久邇宮朝彦親王(中川宮)の幕末での働き及びその後は

歴史人物

久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)親王は通称中川宮と言われ、幕末の朝廷にあって、孝明天皇を支えて公武合体派の公卿として映画とかドラマに幅広く登場する方です。

また明治維新後は、久邇宮の創始者として、また、賀陽宮の創設にもかかわりがあり、現代の皇室にもつながる方です。

この方の、幕末での顛末と明治になってからの宮家創設について解説します。

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久邇宮朝彦親王の生い立ちはどのようでしたか

久邇宮朝彦親王1824年(文政7年)に伏見宮邦家親王の第4王子として生まれました。

仁孝天皇の猶子となって、1837年(天保8年)親王宣下、翌年得度して、奈良興福寺塔頭、一乘院門主、青連院門跡の門主、天台座主を歴任しています。

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久邇宮朝彦親王(中川宮)の活躍は安政の大獄から始まる

日米修好通商条約の勅許に反対、将軍家定の後継では一橋慶喜を支持したため、安政の大獄では隠居永蟄居を命ぜられています。

中川宮として公武合体派の中心人物となる

桜田門外の変の後は国事御用掛として朝政に参画、1863年(文久3年)には還俗して中川宮と名乗るようになります。

中川宮は公武合体派の中心人物として、会津藩主松平容保や薩摩藩と手を結び、急進派の長州派公卿を追放する8月18日の政変を決行します。これにより完全に長州派からは嫌われる存在となります。

1864年(元治元年)中川宮から賀陽宮(かやのみや)とあらためます。この年には蛤御門の変が勃発して第一次長州征伐が起こります。これによって孝明天皇の信認も厚く、この頃までが全盛期と言えるでしょう。

尊皇攘夷派の台頭により権力を失う

第二次長州征伐では幕府側が実質敗北しますし、将軍家茂も亡くなってしまいます。そして肝心の後ろ盾である孝明天皇が亡くなると、朝廷の内部は尊皇攘夷派が次々と復帰してきて、急速に権力を失うことになります。

1868年(明治元年)徳川慶喜に密使を送ったとの罪で親王位をはく奪されて、広島藩預かりとなります。翌年にはそのまま幽閉されてしまいます。

1870年(明治3年)政府から京都の伏見宮邸に護送され、2年後には謹慎を解かれます。

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久邇宮朝彦親王から久邇宮、賀陽宮、東久邇宮が創設される

久邇宮朝彦親王は5人の女房から王子9名、王女9名が育っています。このため、多くの宮家の創設にかかわっています。

久邇宮の創設から昭和天皇の香淳皇后が

1875年(明治8年)新たに久邇宮を賜り久邇宮家を創設することになります。実はそれまでは伏見宮を名のっていました。宮号の由来は恭仁京にちなんだと言われています。

この宮は第3王子邦彦が継ぐことになります。第2代邦彦王は主に陸軍に勤めることとなり、最終的には陸軍大将までなっております。

この方の第1王女である良子女王が昭和天皇の皇后になる香淳皇后です。

良子女王は1817年(大正7年)に皇太子裕仁親王との婚約が内定しましたが、この婚約を巡って宮中某重大事件と言われる事件が発生しています。

これは山縣有朋枢密院議長が良子女王の母方の島津家に色盲の遺伝があると聞き及んで、良子女王の家系を調べて、その恐れがあるので婚約を解消するよう邦彦王に迫ったものです。

しかしながら邦彦王は大正天皇の貞明皇后に直訴するに及びこの問題はなかったこととされました。そして3年後には成婚となったわけです。

この事件は宮中某重大事件として新聞報道されましたが、この事件を機に山縣有朋は急速に力を失っていくことになります。まあ、山縣有朋の一人芝居に終わった事件でしたね。

第2王子邦憲親王が賀陽宮を創設する

第2王子邦憲は1892年(明治25年)初代の賀陽宮(かやのみや)を創設することになります。この方は体が弱く、当初は久邇宮を継ぐ予定でしたが、家督を弟に譲ることになりました。

伊勢神宮祭主に就任しますが42歳で薨去しております。

第2代の恒憲王は邦憲王の第1王子で開戦については反対を唱えておりますが、陸軍に努め終戦時は陸軍中将になっています。この方は東久邇稔彦王と親しく、敗戦の責任を取って皇籍離脱することを主張しています。

第9王子稔彦王は東久邇宮を創設し、戦後初の内閣総理大臣へ

第9王子稔彦王は1906年(明治39年)初代東久邇宮を創設します。この方は、戦後の内閣総理大臣として終戦処理を行っています。

第8王子鳩彦王は朝香宮を創設する

第8王子鳩彦王は初代1906年(明治39年)朝香宮を創設します。朝香宮の宮号は父の朝彦王が伊勢神宮の祭主をつとめた縁で伊勢の朝香山にちなんでつけられています。

鳩彦王は陸軍の方に勤めますが、大正11年からフランスに留学しております。この時に大変な事故に会ってしまいます。

大正12年4月1日義兄北白川宮成久王が運転する車に同乗し事故に会ってしまいます。この事故で成久王とお付きの運転手は死亡後部座席の鳩彦王は重傷と北白川宮妃房子内親王は軽傷ということになりました。

鳩彦王は顎を砕かれ、右足大腿部骨折、左の親指と人差し指を骨折ということですから大変な事故だったようです。当初は東久邇宮稔彦王がドライブに誘われていましたが、稔彦王は運転が十分でないので断ったそうです。

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久邇宮朝彦親王(中川宮)の幕末での働き及びその後のまとめ

久邇宮朝彦親王(中川宮)は幕末にあっては公武合体派の中心人物として活躍しますが、孝明天皇が崩御されると急速に力を失って、最後は広島で謹慎処分となります。

この頃の幕府方としては仕方がなかったことでしょう。その後は許されて復帰しますが、この方の特徴としては、明治以降の宮家の創設にかなり絡んでいることです。

ここで紹介しただけでも4宮家の創設に絡んでいます。これらの宮家も戦後は皇籍離脱をしたのですが、近年、旧宮家の復活も議論されているので若干の注目をもって見ていこうと思います。

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