開拓使官有物払下げ事件の風刺画|黒田清隆がタコ、大隈重信が熊の理由

歴史人物

開拓使官有物払下げ事件の風刺画では、黒田清隆がタコ、大隈重信が熊として描かれ、政府内部の激しい対立が相撲に見立てられました。

なぜ黒田清隆がタコなのかをたどると、箱館戦争で榎本武揚の助命を願って剃髪したという黒田の逸話に行き着きます。ただし、風刺画そのものが「剃髪したからタコ」と理由を明記しているわけではないため、ここは史実と後世の解釈を分けて見ることが大切です。

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開拓使官有物払下げ事件の風刺画とは?黒田清隆がタコ、大隈重信が熊

開拓使官有物払下げ事件の風刺画として知られるのが、1881年の『団団珍聞』に掲載された「幕内の相撲」です。

そこではタコと熊が土俵上で組み合っています。タコが開拓使長官の黒田清隆、熊が参議の大隈重信を表したものです。

早稲田大学も、明治十四年の政変を紹介する資料の中で、『団団珍聞』の「幕内の相撲」をこの事件にかかわる風刺画として紹介しています。早稲田大学

つまり、この絵は単に「変わった動物が相撲をしている漫画」ではありません。

開拓使官有物払下げを進めようとする黒田清隆と、それをめぐって対立の中心人物と見なされた大隈重信との政治的な争いを、庶民にも一目で分かる相撲に置き換えた政治風刺だったのです。

しかも、この絵にはもう一つ興味深い点があります。

土俵の外から両者を眺めている犬には「民」の文字が付けられており、政府内部の争いを国民や自由民権派が注視している構図になっています。

私はこの点が、この風刺画を読み解くうえで非常に重要だと考えています。

タコと熊だけを見れば「黒田対大隈」の個人的な争いに見えます。しかし、その外側に「民」がいることで、開拓使官有物払下げ事件は政府内部だけの問題ではなく、藩閥政治そのものを国民が見つめる事件になっていたことが示されているからです。

黒田清隆はなぜタコとして描かれたのか

黒田清隆がタコとして描かれた理由については、さらに時代をさかのぼる必要があります。

話は戊辰戦争、特に箱館戦争にまで戻ります。

黒田清隆は官軍側の参謀として箱館戦争に参加しました。

明治2年(1869年)5月、旧幕府軍が箱館の五稜郭へ追い詰められていく中で、黒田はただ敵を打ち倒すことだけを考えていたわけではありませんでした。

旧幕府軍を率いていた榎本武揚に降伏を勧め、戦後には榎本の助命にも奔走したことで知られています。

榎本の人物と能力を高く評価していた黒田は、命を助けるよう強く働きかけました。

その際、榎本助命を願って剃髪したという逸話も伝えられています。

髪を剃った黒田の頭と、丸みのあるタコの姿が結び付けられ、後の風刺で「タコ」のイメージが使われたと説明されることがあります。

もっとも、この点は少し慎重に扱う必要があります。

「幕内の相撲」の作者が、黒田をタコにした理由として明確に「榎本助命の際に剃髪したから」と説明しているわけではありません。

したがって、黒田=タコは、剃髪した黒田の姿や「入道」を連想させるイメージと結び付けて理解されてきたものと捉えるのがよいでしょう。

ここを断定せずに見ておくと、風刺画をより歴史資料らしく読むことができます。

榎本武揚の助命は黒田清隆の人柄を知る重要な逸話

黒田清隆の榎本武揚に対する姿勢は、彼の人物像を考えるうえでも興味深いものです。

戦場では敵味方として戦っていながら、相手に能力があると認めれば、その命を救おうとする。

黒田には、後に酒乱などと評される激しい一面があった一方で、こうした人間関係における大胆さもありました。

榎本武揚はその後、明治5年(1872年)に赦免され、明治政府に仕えることになります。

かつて幕府軍として戦った人物を新政府が登用していく過程には、明治初期という時代ならではの実力主義的な側面も見えてきます。

そして、この榎本との関係が、黒田の人生の最後にもう一度登場することになります。


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北海道の開拓使官有物払下げ事件とは何だったのか

開拓使官有物払下げ事件とは、北海道開拓のために巨額の国費を投じて整備した官営事業や資産を、開拓使の関係者や薩摩出身の実業家に極めて有利な条件で払い下げようとして大問題になった事件です。

国立公文書館も、明治14年(1881年)7月、開拓使長官黒田清隆が開拓使廃止を前に官有物を払い下げようとしたことが、藩閥政治の弊害として強い批判を受けたと説明しています。国立公文書館

この事件を理解するには、そもそもなぜ北海道に「開拓使」という役所が置かれていたのかを見る必要があります。

明治政府は北海道開拓使を置いて大規模な開発に着手した

明治政府にとって北海道の開拓は、単なる地域振興ではありませんでした。

大きな目的として、

  • 北海道の道路・都市などの基盤整備
  • 農業・工業・鉱業などの殖産興業
  • 入植の推進
  • 屯田兵の配置
  • 北方からのロシア進出に備えること

などがありました。

開拓使は明治2年(1869年)に設置され、北海道開拓を担う行政機関となります。

1870年には黒田清隆が開拓次官となり、その後、北海道開拓政策の実権を握っていきました。

道路や鉄道、都市の整備、炭田開発、農業振興、入植者の管理、屯田兵制度など、北海道を新しい地域として形づくるためには非常に広範な仕事が必要でした。

当然ながら、外国の技術や知識も必要になります。

そのため明治政府は多くの外国人技術者や顧問を招き、北海道開発へ多額の資金を投入しました。

しかし、北海道はあまりにも広大です。

厳しい気候の中で、交通網も産業基盤も十分でないところから出発するのですから、短期間で採算が取れる事業にするのは容易ではありません。

当初考えていたほど事業が進まず、基盤整備を縮小しながら産業育成に重点を移していくことになります。

私はこの点を抜きにして、単純に「黒田が安く仲間へ売ろうとした」とだけ理解するのも十分ではないと思います。

払い下げ案には、開拓使廃止後も北海道の事業を止めずに継続させたいという政策上の事情があった一方、その方法があまりにも身内に有利に見えたことが問題だったのです。

期限付きだった開拓使を廃止した後、事業を誰が引き継ぐのか

開拓使による北海道開拓は、永久に国が直接行うことを前提としていたわけではありません。

開拓使の事業には区切りが設けられており、明治14年(1881年)ごろには廃止を前提とした処理が具体化していきました。

そして明治15年(1882年)2月8日、開拓使は廃止され、札幌県・函館県・根室県の三県が置かれます。アジア歴史資料センター

問題は、開拓使が手掛けてきた産業事業をその後どうするかでした。

国が手を引くなら、本来は民間企業が引き継ぐことになります。

ところが、北海道の事業は必ずしも利益を上げておらず、採算面では厳しいものが少なくありません。

普通の民間企業に「国がやめるので、あとは自分たちのお金で続けてください」と言っても、簡単に引き受けてもらえる状況ではありませんでした。

そこで黒田清隆は、開拓使の官吏を退職させ、彼らに会社をつくらせて事業を引き継がせる構想を進めます。

この会社が北海社です。

しかし、官吏が会社をつくったところで、大規模な北海道事業を運営する十分な資金があるわけではありません。

そこで資金面で関係してくるのが、薩摩出身の実業家五代友厚たちでした。


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なぜ開拓使官有物払下げが大問題になったのか

最大の問題は、国費で整備した巨大な資産を、極端に安く、しかも非常に有利な支払い条件で身近な関係者へ渡すように見えたことです。

元記事でも触れてきた通り、政府は北海道開拓に約1400万円という巨額の費用を投じていました。

ところが、払い下げ価格は約39万円とされ、しかも無利息の30年払いという条件でした。

早稲田大学百年史でも、開拓使が明治2年から13年度までに使用した費用を1400万円余りとし、払い下げ案について38万7000円余り、30年年賦・無利子だったと記しています。クロニクル

単純計算だけを見れば、国が投入した額の30分の1以下です。

もちろん、ここには注意も必要です。

国が北海道開拓全体に費やした費用と、払い下げ対象となった資産の時価をそのまま同一視することはできません。

道路整備など売却できない支出も含まれますし、赤字事業には維持費もかかります。

それでも、国民の側から見れば、

「巨額の税金を使ったものを、なぜ身内のような相手にこれほど有利な条件で譲るのか」

という疑念を持つのは自然なことでした。

五代友厚と関西貿易商会が批判された理由

もう一つ問題を大きくしたのが、五代友厚の存在です。

五代はもともと薩摩藩出身で、明治維新後は官界から実業界へ移り、大阪を中心に鉱山・鉄道・貿易など多くの事業にかかわった人物です。

1878年には大阪商法会議所の設立にもかかわり、関西経済界の発展に大きな足跡を残しました。

一方で、明治政府の有力者との結び付きが強かったことから、「政商」と批判されることもありました。

国立国会図書館も、五代について1881年の開拓使官有物払下げ事件への関与により世論の批判を受けたと説明しています。国立国会図書館

このとき問題となったのが関西貿易商会(関西貿易社などとも表記)です。

北海社には十分な資金がありません。

そこで五代ら関西の実業家側が資金面を支える構図となりました。

ところが、黒田も五代も薩摩出身です。

そのため新聞や世論から見ると、

「薩摩出身の開拓使長官が、薩摩出身の有力実業家へ国の財産を格安で渡そうとしている」

という、非常に分かりやすい藩閥癒着の構図に映りました。

現実の事業計画は北海社と関西貿易商会の役割分担など、もう少し複雑です。

今日では一次史料を使ってこの事件を再検討する研究も進んでおり、「五代だけが裏で利益を得ようとした事件」と単純化することには慎重であるべきでしょう。国立国会図書館でも、関西貿易社や情報漏洩の経緯を再検討した研究が紹介されています。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)+1

それでも当時、政治的に疑われるような払い下げ方を政府自身が選んだことは変わりません。

政策には「内容」だけでなく「公平に見えるか」という視点も必要です。

行政に長くかかわった者としては、この事件には現在にも通じる教訓があるように感じます。

実際に不正だったのかだけではなく、国民に説明できる透明な手続きになっていたかが、行政への信頼を左右するからです。

1881年7月、情報が新聞に出て世論が沸騰

払い下げ問題は、政府内部だけで処理されるはずでした。

ところが、明治14年(1881年)7月に情報が新聞で報じられ、大きな政治問題になります。

開拓使官有物払下げは同年7月21日に閣議決定されています。アジア歴史資料センター

報道によって、五代友厚は激しい批判を受け、政商の象徴のように語られるようになりました。

そしてここから、「誰がこの情報を新聞へ漏らしたのか」という別の問題が生まれます。


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大隈重信はなぜ熊なのか?情報漏洩を疑われた背景

風刺画で熊として描かれた大隈重信は、払い下げに批判的な側の中心人物と見られ、政府内部では情報漏洩にも関係しているのではないかと疑われました。

「大隈」の「隈」と熊を掛けた表現としても分かりやすく、タコの黒田と熊の大隈が土俵で争う構図になっています。

当時、大隈重信は政府の中心にいた参議で、財政政策にも大きな影響力を持つ人物でした。

払い下げ問題が新聞に出ると、政府内部では「誰が漏らしたのか」という犯人探しが始まります。

大隈には疑いをかけられる事情がいくつもありました。

その一つが、大隈が払い下げに批判的な立場へ傾いていたことです。

さらに、その前には三菱の岩崎弥太郎が開拓使所有の船舶払い下げを求めたものの、認められなかったという経緯もありました。

岩崎と大隈の関係が近いと見られていたことから、薩摩系の五代側に有利な払い下げに対して、大隈側が反発して情報を流したのではないかという疑惑が強まったのです。

また、大蔵省の官吏にも払い下げ問題を批判する動きがありました。

こうした複数の事情が重なり、

「情報を漏らした黒幕は大隈ではないか」

という見方が政府内部で広がっていきます。

ただし、ここでも事実と推測は分けなければなりません。

国立国会図書館の解説でも、大隈に近い人物が払い下げ中止運動などに参加していたため、大隈や福澤諭吉が黒幕として「疑われた」と説明されています。国立国会図書館

つまり、大隈自身が情報を新聞に漏らしたと確定したわけではありません。

近年には「実際に誰が情報をリークしたのか」を再検討する研究論文も存在するほどで、現在も単純に「大隈が漏らした事件」と説明するのは適切ではありません。国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)

この視点を加えると、タコと熊の風刺画も少し違って見えます。

風刺画は歴史上の「判決文」ではありません。

その時代の人々が、事件をどのような対立構図として受け止めていたのかを伝えるメディアなのです。


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開拓使官有物払下げ事件はなぜ明治十四年の政変につながったのか

開拓使官有物払下げ事件が巨大な政治事件になった理由は、払い下げ問題の背後ですでに「国会をいつ開くのか」「どのような憲法をつくるのか」をめぐる政府内部の対立が限界に近づいていたからです。

この頃、政府の外では自由民権運動が拡大していました。

国会開設を求める声が各地で強まり、民間では憲法私案も盛んにつくられていきます。

1880年には国会期成同盟が結成され、国会開設要求は全国規模の政治運動となっていました。

政府内でも、立憲政治へ移行する必要があること自体は次第に避けられない問題となります。

しかし、「いつ」「どのような制度で」移行するのかについて大きな違いがありました。

伊藤博文と大隈重信は憲法・国会開設をめぐって対立した

政府内で大きな力を持っていたのが伊藤博文です。

伊藤は急激に議会中心の政治へ移ることには慎重で、段階的、つまり漸進的に立憲体制を整えることを考えていました。

これに対して大隈重信は、より早い憲法制定と国会開設を主張します。

大隈が明治14年(1881年)に提出した意見書は、イギリス流の議会政治を念頭に置き、明治16年(1883年)初頭の憲法制定を唱える急進的な内容でした。国立国会図書館

元記事では、大隈が他の政府首脳へ十分に相談せず、左大臣有栖川熾仁親王へ意見を届ける形を取ったことにも触れてきました。

この動きは伊藤博文の強い不信を招きます。

伊藤から見れば、政府内部で制度設計を相談する前に、大隈が自分の案を天皇側へ直接通そうとしたように映ったからです。

したがって、開拓使官有物払下げ事件が起きた時点で、伊藤と大隈の関係はすでに極めて緊張していました。

そこへ「払い下げ情報を漏らしたのは大隈側ではないか」という疑いが加わります。

火薬が積み上げられたところへ、開拓使問題という火花が落ちたようなものです。

明治天皇の巡幸中に大隈追放へ向けた動きが進む

この時期、大隈重信は明治天皇の巡幸に随行して東京を離れていました。

その間に政府内部では、大隈を政権から排除する方向で調整が進みます。

大隈がまだ旅中であった時期、彼に近い人物たちの間でも藩閥政治への強い不満が高まっていました。早稲田大学の資料には、小野梓が1881年9月、払い下げ事件を背景として政府への厳しい批判を日記や論考に記していたことが紹介されています。早稲田大学

そして明治14年(1881年)10月11日、政府は大きな政治決断を行います。

その中心となったのは、次の三つでした。

  • 開拓使官有物払下げを中止する
  • 大隈重信を政府から退ける
  • 明治23年(1890年)を期して国会を開設する

これが明治十四年の政変です。

翌10月12日には、明治23年を期して国会を開設することを示した国会開設の勅諭が発せられました。国立公文書館

国立公文書館も、払い下げ許可の取り消し、大隈の免官、1890年の国会開設表明を一連の出来事として説明しています。国立公文書館

こうして、もともとは北海道の官営事業をどう処分するかという行政問題だったはずの出来事が、日本の立憲政治の方向を決める政変へまで発展したのです。


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風刺画を見ると明治十四年の政変の本質が分かりやすい

私は、開拓使官有物払下げ事件を理解するうえで、「幕内の相撲」という風刺画はとても優れた入口だと感じます。

教科書では、

「官有物を安価で払い下げようとして批判を受け、大隈重信が追放され、国会開設が約束された」

と数行で整理されがちです。

しかし、それだけではなぜ一つの払い下げ問題が政変にまで発展したのか、少し分かりにくいものです。

風刺画に描かれたタコと熊を見ると、そこには三つの対立が重なっていたことに気づきます。

  • 黒田清隆と大隈重信という政府内部の対立
  • 薩長藩閥と、それを批判する勢力との対立
  • 政府と、国会開設を求める「民」との対立

特に三つ目が重要です。

先ほど触れたように、風刺画には土俵の外から争いを見る「民」の存在があります。

政治家同士だけで物事を決める時代から、新聞や自由民権運動を通じて国民の世論が政治を動かす時代へ変わり始めていた。

開拓使官有物払下げ事件は、その転換点を象徴する事件だったと私は考えています。

もし国民や新聞の批判がなければ、払い下げ案はそのまま実行されていた可能性もあります。

ところが世論が沸騰した結果、政府は払い下げを撤回せざるを得なくなりました。

さらに政府は大隈を追放する一方で、国会開設の時期を明示して政治的な収拾を図りました。

つまり政府は世論を押さえ込んだだけではありません。

世論に押される形で「国会を開く」という約束まで示すことになったのです。

ここに明治十四年の政変の面白さがあります。


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黒田清隆と大隈重信はその後どうなったのか

開拓使官有物払下げ事件と明治十四年の政変だけを見ると、黒田清隆と大隈重信は決定的な政敵になったように思えます。

ところが、その後の二人の関係はそれほど単純ではありません。

大隈重信は政府を去った後、立憲改進党の結成へ進みます。

1882年4月16日に立憲改進党が結成され、大隈はその中心人物となりました。早稲田大学

さらに大隈は教育事業にも力を注ぎ、東京専門学校の創設へと進んでいきます。

この東京専門学校が、後の早稲田大学です。

つまり、明治十四年の政変で政府を追われたことは、大隈にとって政治家としての終わりではなく、政党政治家、そして教育者として新しい道へ進む大きな転機となりました。

一方、黒田清隆はその後も政府の重鎮として活動し、第二代内閣総理大臣となります。

そして興味深いことに、その黒田内閣で大隈重信は外務大臣として入閣しました。

明治十四年の政変では激しく対立した二人が、後には同じ内閣で仕事をするのです。

大隈は外務大臣として不平等条約改正に取り組みました。

現代の感覚で考えると、あれほど激しく争った相手の内閣へ入ることには驚かされます。

しかし明治政府では、政治的な対立と人物の能力評価が必ずしも完全に一致していませんでした。

私はここに黒田清隆の人物を見るうえで面白い点があると思います。

榎本武揚に対してもそうでしたが、一度敵になった人物だからといって、永久に排除するのではなく、その能力を認めれば再び起用する柔軟さが黒田にはあったように見えるのです。

政策運営では批判を受けた黒田ですが、人と人との交渉や関係構築には独特の力を持っていたのでしょう。


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黒田清隆の人物像と榎本武揚との最後の縁

黒田清隆は薩摩出身の政府重鎮として大きな権力を持った一方、私生活では酒にまつわる激しい逸話が数多く伝えられています。

酒を飲むと荒れることから「酒乱」と評されたこともあり、周囲が迷惑を受けたという話も残っています。

もっとも、人物評に関する逸話には誇張が混ざることもありますから、一つ一つをそのまま事実として受け取るのではなく、黒田には豪放で激しい人物という評判があった程度に理解するのがよいでしょう。

晩年は体調を崩し、1900年、59歳で脳出血のため亡くなりました。

そして黒田の人生を振り返ると、最後に何とも印象的な人物が登場します。

黒田清隆の葬儀委員長を務めたのが、かつて箱館戦争で敵として戦い、黒田が助命に奔走した榎本武揚でした。

若き日の黒田は、敗軍の将となった榎本の命を救おうとしました。

その行動の際に剃髪したという逸話が、後年「黒田=タコ」という風刺のイメージに結び付けられて語られることになります。

そして数十年後、その榎本が黒田を見送る側に立った。

歴史を学んでいると、このように若い日の出来事が人生の最後に静かにつながる場面があります。

単に「タコの風刺画」という面白さから入ったとしても、その背景をたどれば、戊辰戦争、北海道開拓、薩摩閥、自由民権運動、明治十四年の政変、国会開設へと、日本近代史の大きな流れが一本につながってくるのです。


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開拓使官有物払下げ事件と風刺画のまとめ

開拓使官有物払下げ事件の風刺画「幕内の相撲」では、黒田清隆がタコ、大隈重信が熊として描かれています。

黒田がタコに描かれた背景については、箱館戦争後に榎本武揚の助命を願って剃髪した逸話と結び付けて説明されることが多いものの、風刺画自身がその理由を明記しているわけではないため、断定は避けるのが適切です。

一方、大隈重信は払い下げ問題をめぐる政府内部の対立の中心人物と見なされ、情報漏洩にも関与したのではないかと疑われました。

事件の背景には、約1400万円もの費用をかけて進めてきた北海道開拓事業を、約39万円、無利息30年払いという条件で関係者へ払い下げようとした問題がありました。

さらに五代友厚ら薩摩出身者が関係したため、藩閥政治による癒着ではないかという批判が強まりました。

しかし、この事件が歴史上とりわけ重要なのは、単なる「格安払い下げ疑惑」で終わらなかったことです。

伊藤博文と大隈重信の立憲政治をめぐる対立、自由民権運動による国会開設要求、新聞による世論形成が重なり、最終的に払い下げ中止・大隈追放・1890年の国会開設表明という明治十四年の政変へ発展しました。

タコと熊が相撲を取る風刺画は、一見するとユーモラスです。

けれどもその土俵の向こうには、藩閥政府の内部抗争から、国民が政治を監視する時代へ移り始めた明治日本の大きな転換が描かれていたと考えると、この一枚の意味がぐっと深く見えてきます。


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よくある質問

開拓使官有物払下げ事件の風刺画でタコは誰ですか?

黒田清隆です。

開拓使長官として官有物払い下げを推進した黒田が、タコの姿で表現されています。黒田がタコとして描かれた背景には、箱館戦争後、榎本武揚の助命を願って剃髪したという逸話との関連が語られています。

風刺画で熊として描かれている人物は誰ですか?

大隈重信です。

大隈は開拓使官有物払下げをめぐって黒田側と対立する人物と見られ、事件情報を新聞へ漏らしたのではないかとも疑われました。ただし、大隈本人が情報を漏らしたと確定しているわけではありません。

開拓使官有物払下げ事件はなぜ明治十四年の政変につながったのですか?

払い下げ問題が起きた時点で、政府内では伊藤博文と大隈重信が国会開設や憲法制定の進め方をめぐって対立していたからです。

払い下げをめぐる世論の批判と情報漏洩疑惑がその対立を一気に表面化させ、1881年10月に払い下げ中止、大隈の免官、1890年の国会開設表明へとつながりました。

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