちらの家風に合わせるのが良いのでしょう。

行った先は会津藩ですから、保科正之すなわち三代将軍家光の異母弟が藩祖です。保科正之は、寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めます。

第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記してあります。

どうやら、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守っていたようです。幕末の藩主・松平容保もこの200年前の遺訓を守ろうとするところから悲劇が始まろうとするのです。

見るからに真面目そうな好青年ですからその気持ちもわかります。

文久2年(1862年)ここに一大事件が起こります。

松平容保に京都守護職の就任要請が起こります。容保はそもそも病気がちで本人もとても務まらないと思っていたようです。

「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命(将軍家茂の命令)と藩祖(保科正之)の遺訓(前述の会津藩家訓)を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は(徳川)宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」

と言って断り続けたようですが、松平春嶽とか幕臣はさんざん会津藩家訓を持ち出して説得工作を続けます。

家臣だってたまりません。会津から京都に大勢の家臣を動員して職に就けば、たちまち、藩の財政は困難に陥ります。

しかも京都の情勢はとても困難でうまくいくことなど望めません、火中の栗を拾うようなものです。薪を背負って火を救うようなものと諭しています。

しかし、容保は再度考え直してしまうのです。自分の身を案じて断ることは遺訓に背くことになる。どうしても良い藩主にならなければならないと考えたのでしょう。最後は受けてしまいます。

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松平容保、京都守護職の就任由来と京都での活動

着任以来、誠心誠意尽くしたおかげで孝明天皇からは非常に高く評価されていたようです。

始めて孝明天皇に拝謁した時も、天拝と緋の御衣を賜ったりしています。

容保の方も公卿の待遇改善に取り組んでいます。というのは、天皇家の御料はずっと定額であったのを、見直しを幕府に建言しています。それによって天皇家の生活も相当改善されました。

治安維持については、「言路洞開」の方針を打ち出しています。

「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令し、幕府へも建議した。

つまり、言論の自由を保障することです。

そんなことから孝明天皇にとても信頼されていて、ある時、「容保つねに和歌を好む由が天皇の耳に入り、特別に御製を数首送る」と、一封の書が届けられました。

開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「極く密々に書状を遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦の到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方の忠勤、深く悦服、深く頼みにしています…」といった調子で書かれた長文の手紙で、

「密々の面会も難しいので手紙にて…」といって別紙に細々と容保に依頼するところを述べ、「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている。

こんな具合ですから、ますます孝明天皇に尽くします。たびたび偽勅が出回って混乱した政局でしたが、容保と孝明天皇の間にはある信頼関係ができていました。

それも、慶応2年(1866年)将軍家茂と孝明天皇が相次いで亡くなると、もはや、よりどころのない場所になってしまいます。

容保もこの時期に退任しようと考えていたようですが、それが最後のチャンスだったようです。客観的もそう思われます。

なにしろ、権謀術策を操る公卿たちと、豹変する将軍慶喜に仕えていては、とてもまともに相手などできないはずです。ずるずると引きずり回されて戊辰戦争に突入してしまいます。

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松平容保、京都守護職の就任由来と京都での活動が維新での悲劇にのまとめ

松平容保の京都守護職の就任由来と京都での活動の一端を紹介してきました。松平容保は幼少より評判も良く性格も素直だったと思われます。

また、京都守護職に就いた時もその美貌で京都人の評判にもなったようです。性格も良いので朝廷にも受けたことでしょう。そんなことから孝明天皇にも深く信頼されていたのです。

しかしながら、権謀術策が渦巻く朝廷の中と、海千山千の大名たちの間に入って大変苦労したのではないかなと思います。

そして、仕事をすればするほど利用され、損な役割になってしまったようです。

そういう意味で、組織を考えるときの良い教訓がいっぱい詰まっていると思います。

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