孝明天皇は幕末の世にあって黒船襲来以降開国と攘夷の間を揺れ動く中で国論の中心となる人物です。そして天皇の突然の死によって、急速に討幕に傾いていきます。
そのことから、天皇の暗殺説が囁かれるわけですが。しかし、外国嫌いとは言われていますが天皇の心中はどのようだったのを調べていきたいと考えます。
孝明天皇の崩御はどのようだったのでしょうか
1867年1月16日孝明天皇は当時風邪気味だったそうですが、神事に無理やり参加し、翌日発熱してしまいます。元来、天皇は極めて壮健であったそうですが、なかなか好転しなかったようです。
1月21日に天然痘の可能性が指摘され、翌日に公表されます。
その後の御容態書の内容では順調に回復に向かっている報告がなされています。1月30日の御容態所においても益ご機嫌が良くなられましたなどと報告がされているのです。
しかしながら、1月30日には崩御されてしまいます。公式には2月3日に公表されています。満35歳の崩御になります。
孝明天皇の崩御についてのうわさなど
孝明天皇は極めて壮健のため、風邪の心配もなかったのですが、これがいきなり天然痘となり、しかも経過は順調と言いながら、突然亡くなってしまったことから、暗殺、毒殺説が唱えられていました。
また、その最期のプロセスがヒ素中毒と似ていることから、毒殺説が囁かれています。
後年、伊藤博文を暗殺した安重根もこの説を唱えるなど、広く流布されていたようです。
この暗殺説の首謀者として挙げられているのは岩倉具視が有力視されています。
と言いますのは、孝明天皇が幕府に対して好意的であるため、なかなか、討幕に舵を切れないことで、この機会に天皇の典侍になっていた妹の堀川紀子に実行させてという筋書きになっています。
しかしながら天皇の御容態書は公式発表資料ですので、基本的に好意的に書くのが常ですから、これで順調だからと言って本当のことはわからないでしょう。
また、岩倉具視がこの段階でははっきり討幕ではないようですので、ここまでやるかは不明でしょう。しかも、その数年前から、岩倉具視は公武合体論者として、朝廷を去り岩倉村で謹慎していました。
従ってこの説は相当無理があると思います。ということで、病死として考える方が自然ではないでしょうか。
対立の可能性としてはどんなものがあったのでしょう
孝明天皇は基本的に攘夷をするという前提での公武合体論者です。従って討幕などは全く考えてなかったようです。
その前年に、第二次長州征伐で幕府側が事実上敗北したため、以前8月18日の政変で追放した尊王攘夷派の公家を復帰させるべきという意見が朝廷内で起こってきました。
そして、10月8日この復権を目指して公家22名が朝廷に押しかける事件が起こっています。しかし、孝明天皇はこれに与せず、押しかけた公家22名を謹慎処分をとします。
そういう意味ではなかなか孝明天皇も強硬ですね。
岩倉具視は1862年の段階で佐幕派とみなされ朝廷から追われて、岩倉村に蟄居していたのでさすがにこの策謀はできないでしょうが、岩倉具視説も出ているようです。
この謹慎処分は一時、朝廷内で是正の動きも出ますが、孝明天皇の強い反対にあってそのままとなります。結局帝の崩御後、討幕派が朝廷内で主流を占めるようになって初めて解消されることとなります。
中山 慶子(なかやま よしこ)
〈天保6年11月28日〉は、孝明天皇の典侍で、
明治天皇の生母。配偶者:孝明天皇
子女:明治天皇
父親:中山忠能
母親:中山愛子 https://t.co/LrxMvhbDwT中山慶子 pic.twitter.com/mCkSTjo1Ef— 鍵本武敏(早平)Johann seba manto (@airy_isis) September 20, 2021
孝明天皇はどんな人だったのでしょうか
孝明天皇は1831年(天保2年)仁孝天皇の第4子として生まれます。1846年(弘化3年)仁孝天皇の崩御により践祚することになります。
孝明天皇の開国、鎖国についての考え方はどうなんでしょうか。
1846年(弘化3年)幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じて、幕府は異国船の来航状況を報告しています。
1847年(弘化4年)には岩清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈願しています。
1858年(安政5年)日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で老中堀田正睦が上京する際に、下問したが、結果は得られず。
鷹司政通太閤が、堀田老中が開国を唱えても開国には賛成していません。こんな様子ですから、開国については完全に否定的なのです。
公武合体についても和宮の降嫁についても実は否定的で、三度の要請をしておりますが、断られています。結局は数年間後に国力をつけて条約を破棄するか、外国を追い出すことを約束して、これも決着しています。
また、条約の勅許についても、諸外国の艦隊が大阪湾に入って威嚇行動を起こしたため、やむなく事態の重大さを悟って条約の勅許を出すということになっています。このように一貫して、外国嫌いであることがわかります。
孝明天皇の幕府に対する考え方はどうでしょうか
幕府に関しては最後まで、期待をしていたようです。特に会津藩については贔屓の引き倒しに見えるくらい期待していました。松平容保が純朴に孝明天皇に仕えていたことも理解できます。
そういう意味では、幕府に取っては貴重な存在でしたし、自身が攘夷を主眼していても、それを利用して、幕府を倒そうとする長州藩とか公家に対しては露骨に不快感を示していたのです。
それが、突如の死去によって、形勢は逆転してしまいます。
鶴ヶ城天守閣より会津を眺める
会津が朝敵ではなかったあかし、孝明天皇から松平容保公に送られた、御宸翰と御製を見にきました
「たやすからさる世に武士の忠誠のこゝろをよろこひてよめる」
複製ではなく、今展示(10月中旬まで)されているものは実物です!
初めて見ることができて感激です。 https://t.co/I6VlmjmL63 pic.twitter.com/DmyN5G7WJH— 左近 – 会津 (@21sakon) September 20, 2021
孝明天皇の死因は何?暗殺されたと言われる天皇の本意のまとめ
孝明天皇の幕末の大事な時の突然の崩御は、その後の歴史の流れを大きく変えていくことになります。
もしも、孝明天皇が存命であったならば、徳川慶喜が描いたような、徳川を盟主とする国内体制を形づくることができたことでしょう。
幕末の多くの有力諸侯もその構図を描いていたかもしれません。しかしながら結果は歴史が示す通りとなっています。
特に会津藩については孝明天皇が後に松平容保に示した文書にそのことが描かれており、後の会津藩の名誉回復に役立つことになります。
一つのきっかけで世の中が大きく変わっていくことに驚きを感じる次第です。
松平容保は孝明天皇の信頼も厚かったのに、徳川あっての会津という家訓を守り、時代の流れが早すぎた為、賊軍となってしまったが,孫娘は秩父宮雍仁親王に嫁いでいるのだから、会津藩士ももう靖国に合祀しても良いのではなかろうか。https://t.co/YSv7ep4y1O pic.twitter.com/9LMLEsCSxF
— youwave (@youwave1973) September 18, 2021
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