池田勇人の前半生は病気との戦い。彼を支え、救った二人の女性は

歴史人物

池田勇人と言えば、高度成長期の総理大臣として、所得倍増計画を掲げた首相として有名です。また、1964年の東京オリンピックの時の首相でもあります。

さも、順調な歩みを経てきたと思うでしょうが、彼の前半生35歳までは苦難の歩みだったのです。特に難病を発症し回復の見込みもなく、数年間職を離れています。そんな苦労の時代を解説します。

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池田勇人の出自はどの様だったのでしょうか

1899年(明治32年)広島県の今の竹原市の出身となります。7人兄弟の末っ子として生まれます。

後での活躍が噓のようですが、旧制中学に入るところまでは良かったのですが、その時のお決まりのコースを進もうとしたようで、陸軍幼年学校を受験しましたが、落第したようです。

近視と背が低いのが原因と言われていますが、よくわかりません。どうも軍人の方はこれであきらめたようですが、第一高等学校を受験しますが2度落ちています。

岸田首相が東大を3回落ちたのと似たようなものですかね。一高はあきらめたようで、熊本の第五高等学校に入って、京都帝国大学法学部を卒業します。

当時は高等学校を卒業していれば、大抵の帝国大学は入れたようですが、東京帝国大学法学部だけは選抜があったと聞いています。池田勇人氏はどうだったのでしょうか。

こんな感じですから、なんかピカピカのイメージには遠い感じがしますね。

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池田勇人は大蔵省に就職しますが

京都帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格します。1925年大蔵省に入省することになります。主流とはなりえず傍流を歩くことになりますが。この当時ですから仕方がなかったことでしょう。

結婚相手は維新の元勲広沢正臣の嫡男広沢金次郎伯爵の娘直子でした。

池田勇人は難病に襲われることになります

昭和5年9月のことです。池田勇人が宇都宮税務署長の頃です。年齢は31の頃でしょう。膝のあたりに小さな水ぶくれができて、かゆみが出てきたのです。

最初はこんなものだと思ってほっておいたのでしょうが、これがだんだん全身に広がってきたのです。この水膨れがつぶれて、血が出てきて、瘡蓋になりということを繰り返して広がっていきます。

そしてかゆみで寝られない状態が続くようになります。こうなると仕事どころではありません。落葉状天疱瘡と言われる難病です。

現代ではある程度の治療法も出来上がっていますが、昭和5年のことですから医者も匙を投げた格好になるでしょう。とりあえずは休職として、休職期間が切れた昭和6年には大蔵省を退職することになってしまいます。

その間、妻の直子が一貫して看病にあたることになります。不眠不休の日々の後、ついに妻の方が力尽きてしまいます。昭和7年3月に狭心症のため急逝してしまいます。

この時が、どん底と言えるでしょう。池田はもはや広島県の実家に戻るしか方法はありませんでした。

そんな中で、今度は母親の梅子が勇人の看病を続けます。こんな生活がその後2年間続きます。いつ直るか直るすべがあるかもわからない状況ですので、絶望的と言ってよい状況ですね。

しかし、なぜか不明なのですが、昭和9年この病気が奇跡的に完治することになります

信心深い母親の影響があったのかどうかわかりませんが、母親は石鎚権現をはじめ、池田を連れて四国でお遍路もしているそうです。嘘のようにすべてが終わってしまいます。

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池田勇人、病気が完治して大蔵省に復帰する

とりあえず、仕事をすることになりますが、日立製作所の就職が内定したので、大蔵省に挨拶に行きますが、秘書課長から復職を勧められることになります。

今だったらこんなことはないのですが、戦前ですから大らかのものです。かくして昭和9年12月に玉造税務署長として復職することになります。

それでも、現代から考えれば立派なものですが、戦前の制度から言えばすっかり遅れをとったと考えられるのでしょう。大蔵省でも税関係の業務を中心に回ることになります。

これが、彼をして税の専門家としてのキャリアを積む良いチャンスとなってくるのです。何が幸いするかわかりませんよね。

その後のポストも熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長ですから、本当に税務畑とみなされていたようです。

同期及び部下も多分主計局関係とか全体を網羅して歩くのが主流ですから。それでもどういうわけか主税局の国税課長という主要ポストに座ることになってしまいます。

この時はうれしかったようですが、大臣が変わった時に元の木阿弥になってしまいます。

次のポストは東京財務局長でした。また地方回りかと思ったのでしょうね。

池田勇人はここで出世が遅れていることを苦にして運動を開始

当時一期上の満州国の副総理格の古海忠之に満州国への就職を頼むことにして、ほぼ決まっていたのですが、これが母梅子の猛反対にあって断念することになります。実はこれが幸いするのです。

一つ目は東京にとどまっていたため、昭和20年2月には大蔵省主税局長に抜擢されるという幸運に恵まれます。

もう一つは古海忠之は終戦の時の満州国滅亡に際し、満州国の政策にかかわっていたため戦犯としてシベリア送りになっています。その後は八路軍に引き渡され監獄送りになり、日本に帰国するのはなんと昭和38年になります。

池田が満州国に古海の下でポストを得たならば同じような目にあったかもしれません。

こう考えてみると、母梅子の行動は池田の命の恩人どころか石鎚権現の生まれ変わりの守護神としか思えませんね。

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池田勇人の前半生は病気との戦い。彼を支え、救った二人の女性のまとめ

後の総理大臣となる池田勇人の前半生を解説してきました。こうしてみると一生懸命病気時代を支えた妻直子の存在、また、直子の後を引き受けて引き続き看護をした母親梅子の存在がとても大きいものがあります。

更に、満州国行きについての母親の大反対がその後の幸運につながってくると何か運命の神様に守られているような気がしますね。

池田勇人は最初の妻直子には本当に感謝していたようで、その後も命日には必ず墓前に参ったと言われています。更に、再婚後の長女に直子と名をつけています。

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