開拓使官有物払下げ事件で黒田清隆を風刺画でタコと描いたわけ。

歴史人物

黒田清隆と言えば大久保利通亡き後の薩摩閥での重鎮となります。彼の事業として記憶されているのは「北海道開拓使官有物払下げ事件」です。

この官有物払い下げ事件では黒田清隆は風刺画でタコとクマが相撲を取っているように書かれています。果たしてタコとクマは誰でしょう。

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黒田清隆が開拓使官有物払い下げ事件の風刺画でタコに描かれた理由

戊辰戦争にまでさかのぼります。黒田清隆は函館戦争に官軍側の参謀として参加します。明治2年5月、旧幕府軍が函館に追いつめられるのを見て、旧幕府軍の助命を図ろうとします。

そして、五稜郭に追い込み、榎本武揚に降伏を勧めます

戦後には榎本武揚の助命を要求し、助命のために剃髪したこともあります。そんなことが功を奏したのか明治5年にようやく榎本武揚は謹慎処分で決着がつきます。

そんなことから黒田清隆はタコに似せられるのです。

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北海道開拓使官有物払い下げ事件とは

前提として、明治政府のの北海道政策を説明する必要があります。しばらくお付き合いください。

明治政府は北海道開拓使の開設による開発に着手

明治政府は北海道の基盤整備、殖産興業ロシアの進出への対抗として、北海道の開発に乗り出します。そのため多くの外国人を顧問に抱えるとともに、基盤整備と産業振興に多大な投資をすることになります。

黒田清隆はこの方面の事実上のトップとして君臨してきました。しかしながら、事業の伸展は思うようにはかどらず、基盤整備事業を縮小し、産業の方に重点を移していくことになります。

確かに北海道は広いしその頃は何もないわけですから、そうそう簡単に開発整備ができるものでないでしょうね。

期限付きだった北海道開拓使の廃止にあたっての方針

この北海道開拓使は期限付きの事業であったため、明治14年に廃止の方針が決まりました。その後は民間が行うことになっていました。

しかし事業は赤字でなかなか成立しないので、民間と言っても参加が期待できません。黒田は開拓使の官吏を退職させて企業を起こし、事業を継続させようとします。そのため、官有物を安価で払い下げることとしたのです。

この官有物払い下げで問題となったこと

第一にその払い下げ価格の問題です。およそ1400万円の費用を投じたものを1/30以下の39万円でしかも無利息30年で払い下げることとしたのです。

第二に名目上の引受先が薩摩出身の五代友厚が経営する関西貿易商会となっていたことです。このため薩摩藩閥の中の癒着ではないかととらえられることになります。

この仕掛けは実際には開拓使の職員が作った北海社が事業経営にあたることになるのですが、当然資金がないので、関西貿易商会が引き受けることになったものなのでした。

この情報が明治14年7月に新聞にすっぱ抜かれ大問題となってしまいます。このおかげで五代友厚もすっかり政商として悪名をとどろかすことになるのです。

黒田清隆のタコに対して大隈重信のクマはどうして

このスキャンダルが表に出ると、いったい誰がこの内容を漏らしたのかが問題となります。この時に大蔵卿をしていた大隈重信に疑惑の目が向けられます。

いつの時代も同じことで、内部告発をするとこれは誰がやったのかと犯人捜しするようなものです。

確かに、大隈重信はこの払い下げには批判的だったようです。さらに、その前に三菱の岩崎弥太郎が北海道開拓使の船舶の払い下げを求めて、却下されるということもありました。

このため、岩崎弥太郎と近い関係にある大隈重信に疑惑の目が向けられたのです。また、大蔵省の官吏もこの問題を重視し、反対の姿勢を取っていたのも一層この疑惑を強くすることとなったのです。

これで大体の構図はお分かりかと思います。黒田のタコに対して、大隈のクマが土俵上で相撲を取っている構図です。

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官有物払い下げ事件は「明治十四年の政変」に

しかし、この問題はこれだけでは済まずに、もっと大きな政治問題に発展します。これには、この時期に政府に議会開設の要求が多方面で起こっていたことと、そのため、各方面で憲法の私案を作ることが起こっていました。

その時、政府を仕切っていたのは伊藤博文です。

そのような中で、政府の参議はそれぞれ意見を提出することになります。伊藤博文は斬新的な憲政体制の移行を考えていました。

ところが大隈重信は意見を提出せず、自分たちをないがしろにして、左大臣の有栖川熾仁親王に密奏とういう形をとって、イギリス流の急進的な立憲体制を提示したのです。

これによって伊藤博文は大隈重信に対して強烈な不信感をいだくことになるのです。

このような中に、開拓使官有物払い下げ事件のスクープが起こるわけです。伊藤博文は政府内の薩長側にに不満をいだく大隈重信の妨害工作であるとの考え方に立つようになります。

このため、明治天皇の行幸に大隈重信が随行している機会に、伊藤博文は大隈重信追放の工作を開始します。そして、天皇が行幸から帰った10月11日に御前会議を開催し決定します。

これによって次のことが決定されます。

1.北海道開拓使官有物払い下げの停止

2.大隈重信の政府からの追放

3.10年後の国会開設の詔勅

これを明治十四年の政変と言います。

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開拓使官有物払下げ事件で黒田清隆を風刺画でタコと描いたわけのまとめ

このように黒田清隆については、薩摩藩の重鎮として知られていますが、やはり政策面では、大久保利通のようにはいかなかったようです。

その代り、人間味あふれる面と抜群の交渉能力は持っていたようです。

明治十四年の政変で決別したはずの大隈重信も、黒田清隆が第二代の内閣総理大臣になるときに外務大臣として迎えられています。

普通だったらあれだけ対立したのですから入閣などしなかったはずですが、外務大臣として不平等条約改正に努力しています。

しかしながら、酒を飲むと大暴れするするので、酒乱とも言われており、あちこちで迷惑をこうむった人も数限りなかったようです。

晩年は酒の成果体調不良となり、59歳で脳出血のため亡くなっております。

そしてその葬儀委員長を行ったのが、黒田がタコになったおかげで命拾いをした榎本武揚でした。

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