第12代将軍徳川家慶(いえよし)の時代は幕末の始まりとなります。大河ドラマ「晴天を衝け」で吉幾三さんが演じています。
家慶は人材登用の才があったようで、後の徳川慶喜を取り立てたり、水野忠邦を重用しています。その後の将軍職の混迷の始まりとなるようで、評価されていませんが、その実像を探ります。
徳川家慶がしたことは?大御所家斉に押さえられた第12代将軍の生涯
寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生まれます。
天保8年(1837年)に長兄が早世したので、45歳で将軍職となります。
天保12年(1841年)四男・家定を将軍継嗣に決定しました。唯一残された後継者なので仕方がないと考えます。
老中首座の水野忠邦を重用し、天保の改革を行わせた。高野長英や渡辺崋山などの蘭学者を弾圧しました。(蛮社の獄)
嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ、その対策に追われる中で薨去。享年61歳でした。
「徳川家慶」凡庸な江戸幕府第12代将軍は人事と時勢を見極める天才!? | 戦国ヒストリー https://t.co/B7H9NbPuvz
— 初級日本歴士 (@Wdv1KJuMriZWjtU) April 3, 2021
徳川家慶がしたことは?大御所家斉に押さえられた第12代将軍の評価
徳川家慶の業績としては直接何かをしたということは残っていません。しかも当時の批評もあんまり芳しいものではありません。
仕方がないでしょう、将軍になっても4年ぐらいは大御所が勝手に仕切っていたので、政策を行う方法がなかったのです。
そんなことから、将軍になっても何にもできないという状況でした。
しかしながらその判断力は評価すべきものが相当あります。特に人事評価は非常に優れています。現代でも通用するのではないでしょうか。
いくつか事例を挙げると納得できると思います。
1.大御所家斉の死後、それまで家斉の側近をすべて排除した。
2.老中首座の水野忠邦を重用して、天保の改革を実行させた。
3.結果的に天保の改革は失敗となることが判明してくると、若手の阿部正弘を重用し政策にあたらせた。
4.何かと過激な尊王攘夷派の水戸藩主徳川斉昭を謹慎処分とした。
5.徳川斉昭の七男、後の徳川慶喜を評価し一橋家を相続させた。その後も何かと慶喜に目をかけています。病弱な自身の後継者の家定よりも評価してようです。
残念ながら、ペリー来航の真っ最中に、暑さと心労のため急逝したことが悲劇の始まりです。
徳川幕府にとっては、結果としては後継者に家定になったことがその後の混迷の始まりとなります。
以上のように、その部下の判断についてはとても的を得ています。残念なのは自身の後継者を家定に決めたことです。
自身の家系で唯一残された後継者ですので仕方がなかったようですし、それまでのように部下を適切に配置しておけば、幕政を回せると思ったことでしょう。
しかし、時代があまりにも変転する時代では家定では乗り切れなかったことでしょう。
城郭オタクの一言!皆さん近代大河「晴天を衝け」を見てますか。日本国を思って烈公徳川斉昭公が行った軍事訓練は幕府から別の思いで見られ謹慎を命じられます。そんな中七郎麻呂は一橋家への養子となることが決定し、七郎麻呂は12代将軍徳川家慶の慶の字を貰い徳川慶喜と名乗ります。(後ろへ) pic.twitter.com/h5OUQlv2l6
— まちたつ (@QOa2FRaFWLkv9ct) February 17, 2021
徳川家慶がしたことは?大御所家斉に押さえられた第12代将軍の評価のまとめ
第12代将軍徳川家慶の生涯と業績について簡単にまとめてみました。
ご覧のように将軍としての期間は15年ほどですが、そのうち4年ぐらいは実質的な業績を上げることができませんでした。
その短い中でも、制約がある中でも、人の評価を見る目は優れており、適才を配したといえると思います。
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