幕末の動乱期、日本の進路を左右した重要人物の一人が第121代天皇、孝明天皇です。彼の突然の崩御は、討幕運動を加速させ、明治維新への道を開く契機となりました。しかし、その死因については、天然痘による病死とする公式見解の一方で、暗殺や毒殺といった説も根強く存在します。本記事では、最新の研究成果を踏まえ、孝明天皇の死因とその背景について詳しく探ります。
孝明天皇の生涯と政治的立場
孝明天皇は1831年(天保2年)に仁孝天皇の第四皇子として生まれ、1846年(弘化3年)に即位しました。彼は攘夷(外国排除)思想を強く持ち、外国との通商に慎重な姿勢を示していました。1858年の日米修好通商条約の調印に際しても、幕府が勅許を得ずに締結したことに強く反発し、譲位も辞さない構えを見せました。
一方で、孝明天皇は幕府との協調を重視し、公武合体を推進しました。妹の和宮を将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、朝廷と幕府の結びつきを強化しようと努めました。また、会津藩主・松平容保を京都守護職に任命し、彼に深い信頼を寄せていました。
崩御までの経緯と病状の推移
1866年12月11日(慶応2年)、孝明天皇は神楽観覧中に体調不良を訴え、翌日には高熱を発しました。当初は風邪と診断されましたが、14日には顔や手に発疹が現れ、天然痘の可能性が指摘されました。15日から16日にかけて全身に発疹が広がり、正式に天然痘と診断されました。
19日には食欲が戻り、快方に向かっていると報告されていました。しかし、24日になって病状が急変し、再び発熱と嘔吐が始まりました。25日には痰が増え、脈も弱まり、体が冷えていきました。死の直前には体に紫斑が現れ、全身の開口部から出血するなど、激しい症状を示し、同日崩御されました。
暗殺・毒殺説の背景と根拠
孝明天皇の突然の崩御は、当時から多くの憶測を呼びました。特に、病状が一時回復傾向にあったにも関わらず急変したこと、死の直前の出血症状が天然痘の典型的な症状と異なることから、毒殺説が浮上しました。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは、その著書『一外交官の見た明治維新』の中で、「天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだ」と記しています。これは、当時から毒殺説が広まっていたことを示しています。
また、孝明天皇の崩御後、幼少の明治天皇が即位し、討幕派が朝廷内で勢力を増したことから、倒幕派による暗殺の可能性も指摘されています。特に、岩倉具視が黒幕として名指しされることが多いですが、彼は当時、朝廷を追われて蟄居中であり、直接的な関与は難しかったと考えられます。
最新研究による死因の再検証
近年の研究では、孝明天皇の死因について新たな視点が提示されています。医学博士の橋本博雄氏は、2020年12月に発表した論文「孝明天皇と痘瘡」の中で、孝明天皇の症状記録を詳細に分析し、天然痘による病死とは考えにくいと結論付けています。
さらに、歴史学者の中村彰彦氏は、著書『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』において、孝明天皇の死因が急性砒素中毒である可能性を指摘し、その背後で画策した黒幕と、実行犯の女官の名前を特定しています。
これらの研究は、孝明天皇の死因に関する新たな視点を提供し、従来の病死説に再考を促すものとなっています。
まとめ:孝明天皇の死因を巡る謎と歴史的影響
孝明天皇の突然の崩御は、日本の歴史に大きな影響を与えました。彼の死因については、天然痘による病死とする公式見解がある一方で、暗殺や毒殺といった説も根強く存在します。最新の研究では、毒殺の可能性を示唆するものもあり、今後のさらなる検証が求められます。
孝明天皇の死の真相を解明することは、幕末の歴史をより深く理解するために重要です。もし彼がもう少し生きていたなら、日本の近代史は大きく異なる展開を見せていたかもしれません。幕府を支える立場であった孝明天皇の存在は、徳川慶喜が目指した「徳川を中心とした新体制」の構築に不可欠だったのです。
孝明天皇の死によって朝廷内の力関係が一変し、長州藩などの倒幕勢力が主導権を握ることになります。翌1867年、王政復古の大号令が発せられ、約260年にわたる江戸幕府は終焉を迎えました。
このように、孝明天皇の崩御は、単なる一人の死にとどまらず、国家体制の変革を決定づける転機となったのです。
孝明天皇を巡る歴史の評価と現代への視座
近年では、孝明天皇の政策や思想、そしてその死について、より客観的かつ多角的な研究が進められています。単に「外国嫌いの天皇」とするのではなく、時代の変化に対応しようとする複雑な姿勢を理解することが求められています。
また、会津藩や幕府の立場を尊重した彼の行動は、戦後の「官軍・賊軍」の単純な二項対立では語れない幕末史の奥深さを示しています。
現代においても、急速なグローバル化や社会の変革に直面する中で、孝明天皇のように「国家の伝統と秩序を守ろうとした人物の判断」を再評価する機運が高まっています。
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