五代友厚と渋沢栄一の関係は?東西の経済の巨人の類似点と相違点

歴史人物

五代友厚は幕末の薩摩藩出身で主に大阪経済界で活躍された方です。同じ時期に渋沢栄一は東京を中心に日本資本主義の父と言われるまでに活躍された方ですが、五代友厚も大阪を中心に同じように経済復興に活躍しております。

渋沢栄一は武蔵国の農民、五代友厚は薩摩の武士から、奇妙な縁で経済界の巨人となった人です。その類似点と相違点を探っていきましょう。

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五代友厚の生涯を簡単に説明すると

天保6年12月26日(1836年2月12日)薩摩藩士五代秀尭の次男として生まれる。

安政4年(1857年)長崎海軍伝習所に派遣され勝海舟に会う。

文久2年(1862年)舟奉行副役となる。水夫に変装して上海へ赴く。高杉晋作に会う。

文久3年(1863年)薩英戦争で寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される。

慶応元年(1865年)欧州に向けて旅立つ。

慶応2年(1866年)薩摩の山川港に帰着。勝手方御用席外国掛となる。

慶応3年(1867年)いろは丸沈没事故の土佐藩と紀州藩の仲介。

明治元年(1868年)参与職外国事務掛となる。外国事務局判事となり、大阪市に来る。堺事件(フランス海軍襲撃と堺守備隊の狙撃)の調停。 外国権判事、大阪府権判事となる。

初代大阪税関長となる。大阪府判事となる。大阪造幣局の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を六万両で購入する契約を結ぶ。

明治2年(1869年)退官し下野する。金銀分析所を設立する。

明治3年(1870年)吉野郡天川郷和田村に天和鉱山を手掛ける。

明治4年(1871年)造幣寮(現・大阪造幣局)、竣工。

明治6年(1873年)弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立。

明治7年(1874年)半田銀山(福島県)の経営を開始。

明治8年(1875年)大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。

明治9年(1876年)朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立。堂島米商会所を設立。

明治11年(1878年)大阪株式取引所を設立。大阪商法会議所を設立し、初代会頭に就任。

明治12年(1879年)大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設

明治14年(1881年)大阪青銅会社(住友金属工業)を設立。関西貿易社を設立。

明治15年(1882年)共同運輸会社を設立。神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。

明治17年(1884年)大阪商船(現・商船三井)が開業。

明治18年(1885年)日本郵船会社を斡旋する。東京の別荘で没する。満49歳。大阪市で葬儀。

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五代友厚と渋沢栄一の関係は?類似点と相違点は次のところに

五代友厚も渋沢栄一も明治初期の経済人として大活躍された方ですが、意外なところですれ違っています。

1867年パリ万博でのかかわりと参加

1867年のパリ万博は日本が最初に参加した博覧会として知られておりますが、幕府の他に薩摩藩、佐賀藩も参加しております。

実は、この動きは幕府よりも薩摩藩の方が先行していたのです。

これは、五代が1865年から留学した際に、「わが文明を促進するの方法についての十八条」として藩に提出した中に含まれております。

この中に「仏国万国博覧会への出品の要なること」として、目をつけているのです。

もともとフランス当局は幕府に対して参加要請していたのですが、なかなか幕府も理解していないようで話が進まなかったのです。

一方、薩摩藩ではフランスのモンブラン伯爵と商談を進める中で、伯爵と万博参加の話を進めていました。

いわば一歩先を行った形です。

これによって日本から、幕府、薩摩藩、佐賀藩が独自出店することになったのです。幕府も後追いということでこの形を認めざるをえなかったのです。

最終的には幕府・薩摩藩・佐賀藩・一般商人二名,の参加となりました。

薩摩藩は「日本薩摩太守政府」の名を以て出品しました。幕府・佐賀藩は「日本大君政府」「日本肥前太守政府」と称し、幕府としては不本意な結果となってしまいました。

更に悪いことには、モンブラン伯爵の勧めで、薩摩藩は独自の勲章を作成し、ナポレオンに贈呈しているのです。幕府もこの動きを知って勲章を作りましたが、実際に送られたかどうかは定かではありません。

このように、一歩も二歩も進んだ動きができたのは五代友厚の働きでした。この時点で考えれば五代友厚の方が一歩抜きんでていたようです。

残念ながら、彼は万博の前に帰国していますので、万博に参加した渋沢栄一と接触する機会はなかったようです。

渋沢栄一のパリ万博の様子はこちらをご覧ください。

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また、この万博には五代の命の恩人清水卯三郎が参加して日本茶屋で好評を博していました。

清水卯三郎のパリ万博での活躍はこちらをご覧ください。

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五代友厚大阪経済の立役者となる

明治初期、天下の台所と言われた大阪も大きな低迷期を迎えております。銀主体の取引が廃止されたこと、藩債の整理による、両替商の試算性消失が主な原因となっているといわれています。

それまで、大阪には縁がなかった五代友厚ですが、明治元年(1868年)参与職外国事務掛となる。外国事務局判事となり、大阪市に来たところから、大阪経済のために尽力していきます。

大阪造幣局の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を6万両で購入する契約を結ぶなど、経済の下支えから進んでいきます。

明治2年にこれらの活躍が認められて横浜へ栄転することになりましたが。大阪では官民挙げて反対運動が起こりました。部下からも留任嘆願書も出るなど大変な騒ぎになってしまいました。

五代も一旦は横浜に行きますが、すぐに退官して、大阪に戻ってきてしまいます。

そこから先の活躍は、生涯に記載したとおりですが、渋沢栄一にも負けないくらい多方面にわたる事業を展開しています。

鉱山、港湾、運送、金属、米相場、貿易などおよそ考えられるすべてに展開しています。

同時期にも東京を中心に渋沢栄一も大規模な事業展開をしておりますので、お互いに知ってはいるでしょうが、協力し合って何かをしたという痕跡はありません。

案外仲が悪かったのかもしれません。現代のように交流が激しい時代なら考えられなかったようですが、当時では東京と大阪は遠い存在なのかもしれません。

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五代友厚のエピソード(イギリス艦隊に捕らえられる)

文久三年(1863年)英国艦隊が鹿児島に向かったとの知らせを聞いて、寺島正則と一緒に戦争回避のために薩摩藩所有の蒸気船でイギリス艦隊と遭遇することとなります。

しかし、イギリス艦隊は薩摩藩が生麦事件の賠償と犯人の逮捕処罰に交渉していたところですが、薩摩藩が回答を出さないことから、蒸気船ごと拿捕されてしまいます。

戦争がはじまりますが、人質の五代と寺島は船内では自由に行動できました。ここら辺がおおらかのところですね。

そして、もっと大らかなことには、艦隊司令官キューバー提督が、次の作戦として上陸することを予定しているが五代、寺島に感想を聞いたりしています。

この機会に五代は薩摩武士の勇猛さを自慢して、陸上では10万人の精鋭が生死をかけて戦うので、とても陸上戦では勝ち目はないだろうと宣伝しています。

確かに、海上戦闘でも薩摩軍はそれなりの戦果を挙げていることもあり、更に陸上戦になれば、相当の被害者がイギリス側にも出ることは予想されます。

そんなことから、忠告が聞いたのでしょう。イギリス艦隊は横浜に向かうことになります。

そして横浜で出会うのが商人の清水卯三郎です。清水は幕府側の通訳として乗り込んでいましたが、五代と寺島を引き取り、しばらくかくまってくれました。

と言いますのは、彼らが蒸気船でイギリス艦隊に遭遇したのは、独断による行動ですし、その上船を奪われてしまっていますから、おめおめと帰ってくれば薩摩藩からの処分は免れません。

そんなことから、その年末に薩摩藩とイギリスの和議が成立するまで清水の保護下にあったのです。そんなことから、五代にとって清水は命の恩人ともいえます。この清水卯三郎もパリ万博で大活躍した方です。

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五代友厚と渋沢栄一の関係は?東西の経済の巨人の類似点と相違点のまとめ

五代友厚の生涯を中心に、日本資本主義の創設者と言われている渋沢栄一との関係を述べてきました。

どちらも幕末の動乱期に一方は藩から、一方は幕府から欧州に外遊することによって、外国の資本主義の仕組みを学んだことから、世界が開けてきます。

帰国してからは政治の世界よりも経済の世界に軸足を置いて活躍された方です。

明治以降の活躍は東西の違いはあっても、それぞれ大活躍といった様相で、毎年次々と事業を展開しております。それこそビックリするくらい毎年事業の範囲が変わってきます。

残念なのは五代友厚が明治18年僅か49歳で亡くなったことです。渋沢栄一が昭和9年91歳で亡くなったのとは相当な開きがありました。

彼らの経済活動は明治に入ってからですから、五代18年、渋沢60年と3倍以上の開きがあります。これが違っていたらどうなったかも興味が尽きないでしょう。

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