戦後初の内閣総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王とはどんな人でしょう

歴史人物

紆余曲折があり、鈴木貫太郎総理大臣の時に終戦となります。その後に就任したのが東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)です。皇族であることはわかっても、昭和天皇とどんな関係かもわかる人は少ないでしょう。ましてや、どんなバックグラウンドで、どのような人かを知っている人はいないでしょう。この戦後初の内閣総理大臣の生い立ち、総理就任のいきさつなどをご紹介します。

スポンサーリンク

東久邇宮稔彦王はどのような生い立ちの方でしょうか

東久邇宮稔彦王久邇宮朝彦朝彦親王の第9王子として1887年(明治20年)に生れます。

そうは言っても久邇宮朝彦親王もピンとこない人が多いと思いますが、幕末に活躍した中川宮と言えば何人かの方がわかるかもしれません。公武合体派として活躍された方です。

この方は伏見宮につながる方で、世襲親王家と言って南北長時代から江戸時代まで天皇の血統の遠近にかかわらず親王の身分を保持した家系です。その4家の中では最も歴史が古い家系です。

東久邇稔彦王は本来なら臣籍降下して伯爵になるところでしたが、明治天皇の第9皇女である泰宮聡子(やすのみやとしこ)内親王の婿となるため特例として、東久邇宮を立てることが許されます。

この頃の皇族としてはよくありますが、1908年(明治41年)陸軍士官学校を卒業し、1914年(大正3年)陸軍大学校を卒業します。

1915年(大正4年)聡子内親王と結婚しますが、その後1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで6年間にわたりフランスに留学します。

名目的には、サン・シール陸軍士官学校で学ぶとともに、エコール・ポリテクニーク政治・外交を学びます。このフランス時代にフランスの有名人との交友を通じて自由主義の思想を持つようになります。

帰国後は陸軍の要職を歴任するとともに日中戦争でも第二軍司令官として参加します。1939年(昭和14年)には陸軍大将に昇進しています。

歴史人物一覧の第二次世界大戦はここをクリック

スポンサーリンク

東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣に就任した理由と行ったこと

東久邇宮稔彦王は終戦の2日後になる8月17日に内閣総理大臣に就任し、10月9日に総辞職することになります。ちなみに在任期間54日は史上最短であり、皇族が首相となった唯一の内閣になります。

皇族であり現役陸軍大将であり、さらに自由主義的な思想をお持ちの東久邇稔彦王の登場は、戦前から望まれていました。

終戦に至って国家の速やかな敗戦処理の手続きを行うためには、しっかりした権威をもちつつ処理できる皇族しかないということで、本人は固辞しますが最終的に昭和天皇の強い意向があり引き受けることになります。

東久邇宮稔彦王内閣はどのようなの考え方をもっていたのでしょうか

東久邇宮稔彦王は最初の記者会見において注目すべき発言をしております。

全国民総懺悔することが我が国再建の第一歩として、いわゆる一億総懺悔の発言をしております。また、鈴木内閣から引き続き国体の護持を掲げて、この二大方針をもとに敗戦処理と戦後復興に向けて進めていきます。

また、終戦という言葉にも言及し、敗戦とはっきり認識しなければいけないと発言をしています。

また、早い段階で次のような方針も持ち出しております。

広く国民から意見を聴取するためのいわゆる目安箱のようなものをもうけたい。軍人が政治に関与することを禁止する。言論の自由を認める。政治犯の釈放

このうちすべてのものが実現できたわけではありませんが、それまで胸中にためておいた考え方を表明したものです。この目や図箱発言については、毎日数百通の手紙が送られてきたと言われています。

東久邇宮内閣で実際に処理した内容はどのようなものがあったのでしょうか

まだ大日本帝国憲法下の体制ですが、軍の武装解除、連合国軍の進駐、降伏文書の調印などの仕事がありました。

もっとも重要なのは軍の武装解除と連合国軍の進駐を受け入れることであったと考えられます。

例えば、小園安名大佐率いる第302海軍航空隊(厚木飛行場駐留)は降伏を受け入れず、抵抗を続けていました。米内海相の指示により説得工作を続けますが、功を奏せず、東久邇内閣は小園大佐を拘束し野比海軍病院に強制収容する強硬な措置を行っています。

東久邇宮内閣はどのような経緯で短命の内閣として総辞職したのでしょうか

これには2種類の説が述べられています。

一つ目はGHQが10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件」(人権指令)を出して、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視交換、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めたことに抗議の意味で辞職したと言われています。

二つ目の考え方は、東久邇宮内閣は終戦処理のための内閣であるので、軍の武装解除、連合国の進駐、降伏文書の調印をなして、国内がとりあえず収まれば、内閣の役目は果たしたと考える。

いつまでも皇族がその後の戦後の国内制度まで携わることは本意ではないので役目を果たした内閣は総辞職するというものです。これは、戦後の昭和27年に東久邇稔彦氏がインタビューで答えております。

はたしてどちらが正しいでしょうか。私は後者だと考えておりますが。

スポンサーリンク

幻に終わった開戦前1941年10月の首相就任

東久邇稔彦王はこのように陸軍大将でもあり、リベラルな考え方も通じているため、総理大臣としては各方面からも期待されていました。

特に、1941年10月に第3次近衛内閣が退陣した後の後継首相として各方面から押されていました。

注目すべきは陸軍からも現役陸軍大将ということで東条英機も賛成していたほか、リベラル派からも期待されていたのです。

ほぼ全員が推す中、木戸幸一内大臣が戦争になった時に皇族に累の及ぶのを恐れて反対したため実現しなかったのです。その代りに選ばれたのが東条英機です。

もし、素直に東久邇宮内閣が成立したら戦争は避けられたでしょうか。ここにいくつかのエピソードを紹介します。

同じく1941年8月に東久邇宮が昭和天皇に謁見したした際、昭和天皇は南部仏印進駐にあたって陸軍の申し出に対して不満をいだいていました。

天皇はこの進駐によって国際関係に懸念がある旨杉山陸軍参謀総長に伝えましたが、問題なしとの回答であったところ、アメリカからの対日資産凍結、石油輸出禁止を招いてしまったのとのことです。

東久邇宮は大日本帝国憲法の下、大元帥たる天皇陛下が懸念があるなら、天皇大権により止めるべきと進言されたそうです。

大日本帝国憲法がプロシア式の皇帝の強権を前提とした制度でありながら、イギリス流の立憲君主制の運用を行おうとした昭和天皇の齟齬を衝いた発言でしたが、南部仏印駐留は解消されませんでした。

更に、9月には日中戦争の解決を図るため、右翼の大物頭山満に働きかけ、蒋介石との直接の和平会談を行おうとしております。蒋介石からは会談受諾の返事をもらいますが、東条英機首相の反対により、幻の会談となりました。

うまくいけは、尾張小牧の戦いの後の羽柴秀吉と織田信雄の和解のように米国の介入を阻止できたかもしれませんね。

こんな可能性もあったのですが、結果は皆さまご存じのとおりです。

歴史人物一覧の第二次世界大戦はここをクリック

スポンサーリンク

戦後初の内閣総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王とはのまとめ

東久邇宮稔彦王は首相辞任後、敗戦の責任を取るためとして皇族の身分を離脱する方向であると、11月に表明します。そして、1947年10月皇籍を離脱して東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)と名乗ることになります。

1990年1月20日に102歳で逝去され、豊島岡墓地に葬られますが、世界の首相経験者の中では最長寿者となりギネスブックに登録されております。

歴史人物一覧の第二次世界大戦はここをクリック

コメント

タイトルとURLをコピーしました