近藤勇が板橋刑場で最期に命乞いをした理由とその後の展開は

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近藤勇は言わずと知れた新選組の局長です。幕末にあっては京都の治安維持、尊王攘夷浪士の取り締まりで有名を馳せます。

1968年の鳥羽伏見の戦いに幕府軍にあって敗れたのち、江戸にもどります。そして流山で集結していたところを新政府軍に取り囲まれます。新政府軍に出頭しますが、素性を見破られ捕縛されます。

その後板橋まで護送され斬首されます。その時に、命乞いをしたともいわれますが、実際はどうだったのでしょうか。

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新選組は鳥羽伏見の戦いの後も戦い続けることになります

鳥羽伏見の戦いの後、新選組の残存部隊は海路江戸にもどることになります。そして、江戸城で今後の方針の議論に加わります。

当然、近藤は徹底抗戦ですが、幕府としては将軍慶喜が恭順の意を表して謹慎していますので、とても受け入れられません。

このまま江戸に新選組を残しておいては災いの種になると考えたのでしょう、新選組に甲州鎮撫隊という職責を与えて、甲府の治安維持と甲府城の引き渡しを命じます。

しかしこの指示は曖昧のようで、新選組は新政府軍の関東侵入阻止ととらえていたような様子があります。いずれにしろ勝海舟と大久保一翁の指示とも言われています。

相当の軍資金と200名以上の人員を抱えた新選組ですが、にわか集めの隊士であったこともあり、大砲の組み立て方もわからないまま、途中で豪遊しながら甲府に向かったと言われています。

一方、板垣退助率いる新政府軍は状況の把握に努め、一刻も早く甲府に入城したものが制することを熟知し、相当の進軍速度で、甲府城を押さえてしまいます。

近代的な軍隊と寄せ集め部隊の違いがはっきり出てしまいます。結局両者は勝沼で戦闘を開始しますが、1、2時間で決着がついてしまいます。もちろん新政府軍の圧勝に終わります。

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新選組は江戸にもどり隊員を募り下総流山に集結する

鳥羽伏見の戦いから以来再び甲州勝沼で敗れた新選組ですが、江戸にもどり隊士を募集します。200名程の隊士が集まったと聞いています。そして奥州に向けて転戦するため下総流山に集結します。

近藤、土方は桑名藩にゆかりのある長岡七兵衛宅を本陣としていました。

下総流山の新選組は新政府軍に包囲される

しかし政府軍の進行は予想よりも早く4月2日には越谷まで進出しております。そして武装集団があるという情報に基づき新選組を包囲してしまいます。

近藤勇は大久保大和という偽名で過ごしていましており、付近の治安維持のための幕臣であると説明していました。また、現代と違って人相もなかなか知れるものではありません。

どうやらこれで通せると踏んだんでしょう。越谷の政府軍の駐屯地に野村利三郎を連れて出頭することになります。

新選組の近藤勇の素性が判明し、新政府軍に捕縛される

ところがそこに、会津藩の与力として京都守護にあたっていた彦根藩の者がおり、大久保大和が近藤勇ではないかと疑うようになったのです。そして、そこで近藤は捕縛され、総督府のある板橋まで護送されてしまいます。

板橋の政府軍には元新選組隊士で御陵衛士として袂を分かった2名の者がおり、近藤勇であることがわかってしまい。そのまま牢に繋がれることになります。同行した野村も同じです。

土方としては、最大の失敗であったと思います。どっちみちばれるにしても自分が行けばよかったと思ったことでしょう。

さっそく幕府に使いを送り、助命嘆願の書状を作成してもらい、相馬主計(ともの)に板橋に届けさせます。しかしながら、相馬も同様に捕まってしまいます。

しかし悪いことばかりではありませんでした。この間の混乱を利用して、土方らの新選組は包囲を抜け出すことができ、北へ向かいます。

そして近藤勇の処刑が決定される

板橋の政府軍本営では、近藤勇の処遇について、議論が始まります。この時の政府軍は薩摩と土佐が主流でした。土佐藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺については新選組の仕業と考えていたので、断固処刑を主張します。薩摩藩はそこまでは必要ないと考えていました。結局、土佐藩の主張が通り、近藤は処刑されることとなりました。

近藤勇が処刑にあたって最後に命乞いとともに頼んだこと

ここで本題に入ります。近藤勇は最後に自分のような有名人を処刑するのであるからそれで十分だろう。同行してきた野村、助命嘆願書類を届けた相馬の死罪を免除してほしいと嘆願します。これはさすがに聞き届けられ、両名は後日釈放されます。

そして、もう一つ、処刑されるのにむさくるしいから、ひげをそらしてくれと頼みます。これも聞き入れられたそうです。

そして衆人が見守る中、動揺することなく処刑されたと記録されています。1868年5月17日、享年35でした。首は京都の三条河原まで運ばれ梟首されますが、その後は行方が知れません。

最後に近藤勇の辞世の句を紹介しておきます。

孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流

一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔

(書き下し文)

孤軍 援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る

一片の丹衷 能(よ)く節に殉ず 睢陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)

靡他今日復何言 取義捨生吾所尊

快受電光三尺劔 只將一死報君恩

(書き下し文)

他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所

快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん

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近藤勇の最期の命乞いで救われた二名の隊士のその後

近藤勇の命乞いにより、解放された2名の隊士のその後の足跡を簡単に説明します。

野村利三郎のその後の足跡

野村利三郎は近藤勇が新政府軍に出頭するときに同行した隊士でした。その時は24歳です。

釈放後は幕府軍に加わり、奥羽越列藩同盟とともにたたかい、土方歳三に再開します。蝦夷共和国成立後には土方歳三の下で働いています。

しかしながら、1869年(明治2年)5月6日の宮古湾海戦で、回天丸に乗船していた野村利三郎は、新政府軍の新鋭軍艦甲鉄に切り込んで戦いました。

しかし、撤退することができず、そのまま軍艦甲鉄の艦上で戦死してしまいます。

相馬主計(そうまともの)のその後の足跡

相馬主計は近藤勇が新政府軍に捕らえたとき、土方歳三の命により幕府陸軍軍事方の書状をもって近藤の助命のため板橋に出頭します。その時に同じように捕まってしまいます。

年齢は33歳とも25歳とも言われていますが、後の経緯からすれば33歳説の方が有力でしょう。解放後は彰義隊に参加し、彰義隊の敗退後は転戦しながら北上を続け、仙台で土方歳三に再会します。

蝦夷共和国に渡ったのちは、函館市中の取り締まりを行っていましたが、土方歳三の死去に伴い新選組の隊長に就任することになります。そして、新選組の降伏文書に署名しております。

いわば最後の新選組の体調になります。

明治3年に御陵衛士の伊東甲子太郎を暗殺した嫌疑をかけられ、伊豆の新島に流罪となります。明治5年に赦免され東京に戻ったのち、明治6年丹後国の豊岡県に出仕します。

明治8年免官されその後間もなく割腹自殺しますが、原因については妻に固く口留めしたため不明となっています。

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近藤勇が板橋刑場で最期に命乞いをした理由とその後の展開はのまとめ

近藤勇の最後について解説してきました。あの近藤勇が命乞いするなんてと思って読まれた人には肩透かしだったかもしれませんが、彼も最後に立派なことをしていますね。前途のある若者の命を守ったのですから。

しかし、彼らはまたもや幕府側で奮戦することになり、一人は、新政府軍の新鋭軍艦に乗りつけて艦を奪おうという宮古湾海戦で亡くなってしまいます。

政府軍の中にあってこの戦いを見ていた東郷平八郎が激賞した戦いです。

もう一人は最後の新選組隊長になるのですが、その死は永遠の謎になってしまいました。ひょっとしたら、これらの顛末が関係していたかもしれません。

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