聖徳太子の誕生。どんな出自で、どのような経緯を経て太子となったか

歴史人物

聖徳太子はいつの頃どのようにして、世に出て来たのでしょうか。そして、どのようにして政治に参加するようになったのでしょうか。

官位十二階とか遣隋使とか十七条憲法というのは知られていますが、そこに至るまでの経緯を説明していきます。

 

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聖徳太子(厩戸皇子)の誕生

聖徳太子は諸説ありますが、敏達天皇3年(574年)橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の間に生まれた人です。この橘豊日皇子と穴穂部間人皇女は後の欽明天皇の異母兄弟になります。

更に穴橘豊日皇子と穂部間人の母はどちらも蘇我稲目の娘になります。お父さんの橘豊日命は欽明天皇の第四皇子であり、その時の第30代敏達天皇の弟でもあります。後に、第31代用明天皇となります。

とても複雑ですが家系としては立派な家系でもあります。しかも、両親のおじいさんは蘇我稲目の娘ですから蘇我氏との関係が非常に強いこととなります。

聖徳太子というのは後日の尊称ですから、厩戸皇子と言われています。母親の間人皇女に救世観音菩薩が口から入り、身ごもったことになっております。そして厩の前で生まれたことになっています。

これなどは昔の物語でよく聞かされた内容ですが、なんとなくイエス・キリストとダブっているように考えられますね。イエス・キリストの内容が中国を渡って伝わったのかもしれません。

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聖徳太子(厩戸皇子)幼少時の逸話

有名な話として、厩戸皇子を前にして、10人が一斉にそれぞれの願いを伝えたが、それを漏らさず一度で理解したともいわれています。これは、他では出てこない能力ですよね。

そのくらい賢かったということでしょう。これのおかげで、豊聡耳とも呼ばれています。

その他にも、中国の天台宗開祖の天台智顗(ちぎ)の師の慧思(えし)の生まれ変わりともいわれています。

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聖徳太子(厩戸皇子)が政治の世界に踏み出すまで

585年父用明天皇が即位すると、聖徳太子(厩戸皇子)も歴史の中に登場するようになります。

この頃の事件としては、仏教を受け入れるかどうかということで、受け入れ派の蘇我馬子と排斥派の物部守屋の対立となります。

用明天皇はたった2年で崩御してしまいます。いつものことですが、皇位をめぐって争いになります。

蘇我馬子は豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后であり後の推古天皇)の詔を得て、物部守屋が推す穴穂部皇子(用明天皇の弟になります)を誅殺するとともに、物部守屋討伐の軍を起こします。

大変な争いになってしまいますよね。

どうして豊御食炊屋姫が弟の穴穂部皇子の誅殺に加担したかというと、夫の敏達天皇が亡くなって、殯宮にとどまっていたとき、豊御食炊屋姫を穴穂部皇子が犯そうとしました。

部下の三輪逆が阻止したが、三輪逆は穴穂部皇子に加担した物部守屋に殺されてしまいます。とにかく今と違ってずいぶん野蛮な時代ですね。

蘇我馬子の討伐軍は物部氏になかなか勝つことができません。何しろ物部氏は古来からの武辺の一族ですから。

厩戸皇子は四天王の像を作り戦勝を祈願すると、物部軍を退けることができたとされています。

また、戦いに際して「陪臚(ばいろ)」という曲を演奏させ、7回演奏した時に「舎毛音(しゃもうおん)」という音が聞こえれば戦いに勝つという言い伝えがあり、これを奏したところ、舎毛音が聞こえたともいわれています。

この舎毛音というのはどういう音かわかりませんが、そんな言い伝えも残っています。ちなみに「陪臚」はサンスクリットのバイローチャ(大日如来)の音訳です。

このように見ていくと、厩戸皇子も、仏教の影響は強いのですが、我々が想像するよりもはるかに、人間臭く、とても今我々が想像している聖人君子のイメージとは違うことがわかります。

その頃では常識だったのでしょうが、平気で、権力闘争に加わっていきます。

こうして物部氏を滅ぼし、用明天皇の別の弟が崇峻天皇として即位いたします。

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推古天皇の即位により厩戸皇子は皇太子となる

しかし、崇峻天皇は、蘇我馬子が完全に政治を掌握していることに不満であり、たびたび衝突してしまいます。そして、蘇我馬子に殺されてしまいます。即位からたったの5年です。

この頃は、皇位継承を巡って血みどろの争いが、はばかることなく起こっていて驚きますよね。そして、気に入らなければ天皇といえども簡単に殺されてしまう時代だったのですね。

593年、前に出てきた豊御食炊屋姫が推古天皇として皇位につくことになります。これが神功皇后と飯豊皇女を除けば、皇室史上初の女帝で、時に39歳です。

これと同時に厩戸皇子は皇太子になります。厩戸皇子は推古天皇にとっては甥といっても、父の用明天皇は推古天皇の同母兄になり、母の穴穂部間人皇女異母妹というとても濃い関係となっております。

推古天皇は女帝といってもなかなか聡明な人で、実力者蘇我馬子と聖徳太子のバランスをとった政治を良く保っていたようです。

通常こういう場合、馬子が勢力拡大を図り、天皇に代わってしまうのですがそこはうまくやっていたようです。

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聖徳太子の誕生。どんな出自で、どのような経緯を経て太子となったかのまとめ

聖徳太子の前半生およそ20歳ぐらいまでの皇太子になる経緯を説明してきました。だいぶん聖徳太子のイメージが変わったと思います。

また、古代はそのぐらい人間の感情むき出しの権力闘争があったのでしょう。まだ、日本に仏教もほとんど伝わる前ですから、倫理観も形成されていなかった時代のことですから。

この後の聖徳太子の活躍についてはこちらをご覧ください。

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