浅沼稲次郎氏への追悼演説:池田勇人の一世一代の名演説の内容は

歴史人物

第60代内閣総理大臣池田勇人のエピソードとして後世まで語り継がれているのは、当時日本社会党中央執行委員長であった浅沼稲次郎氏の国会での追悼演説です。

浅沼氏が日比谷公会堂で演説中に青年により刺殺されるという事件をうけて昭和35年10月18日衆議院本会議で行われたものです。

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日本社会党浅沼稲次郎委員長が刺殺された事件は

1960年(昭和35年)10月12日日本社会党委員長である浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂で演説中に、17歳の右翼の青年山口二矢(おとや)に刺殺された事件です。

近く解散総選挙が行われる情勢の中で、自民党、社会党、民社党の当主が総選挙に臨むわが党の態度を表明する演説でした。

午後3時5分ごろ、演説が始まって間もなくです。山口が壇上に駆け上がり、脇差のような刃物で浅沼を刺したものです。出血が少ないので安心したのですが、内出血がひどくほぼ即死状態であったようです。

このため演説会は中止となってしまいます。

逮捕後の山口は11月12日東京少年鑑別所で自殺してしまいます。壁に「七生報国 天皇陛下万才」と書かれてあったと言います。

山口二矢については、なぜか当時の右翼団体が集まって、「烈士山口二矢君国民慰霊祭」が12月15日に事件現場の日比谷公会堂で行われています。

現代の日本では想像できない状況ですが、まだ戦後もわずかですから、このような風潮もあるのですね。

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池田勇人君の故議員浅沼稲次郎君に対する追悼演説に至る経緯

総選挙自体は池田内閣の所得倍増計画などの経済政策で自民党の優位に進んでいましたが、この暗殺事件の後に、池田内閣の責任を追及する集会が各所で行われ、また、抗議活動も起きるなど社会的に不穏な状況となってしまいます。

ようやく安保闘争が終息を迎えたのにまたもやその再来ともいえる対立構造が起こる可能性があったのです。

この動きを重視した池田内閣は、各方面からの進言もあり、臨時国会を浅沼追悼国会として池田首相が追悼演説をすることとなりました。

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池田内閣総理大臣の追悼演説の内容は

同年10月18日衆議院本会議での追悼演説を紹介します。この演説は、歴史に残る名演説とされています。なるべくすべてを残しておきたいのですが、一部省略します。

日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)

ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。

私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。

かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。

しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。(拍手)

私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。(拍手)これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。(拍手)

 

この後は、浅沼委員長の経歴が述べられておりますので、割愛させていただきます。

 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。

淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)

君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。

沼は演説百姓よ

よごれた服にボロカバン

きょうは本所の公会堂

あすは京都の辻の寺

これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります[2]。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)

「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。(拍手)

君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。

国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)

私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。

しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。(拍手)

ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。(拍手)

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浅沼稲次郎氏への追悼演説:池田勇人の一世一代の名演説の内容のまとめ

浅沼次郎追悼演説は歴史に残るような名演説として、後世語り継がれています。また、この演説のおかげで、それまで騒然としていた、国内の状況が落ち着きを取り戻してきたことは特筆すべきことと考えらます。

世論の状況を踏まえて、国会の中で政治の世界で世間の理解を得るという手法を確立した画期的な事件として、記録されています。

日本はその言語的性質からもなかなか名演説が成り立たないのですが、このような一つの演説が世の中の動きを変えていくこともあるということです。

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