占守島の戦いを樋口季一郎はどう戦った?北海道を救った8月18日

歴史人物

昭和20年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し終戦となったとされています。

しかしこれは、あくまでもイギリス、アメリカ、中国に対しての終戦であって実際には戦闘は終わっていないところもあるのです。

これらの戦いの中で、北海道のソ連による占領を防いだ占守島の戦いがとても重要なのです。それでは、この戦いがどのように起こったかを解説していきます。

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占守島(シュムシュ島)はどこにあった

占守島は千島列島の最北端にある島です。カムチャッカ半島の先端にあるロパートカ岬の間は幅13㎞の占守海峡によって隔てられています。南西から北東に30㎞、幅20㎞の島となります。いわばその頃は日本の最北端になっているところです。

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当時の日本側の状況は

陸軍は樋口季一郎中将の陸軍第5方面軍の配下にある第91師団が駐在していました。また満州から転身した戦車第11連隊が置かれていました。総兵力2万3千人です。

ここはアリューシャン列島に向けた、米軍に対しての最前線となるため、これへの対応を図るためのものです。しかし、それまで目立った戦闘がなかったのが幸いし、武器、弾薬に欠くことはなかったようです。

海軍は南部の基地を中心に第51、52警備隊が置かれている程度でした。航空戦力は陸軍、海軍を合わせても一式戦闘機隼4機、97式艦上攻撃機4機が残っている程度でした。

8月15日に日本はポツダム宣言を受諾したため。日本側により武装解除の準備をしておりました。

基本スタンスとしては8月18日16時で停戦すること。北海道から軍使を派遣する。自衛のための戦闘は妨げずということでした。

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ソ連の日本進出計画はどのようだった

ソ連はポツダム宣言の当事者ではありませんが、連合国側として明確にソ連の降伏受け入れの分担が決められていたわけではありません。

ソ連は日本のポツダム宣言受諾の機会をとらえて、アメリカに対して千島列島と北海道の釧路、留萌以北をソ連担当とするよう申し入れます。狙いは明白でしょう。

アメリカは17日に北海道については拒否したため、スターリンが激怒したと言われています。このため、早急に既成事実を作る必要がありました。

千島列島北部の占領のための用意として、陸軍8千8百名。艦艇54隻、航空部隊78機を擁していました。

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占守島の戦いはどのように始まった

8月17日の午前6時半ごろ占守島の軍事目標に対してソ連による爆撃が行われます。カムチャッカ半島のロパートカ岬の砲台から砲撃がありました。まだ、本格的なものではありませんでした。

8月18日午前3時ごろ、ソ連による上陸とロパートカ岬の砲台からの砲撃、艦砲射撃が開始されます。日本側も応戦し、上陸用舟艇を撃沈するなどしております。数時間後、部隊の上陸は完了しますが、重火器の上陸ははかどりませんでした。

日本側は上陸してきたのは当初ソ連とは断定できませんでしたが、ソ連軍上陸を知らせ、第5方面軍司令官の樋口李一郎中将に報告したところ、「断固、ソ連軍を撃滅すべし。」と指令をうけています。

このようにして、占守島では全面対決の様相を呈してきました。この中で、占守島の砲台からの攻撃でロバートカ岬の砲台が破壊されることもありました。

また、隼戦闘機の護衛の下で、97式艦上攻撃機による攻撃もあり、これが日本軍の最後の航空戦となっています。97艦攻は被弾しますが、それでも艦船に突入したそうです。

そして、18日の段階では、ほとんどソ連軍を追い落とすところまで来ていますが、最初の既定方針であった武装解除の時刻以降、日本軍はいったん後退しております。

樋口中将は大本営からマッカーサーを通じて停戦を働きかけますが、スターリンはこれを無視します。当然でしょう。

この間も、停戦交渉は行われており、18日、19日も軍使を派遣して停戦交渉を続けております。

再度20日にも戦闘が発生しておりますが、21日の21時をもって降伏文書に調印し、23日にはソ連軍の監視下で武装解除されます。

残念なことに軍関係者はその後シベリア送りとなっています。

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占守島の戦いはどのように評価されているか

この戦闘については、ソ連軍の数値では、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名となっています。日本側の数値では、日本軍の死傷者600名、ソ連軍の死傷者3000名となっています。

ソ連にしてみれば、この戦闘で勢いをつけて千島列島を占拠して、北海道まで侵入したかったのですが、思わぬところで大きな抵抗にあい、計画が大幅に遅れてしまいます

このため、歯舞諸島まではたどり着いたものの、目的の北海道上陸は果たせませんでした。スターリンの目論見が大幅に狂ったともいわれています。

北海道まで侵入された場合は、その後のドイツと同じ状況になっていたかもしれません。その意味では、この戦いが大きな意味を持つことになるのです。

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戦後の樋口李一郎の処遇はどうなったか

8月18日の占守島の戦い、その他樺太方面の戦いを指揮した第5方面軍司令官樋口季一郎についてはスターリンの知るところとなり、スターリンは彼の経歴を徹底的に調査するよう指示します。

そして、樋口が満州国で特務機関を指揮していたことなどを調べ上げ、彼を戦犯として極東軍事裁判に指名することになります。

しかしながら、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーはソ連からの要求を拒否して樋口の身柄を保護します。

どうしてでしょう。

実は、樋口はハルピン特務機関長時代にユダヤ人を大量に満州国に入国させ上海に脱出させる働きをしていたのです。この人数は最大で2万から3万とも言われています。このためユダヤ人からは感謝されており、彼の救済のためにユダヤ人社会がマッカーサーを動かしたともいわれています。

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占守島の戦いを樋口季一郎はどう戦った?北海道を救った8月18日のまとめ

何かと旧帝国陸軍の軍人は今の世の中から見ると評価されていない人が多いのですが、中にはこのような人がいるのです。

残念なことに、歴史の中にうずもれて評価されずに終わっていますが、日本が分割統治されなかったのは、少なくとも北海道が分割統治されなかったのは樋口中将の指揮によるところが大きいと思います。

最後に触れたユダヤ人の救済についても、日本では杉原千畝だけが有名になっていますが、彼のビザを有効に生かすためには、満州国に経由する必要があったのです。

その意味では樋口中将も正当に評価されても良いのですが、軍人ということで、これも歴史にうずもれてしまっています。

当のイスラエルでは正当に評価されているのに残念なことです。

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