織田信長が弟信勝を暗殺した理由は?戦国の覇者の尾張統一

歴史人物

織田信長は戦国の覇者として有名ですが、桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変ぐらいしか知られていません。尾張の国を統一する段階で弟信勝を暗殺してもいます。

どんないきさつがあったのかを説明していきます。

 

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織田信長と信勝の誕生

織田信長は天文3年(1534年)5月尾張の国の織田信秀の嫡男として生まれます。勝幡城で生まれたとされています。二年後には同じように弟信勝も生まれています。

織田信長の家系は弾正忠家といって、守護代の清州織田家の家臣にして分家の家柄だったのです。

尾張の国には守護は斯波氏ですが、もはや勢力はありません。そこで、守護代が2家おります。一つは岩倉織田家、もう一つが清州織田家です。

父信秀は急速に勢力を拡大していますが、清州織田家の守護代織田逹勝の分家であり、家臣でもあるわけです。

天文17年(1548年)又は天文18年(1549年)織田信秀と美濃の斎藤道三の和睦が成立したので、息子の信長と道三の娘濃姫の結婚が交わされた。

天文21年(1552年)父信秀が死去したため、無事に家督を継ぐこととなります。

ここまでは順調だと思いませんか。でも、父親はまだ尾張国の大名ではありません。あくまでも守護代の家臣でしかないのです。それでも有力者といえば有力者ですが。

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織田信長の清州織田家との戦い

ここから少しおかしくなります。父親が亡くなったことで、早く織田弾正忠家をつぶしていこうと思ったのでしょう。清州織田家との関係が悪くなります。

この頃、信長は那古野城に住んでいます。今の名古屋城の位置です。

一方、清州織田家の居城は今の清州城です。ほんのちょっとした距離10㎞ぐらいでしょうか、こんな近い距離をおいて争いをしている感じです。

天文21年には萱津の戦い、天文23年に、今川方と村木城の戦い、同じく尾張守護の斯波義統が清州方に殺され、息子の義銀が信長側に保護を求めます。

このため、清州織田家と安食の戦いとなり、これも勝利しています。

最後は信長とその叔父の策略によって清州織田家は滅亡することになります。これによって尾張の国の内紛はとりあえず終止符を打つことになります。信長20歳の頃です。

それにしても、大規模な戦いでないにしろ、すべて負け知らずですから、それなりに戦闘の才能はあったのでしょう。

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織田信長の弟織田信勝との戦い

これで表面的には安泰のはずなのですが、ここで大変なことが起こってしまいます。

弘治2年(1556年)信長の有力な後ろ盾である美濃の斎藤道三が息子の義龍との戦いで敗れてしまいます。信長は木曽川を越えて応援に出かけますが、間に合いませんでした。

逆に義龍に追い込まれてしまいます。

これまで清州織田家との戦いの中で美濃勢に協力してもらっていたのですが、もうこれでは期待できません。

こんなことから、弟信勝が謀反を起こします。配下には林秀貞、林通具、柴田勝家がいます。

稲生という名古屋市の北の庄内川沿いのところで戦いが起こりますが、またもや信長側の勝利となります。そのまま、信勝の居城末森城を包囲します。

母親の土田御前のとりなしで、信勝、柴田勝家を赦免します。

それではどうして弟信勝は反乱を起こしたのでしょうか。信勝は父信秀の居城である末森城に住んでいます。母親土田御前も同居です。

父親存命中、信長は父信秀と共同統治の形をとっています。領地の西側は信長、東側は信秀という形です。

父親が急逝したため、その父親の領地も父親の有力家臣も信勝の配下についた形になっています。

そういうことになれば、自分が本来の後継者としてふさわしいと思うようになったのではないでしょうか。

しかも世間的には兄信長よりも常識人であるため、自分の方に支持者が多いと考えるようになるでしょう。しかも周りもそのように接していたのだと思います。

こんなことから方向を誤ったのだと思います。

よく言われているのは母親が信勝が良い子だから溺愛したともいわれていますが。

一旦は戦いで敗れたのですから、ここで自重しておけばよかったのです。その後の展開を考えればチャンスはいくらでもありました。

でも、戦国時代とはそんなものなのかもしれません。チャンスがあれば自分がと思うのでしょう。

永禄元年(1558年)信勝は竜泉寺城の築城を始めます。また岩倉城の織田信安に通じるなどして謀反を企てようとします。

この動きを家臣の柴田勝家が信長に知らせます。以前は信勝の臣下だったのですが、見限ったのでしょう。信長にしてはもはや許しがたいと思うでしょう。普通はそうでしょうね。

信長は仮病を装います。そして清州城に見舞いに来た信勝は暗殺されてしまいます。

その後、もう一つの守護代家になっている岩倉織田家の織田信賢を浮野の戦いで撃破し、岩倉城を陥落させてしまいます。

それにしても信長はここに至るまで、重要な戦いでは決して敗れていないのが不思議なのです。

このようにして、織田信長は尾張国をほぼ手中に収めます。24歳のことでした。

永禄2年(1559年)信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見します。尾張国をほぼ治めたので、認めてもらおうとしたのでしょう。

しかし、この時はうまくいかなかったようです。

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織田信長は弟信勝を暗殺した理由は?戦国の覇者の尾張統一のまとめ

織田信長が世に出てくるまでの中世的な戦いの様子を説明しました。このように、狭い中に同族がひしめいて勢力争いをしているのが、なんとも暗い感じです。

でも信長にしてみれば、もともと守護代でもなかったわけですから、よくここまで来たことと思います。

それにしても、感心するのは主な戦いでほとんど負けていないことです。戦の仕方にはそれなりの訓練が必要だったと思いますが、信長も意外と戦上手だったのかもしれません。

後半生の長篠の戦の鉄砲三段撃ちとか桶狭間の戦いの奇襲が有名ですが、本質的なところでもしっかりした運用をしていたのだろうと思います。

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