渋沢栄一の妻である千代は1882年(明治15年)にコレラのために亡くなります。
コレラというと日本にもあったのかと思う人もいますが、開国に合わせて幕末から明治にかけて、何度もコレラが大流行しているのです。当時の衛生状態も良くなかったこともあり、患者数、死者数も現在のコロナどころではありませんでした。
コレラの大流行は日本ではどのくらいあったのか
コレラの大流行は幕末からも何度かありましたが、明治時代になっても2,3年ごとに繰り返されていました。大きな流行はこんなものがあります。
1877年(明治10年)では患者数1万3千人、死者数8千人
1879年(明治12年)患者数16万2千人、死者数10万5千人
1882年(明治15年)患者数5万1千人、死者数3万3千人
1886年(明治19年)患者数15万5千人、死者数10万8千人
1890年(明治23年)患者数4万6千人、死者数3万5千人
1895年(明治28年)患者数5万5千人、死者数4万人
渋沢栄一の妻千代が亡くなったのは1882年の流行の年でした。
その間にも1万人規模の流行は何度か発生しています。当時の日本の人口は3千万人から4千万人程度と言われていますから、ものすごい数だったことがわかるでしょう。
パンデミックの代表と言われているスペイン風邪でも死者38万人ですから、それと同等以上の被害があったといっても良いでしょう。
当時は衛生の概念もあまりなく、コレラがどのような原因で発生するかもわかっていませんでした。何しろ、コッホがコレラ菌を発見したのは、1884年のことですから。突然具合が悪くなって数日で亡くなってしまうので大変恐れられていたようです。
あの女性、兼子さんではないですかね?
千代さんは明治15年にコレラで亡くなってしまいます
後妻さんが兼子さんですね①渋沢千代
②渋沢栄一と兼子夫人
③渋沢栄一略系図 pic.twitter.com/mCz4wKVVtt— 猿聲 (@ensei0637) October 10, 2021
コレラは日本でどのように広がったのでしょうか
日本でもコレラについては全く無知・無策というわけではなかったのです。
明治10年のコレラはこのように広まった
例えば1877年の流行では、7月の段階で、清国アモイでコレラが流行しているとの情報を得て、神奈川、長崎、兵庫の県令に病院の設置、入港する船舶の検査、コレラ患者の収容を命じているのです。
しかし実際は、幕末からの治外法権が足かせとなり、外国からの船、外国人に法令を適用するのは無理となってしまったのです。このため、水際での阻止は不可能となってしまいました。
更に、この年は悪いことに西南戦争が終結した年でした。九州から続々引き上げる兵士の中に、コレラの症状を示す者が現れ始めるのです。
しかし、これを引き留めようとしても、勝ち戦に気持ちが高ぶっている兵士たちには通用せず、役人の制止を振り切って続々と故郷に帰還してしまうのです。このようなことから、最初の大流行が始まったようです。
明治12年のコレラはこのように広がった
次の流行はもっと悲惨なものでした、1879年にコレラが清国から九州に伝わり、西日本で広がり始めましたが、この時へスペリア号事件というものが起こっています。
同年7月、ドイツ汽船へスペリア号に対して検疫を要求したところ、同船はこれを無視して、横浜港への入港を強行したものです。
これによって関東地方でもコレラが大流行となり、この年に10万人を超える死者が出ることになりました。やはり治外法権に守られた、外国に対しては極めて弱い立場だったのです。
【入り口にエピローグ】#伝染病との戦い のエリア入り口に、いきなりエピローグを置いてます😅長崎の医師・長与専斎(写真)は、日本の衛星思想の根幹を作った人。福澤諭吉の親友で、北里柴三郎を福澤に紹介し、福澤の人力で北里のための伝染病研究所ができたのでした。野口英世も所員に。続く。 pic.twitter.com/GRVSVyhs9B
— 中津市歴史博物館(勝ち点+3) (@nakahaku_) June 27, 2021
コレラ対策を行った長与専斎衛生局長は
当時のコレラ対策を仕切っていたのが肥前大村藩出身の長与専斎でした。まだ、日本に公衆衛生という概念が定着していない時期のことです。
長与専斎は肥前大村藩の出身で衛生の第一人者
肥前大村藩に仕える漢方医長与中庵の子として、1838年に生まれます。この人も緒方洪庵の適塾で学び福沢諭吉の後任として塾頭になります。
大村藩の侍医になった後、西洋医学をおさめて、長崎府医学校の学頭になります。
1871年岩倉使節団の一員として欧米に渡り、1873年帰国、翌年文部省医務局長、東京医学校校長となります。1875年内務省の衛生局長となり、伝染病対策に乗り出します。
長与専斎のコレラ対策は
1877年には、予防体制の整備を急ぎ、同年「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を、1880(明治13)年には「伝染病予防規則」を定め、統一的かつ恒常的な感染症予防対策が初めて行われることとなりました。
それにしてもこの虎列刺(コレラ)の当て字がすごいですね。やはり相当恐れられていたのでしょう。
しかし、まだ衛生とか隔離とかの概念がないため、特に隔離に対しては恐怖心があるためなかなか民衆には受け入れられませんでした。
長与は各方面に地道に宣伝活動を続けて、徐々に浸透していくようになったといわれています。合わせて、下水道事業、上水道事業も進行していき、これらの対策により、コレラの流行は、明治中期以降、落ち着きを見せるようになりました。
大日本私立衛生会(日本公衆衛生会の前身)の集合写真。二列目中央のヒゲの人物が内務省衛生局長だった長与専斎。長与から左へ三人目が永井荷風の父・永井久一郎、右へ二人目が後藤新平、三人目が北里柴三郎です。バルトン先生は写っていません。 pic.twitter.com/QH5vQkmyTw
— バルトン研究会 (@369halfmoonst) November 5, 2019
渋沢栄一の妻千代が亡くなったコレラ対策の明治期の状況のまとめ
文明開化と言われている明治初期のコレラ対策の状況を解説しました。
比較することかどうかはわかりませんが、死者の数からいえば、パンデミックと言われたスペイン風邪と同等の被害を与えているのです。
当時は衛生概念も希薄ですし、そもそもコレラが細菌で感染することも知られていませんでしたので対策も難しかったのではないでしょうか。
加えて日本は治外法権を受け入れていましたので、外国人、外国船に対しては全く無力だったことでしょう。こんな状況の中で長与専斎は精一杯公衆衛生の概念を定着させることになったのです。
日本の疫病対策はその後の後藤新平に引き継がれます。
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