渋沢栄一が長男渋沢篤二を勘当、廃嫡した理由は

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渋沢栄一の息子であり事実上の長男であった渋沢篤二は1913年に勘当され廃嫡となります。これは渋沢栄一にとってはその生涯の数少ない汚点になるわけですが、どのような経緯があったのか、また、渋沢篤二の人生のその後を説明します。

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渋沢栄一の息子渋沢篤二の生まれと育ち

渋沢篤二は1872年渋沢栄一、千代の次男として生まれます。長男は夭逝していたため、事実上の長男として育てられます。千代が1841年生まれですので30過ぎの子になります。

当時としては遅い子だったようです。10歳の時、母の千代を亡くすことになります。しかしその頃には、家には妾の大内くにも同居していたようですし、姉の歌子、琴子もいましたので寂しくはなかったような気がします。

やがて、長女の歌子の家庭に引き取られて生活していたようです。夫の穂積陳重も当時東京帝国大学の教授でしたので落ち着いた家庭の中で暮らしていたことでしょう。歌子の教育方針が厳しかったとの話もあるようです。

栄一も篤二のために、勉強と成果を発表する場として龍門社という会社を作って、篤二に任せたりしていましたので、さほど寂しい環境ではなかった様ですし、父親栄一の親ばかぶりも伺えます。

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渋沢篤二は熊本の第五高等学校に進学

中学校までは学習院にいましたが、熊本の第五高等学校に進学します。厳しい歌子の家から抜け出したかったのかもしれません。ここで自由を謳歌したしたのか、生来の癖が出てきたのか知りませんが、問題を起こしてしまいます。

すなわちここから放蕩が始まります。看視の眼もないし、お金は十分あるので、芸者のもとに入りびたりという状態だったのでしょう。

そのうち事がばれて、病気ということで学校を退学させられ、栄一の故郷の血洗島で謹慎ということになります。1892年、篤二20歳のことでした。

1年後にはこのまま何もしないわけにはいかないので、東京に戻ってきます。栄一の差し金でしょう、英語、漢語、法律、経済などの教師を派遣して勉強をさせていたようです。

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渋沢篤二は公家の橋本伯爵の娘敦子と結婚

何とか身を固めさせようとしたのでしょう。1895年橋本伯爵の娘敦子と結婚することになります。翌年には長男の敬三が誕生します。

1897年には渋沢栄一が渋沢倉庫部を作って、篤二に任せることになります。何とか本業に力を入れて二代目として活躍してほしいという願望から仕事まで用意しています。

まさに、親としては涙ぐましい努力ですね。

1898年には二男の信雄が誕生しています。1899年には義兄穂積陳重に随行して欧米諸国を歴訪しています。その後第一銀行検査役に就任

1901年には三男智雄が誕生しています。

1909年には渋沢倉庫部が渋沢倉庫株式会社になり取締役会長に就任しています。

とにかく涙ぐましい努力ですね。父親の栄一が支えて篤二を育てようというのが見え見えの頑張りです。でも、この間も篤二の芸者あそびはそれが表面化しなかっただけで、止まらなかったのではないでしょうか。

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渋沢篤二と芸者玉蝶のスキャンダルが表面化

そして、それが表面化するのは時間の問題でした。渋沢篤二は最初は父親の栄一と一緒に住んでいましたが、独立して別宅に住むようになると芸者あそびに熱が入るようになります。

そして、新橋の芸者玉蝶に入れあげて、最後は、正妻を追い出して玉蝶を家に入れるところまで行きます。そんなことが新聞の格好のスキャンダルになってしまいます。1911年のことでした。

この背景には様々な思惑があります。何しろ、父親の栄一だって若い時から女性関係が相当派手でしたし、妾になった大内くにも千代と一緒に住まわせるなどしています。

しかも一度ならず、その後も何人かの子供ができているのです。こんな父親が栄一ですから、息子の篤二にしてもその気質は受け継いでいるのではないでしょうか。

さらに、栄一の子供の間でも、先妻千代の子、後妻兼子の子、妾の子とは何かと考え方の齟齬があったようです。

何れにしろ表ざたになっては仕方がありません。篤二は廃嫡ということになります。廃嫡というと何か時代がかった感じがするようですが、明治時代の民法ではそのような規定がありました。次のようなものです。

民法第975条

法定ノ推定家督相続人ニ付キ左ノ事由アルトキハ被相続人ハ其推定家督相続人ノ廃除ヲ裁判所ニ請求スルコトヲ得

1.被相続人ニ対シテ虐待ヲ為シ又ハ之ニ重大ナル侮辱ヲ加ヘタルコト

2.疾病其他身体又ハ精神ノ状況ニ因リ家政ヲ執ルニ堪ヘサルヘキコト

3.家名ニ汚辱ヲ及ホスヘキ罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルコト

4.浪費者トシテ準禁治産ノ宣告ヲ受ケ改悛ノ望ナキコト

2.此他正当ノ事由アルトキハ被相続人ハ親族会ノ同意ヲ得テ其廃除ヲ請求スルコトヲ得

翌年の1912年には篤二は廃嫡ということになり。その長男の敬三がまだ20そこそこですが、渋沢栄一の頼みにより跡取りとなりました。

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渋沢篤二の勘当、廃嫡後の人生は

篤二は廃嫡されたのちは、自分の趣味に磨きをかけて、ますますのめりこんでいきます。義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育、すべての趣味が玄人の領域であったと言われていますので溢れるばかりの才能があったのでしょう。

しかし、一部分の領域が外れていたため、本人は決して不幸とは思っていなかったでしょうが、世間からは隔絶されることになります。

しかし、廃嫡されたとはいえ、白金に住まいを持たされ、渋沢倉庫の取締役として遊んで暮らすだけの収入は確保されていたわけですから、幸せな人生と言えるのではないでしょうか。

驚くことに、この原因となった新橋の芸者の玉蝶とは篤二が1932年61歳で亡くなるまで一緒に暮らしていたそうですから、世間で言われるような芸者に騙されたというよりは良い関係だったのでしょう。

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渋沢栄一が長男渋沢篤二を勘当、廃嫡した理由のまとめ

渋沢栄一の息子であり長男の篤二の勘当、廃嫡理由とその後の人生について解説していきました。

渋沢栄一または渋沢一族から考えると生涯の汚点と言えるような事件ですが、本人にしてみれば、自分の意の赴くままに暮らした人生ですから、何の悔いもないような気がします。

しかも、一生暮らせるだけの資力を確保されているわけですから、少し早く引退したと思えばよいのでしょう。

芸者の玉蝶もその後20年近く一緒に暮らすのですから、まさに、良いパートナーが見つかったとも考えられます。父親の栄一のように世間面は良くてもあちこちに愛人と子供を作るよりも、より純粋な人生ともいえるでしょう。

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