弓道を練習されている方でオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を読まれていない方がいれば、ぜひご一読いただきたいと思います。
この本は、弓聖と言われている阿波研造範士に入門したドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲルの三年間の体験をつづったものです。
昭和の初めの頃の話ですが、現代でも我々が練習をする際の重要な示唆が含まれています。この内容の簡単な紹介をして、皆様の読書にお任せしようかと考えます。
「弓と禅」に登場する弓聖阿波研造範士とは
生まれは1880年石巻と言われています。代々漢籍の家庭に育って、20歳前には漢籍の塾を開くまでになっていました。
また、弓術についてもそのころから始めて2年ほどで教える人がいなくなったようです。30歳の頃には仙台で弓道場を開いています。
その後、東京の本多利實に師事したりしています。37歳のとき全日本の大会に出て、すべて皆中で日本一となっています。弓聖と言われています。
その迫力のある射の画像は、皆様の道場にも飾られていることでしょう。
また弓道に関しても仏教思想を取り入れて、的中もさることながらだんだん精神的な領域に踏み込んでいかれました。
ユーチューブにその頃の日魯弓道大会の映像が残っています。ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
【モーニングおすすめ弓道動画】阿波研造範士・神永範士・安沢範士ら: http://t.co/eAxKj9KHrz #弓道
— 弓道ニュース (@kyudo_news) April 24, 2014
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今度は阿波研造さん(1880-1939)をカラー化してみました。1911年に本多利實と出会い、1913年に皆伝印可を受けました。利實の七道の写真を常に傍らに置きながめながら、「とても及ばぬ」と生涯研究を続けました #弓道 pic.twitter.com/NndWjrMBAI
— ほんじょ⭐ (@161qd) July 3, 2019
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オイゲン・ヘリゲルが阿波研造範士に入門するようになったいきさつ
オイゲン・ヘリゲルは新カント派哲学者として教壇に立っていたが、日本の東北帝国大学に招聘されて教鞭をふるうこととなりました。
かねてから、神秘主義についても傾倒しており、東洋思想の中に、その糸口をつかもうとしたようです。このため、日本滞在中に禅との関わりの深い弓道を習うこととしたようです。
また、本人も射撃の経験があったので、弓道なら近いだろうと考えたようです。
阿波研造範士は以前外国人の入門者に手を焼いた経験があったため、始めは断っていたようですが、紹介者の強い要望により受け入れることとなったようです。
阿波研造のオイゲン・ヘリゲルに対する指導内容は
オイゲン・ヘリゲルの考え方は、今の日本人と極めて近いようです。何事も言葉と論理でわからなければ進めない西洋人を説得するのは大変だったと思います。
それでもステップ踏んで進んでいきます。
力を入れずに弓を引くこと
これはかなりの方が力を入れずして、骨格でひくことを入門当初言われたのではないでしょうか。
でも実際にできているかは自分の胸に手を当てないとわからないでしょう。阿波範士なら見るだけで分かったかと思います。そのコツとして呼吸法の伝授もしています。
これを現代的に考えれば、特に腕先の力を使わずに、呼吸に合わせて、骨格を使って弓を開いていくのですが、果たしてできているでしょうか。
ヘリゲル博士が与えられた弓はおそらく20㎏は軽く超えるものだったでしょうから、これを毎日どのように練習したか想像するだけでも大変なことです。
それでもこの段階では、師範の体がどこも凝っていないことを確認させて行っていたので、従うしかなかったことでしょう。ここはそれなりにスムーズに終了できたようです。
それにしても、現代とは厳しさが違いすぎますよね。今では、最初の段階では10㎏ぐらいの弓で、それでも射形が崩れてくるのですから。
自ら放すことをせずに矢を離すこと
次の段階では、放すことをせずに自然に離れるまで待っていろというものです。これは難しいでしょう。だって20㎏もある弓です。
よほど手先の力が抜けていなくては、自然に弦が弽溝から離れるようなことにはならないでしょう。
現代的に考えれば、本当に手先の力が抜けて弦を引き続けていくと、弦によって馬手の親指をまっすぐに戻す力が働き、これが結果として馬手を外側に回転する力が発生します。
これによって、弦が溝にかかっている位置が変わって、弦が外れるということになります。
こんな理屈は解説されずにひたすら引き続けるだけでは、疲れ果ててしまうことだったでしょう。
ある時、ヘルゲル博士は工夫を見つけ出すのです。
すなわち、弽の親指を押さえていた指の力を少しずつ抜いてき、ぎりぎり引っかかるように引いていけば、自分が意識しなくても自然に弽から弦が外れるようになる。
この方法は、現代ではかなり推奨されているのではないでしょうか。現に、弓道教本2巻、3巻を読むと、この方法に近い方法を提唱しています。
カケホドキというのが、この状態に近いと考えられます。となると、阿波師範から言わせれば、全員失格、分かっていない。ということになります。
案の定、阿波師範にこの方法で放したところ、ついには弓を取り上げられてしまいます。もう破門ということです。
ようやく、事態の重大さを知ったヘルゲル博士は丁重に詫びを入れて元に戻ったようです。
それから、ひたすら持ち続けて、ついに、自然に離れるようになったわけです。
これを阿波範士に言わせれば人が射るのではない、それ(神)が射るのだということだそうです。
ここまででもすごいことですね。私もこんな射はしたことがありません。私たちが知らない領域に入っていると思われます。
それにしても、ここまでの練習は巻藁だけです。今だったら、3ヵ月もたたないうちに的前に出してあげなければ、皆辞めてしまいます。やっぱり厳しさが違いますよね。
的を狙わずに又は的を意識せずに離すこと
やっと的前に出ることが許されたようです。ここまで2年ぐらいかかっているのでしょうか。次の難題は的を狙うなということです。
「的を狙わずにどうやって的を射るのだ。」と不満げに思ったでしょうが、今までの実績があるので、しばらくは我慢して練習していたようです。
理屈の人からは当然ですよね。銃には照準がありますし。それに合わせて発射するのですから。それを的を狙わずにただただ待ってろでは、切れてしまいます。
ついに、本当に切れてしまったようです。そこで、師範から本当はやりたくなかったけど、夜に来るように言われます。
ここからが、この本のクライマックスになります。
ヘルゲル博士が夜行くと、二人は何も言わずに道場に足を運びます。的の前には穴を掘って線香が一本ついています。
道場の明かりを消すと真っ暗です。この中で師範の射が始まります。一本目は音で的中がわかります。そして二本目も。
しかし、矢を取りに、的前に行ったヘルゲル博士はそれを見て・・・・・・。
ここからは、やめておきましょう。せっかくのクライマックスは読んで味わったほうが良いでしょう。
現代的な解説はしておきます。弓道は弓だけで矢を放つのではなく、体もその機構の中の一つなのです。
したがっていかに眼から先を合わせても、右手の位置がずれていれば、同じところに行きません。体の軸、角度がずれていても同じことです。
よく狙って、眼と弓手の位置を合わせてもそれだけでは十分でないのです。謙虚になってこの身体感覚をどのように養うのかが重要なのです。
この感覚を阿波範士は自らを射ると表現しているようです。
このような修練を重ねてヘルゲル博士は弓道の神髄に近づいていったようです。
弓道の名著オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を読みましたかのまとめ
弓道を練習するものとしては必読の書といえる、「弓と禅」について、簡単な説明と、現代からの視点からのコメントを備えておきました。
まだ読んでいない方は是非読んでいただくようお願いいたします。それにつけても、この時代の練習と取り組みの厳しさに感服します。
今ではこの一部も実践できない風潮を現代的と呼ぶのか堕落と呼ぶのかはわかりません。
この「弓と禅」は翻訳も2種類ほどありますし、ヘルゲル博士の同じような内容の講演を翻訳したものも出版されています。
この本の影響を受けて欧州で弓道に取り組む人もたくさん現れています。
また、一時期アップルのスティーブ・ジョブズが愛読書として取り上げたこともあって、それなりに広まりました。
弓道をされていない方もこんな世界があるのだなと思っていただければ幸いです。
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