幕末の長州藩と言えば久坂玄瑞又は高杉晋作を第一に挙げられる方が多いでしょう。久坂玄瑞は身長も180㎝ぐらいの偉丈夫でイケメンだったと言われています。
しかし禁門の変(蛤御門の変)で僅か24歳にして亡くなっています。その鮮やかな行動が、後に続く志士たちに影響を与えたことは確かでしょう。
久坂玄瑞の生い立ちを簡単に説明すると
久坂玄瑞は天保11年(1840年)長門国萩平安古本町、今でいう山口県萩市に藩医久坂良迪の三男として生まれています。しかし、家庭環境は不幸でした。
次男は早世、14歳の時母を亡くし、翌年兄と父を続けて亡くして孤独になってしまいます。そして藩の医学所に住み込むこととなります。
久坂玄瑞松下村塾に入門する。
16歳の頃九州遊学の際、勧められて、吉田松陰の門に入ります。吉田松陰は入門に際して久坂を何度か試してみたようです。松下村塾では高杉晋作と競わせて、両者は双璧と言われるほどになります。
吉田松陰も周長第一と認めるほど惚れんでしまっています。また、見栄えも身長180㎝ぐらいの大男でイケメンだったようで、吉田松陰は自分の妹を嫁がせます。もっとも玄瑞はあまり乗り気ではなかったようですが。
久坂玄瑞、長州藩の尊皇攘夷の中心人物となる
文久元年(1861年)頃から長州藩の尊王攘夷運動の中心者となります。公武合体派の長井雅楽と激しい論争を展開しております。そして最終的には藩論を尊王攘夷にまとめあげます。
しかしこの頃の玄瑞の論調は尊王攘夷と言ってもまだ穏健なものでした。そのため、過激な高杉晋作とは衝突もしています。
久坂玄瑞、京にあって尊王攘夷活動に活躍する
文久3年(1863年)1月には京にあって、一時は朝廷の指導権を握り攘夷決行を決めさせることになります。4月、5月には外国船への砲撃のため一時帰国していますが、長州藩の攻撃態勢の欠陥が浮き彫りとなります。
取り敢えず長州藩は攘夷の先駆けとなったので、長州藩としては面目を施すことになります。しかし、その後玄瑞が京にいる間に、アメリカ、フランスから報復攻撃を受けることになります。
またこの間に、幕府が攘夷をしないのを利用して、だんだん朝廷による御親征の名分を建てようとします。すなわち討幕姿勢に傾いてくるわけです。
しかしながら、この危険な兆候は幕府に察知され、会津、薩摩、公武合体派公卿は、急進尊王攘夷派を追放します。これが8月18日の政変と言われているものです。これによって京の親長州藩勢力は一掃されます。
せっかく長州藩が築いてきた朝廷での地位は瓦解するわけです。この対応策と回復を図るため玄瑞は京に留まることになります。そのため、藩で沸き起こる武力で京に進行する藩論を押さえていました。
長州藩
攘夷決行したのは久坂玄瑞率いる光明寺のを中心とする過激勢力であった。
とにかく外国船を砲撃する小攘夷で固まっていたのだろうな。#長州 #攘夷 #久坂玄瑞 #光明寺党 pic.twitter.com/y7arzIf4dp— かいもうし (@mtoshi88230) September 3, 2021
久坂玄瑞の禁門の変における行動と最期
翌元治元年(1864年)島津久光、松平春嶽、伊達宗城の有力大名が京を離れる好機が到来します。この機会を狙って京への進軍を藩に要請します。
この時期に池田屋事件の報が入り、報復のための諸隊が京に進軍します。
玄瑞は長州藩の名誉回復の嘆願書を朝廷に奉り長州藩の本隊の入京の準備を図ります。しかしこの動きを察知して、幕府の声がかりで薩摩藩兵をはじめとする諸藩が京に集まってきます。
男山八幡宮の本営で長州藩の会議が開かれます。
玄瑞の立場は、そもそも今回は藩の名誉回復のための進軍であってこれで戦闘が起こるようでは趣旨が合わない。しかも10倍もの相手と対峙すれば、その目的も達成できない。
少なくとも本隊が来るまでは待つべきと主張しますが、来島、真木の2人はむしろ玄瑞を卑怯者となじり、進軍してしまいます。このため、他の隊に引きずられるように進軍するしか手はなかったようです。
結果として御所に進軍しますが、到着した時には来島隊はすでに総崩れとなっています。玄瑞は堺町御門を突破しようとしますが、越前藩に阻止されます。
鷹司輔煕に朝廷への要請を頼むため、鷹司邸に入りますが、輔煕に拒絶されます。そのうち隊は総崩れになり、邸も火災がおこります。玄瑞はもはやこれまでと、寺島忠三郎と刺し違えて自害します。享年25です。
京都御苑に散歩 御所は木々、鳥達がいっぱいです。
今は静かな朝ですがここで「蛤御門の変」が起きたのです。 pic.twitter.com/iyiDDJ1G0G— マクロミューロ (@macromu) September 9, 2021
久坂玄瑞の辞世の句はどのようなものか
久坂玄瑞が自害した時の、辞世の句として次のものが残されています。
時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起
(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
この歌は、こんな故事があるそうです。ある村に兄弟がいて、弟はいつも芋を掘っては、おいしいところを兄に、残りを自分が食べていたそうです。
ところがそんな思いは兄には伝わらず、弟はさぞかしおいしいところを食べていると邪推し、弟を殺してしまいます。しかしその弟の腹から出てきたのは、芋のつるばかりでした。
これで初めて目が覚めて兄は許しを請いますがもう元には戻りません、そしてホトトギスに変わって、血を吐いて泣くようになったとのことです。
玄瑞は、まだやるべきことがあったのに、しかも、この禁門の変に関しては、作戦上も、不満なまま押し切られて不本意な出陣になってしまったのです。そんな思いが残されたのではないでしょうか。
元治元年の今日(7月19日)、禁門の変が勃発。この戦いはたった1日で勝敗が決してます。京都に攻め入った来島又兵衛は早々に自害。久坂玄瑞も御所に攻め入り、鷹司輔煕に朝廷との仲介をお願いしますが、輔煕はこれを拒絶。結局久坂は鷹司邸内で自刃。写真はその鷹司邸跡と、久坂らが攻め入った堺町御門 pic.twitter.com/sAmLNAdg0D
— 幕末ジャーナリスト(新選組検定事務副長) (@kuni_s47) July 19, 2021
久坂玄瑞とはどんな人かその辞世の句は。長州藩の維新の魁のまとめ
長州藩の中では人気随一と言われている久坂玄瑞の人生とその辞世の句を紹介してきました。久坂玄瑞は、天才と言われた吉田松陰がほれ込むほどの嘱望された人材でしたが、その才を国づくりに生かすことなく、道半ばで倒れてしまいます。
しかしながら、その行動力は後から続くものの良い手本、憧れになったことでしょう。西郷隆盛も久坂玄瑞のことを激賞しています。
しかしながら、凡人の私にはどうしても気になることがあるのです。
一般に、尊王攘夷派の発想で気になるのは、世の中に国づくりを考えるなら。①理想の国家概念、②理想の国家組織、③現体制の破壊または改質方法、④敵への対処方法、⑤敵と味方の判別、を考えるべきだと思います。
ほとんどの尊王攘夷派の発想は①と⑤ぐらいしか見られないことです。このため、やたらに敵と見れば襲うパターンでテロが発生するのです。
玄瑞はその中にあっては、④まで考えられた人だと思います、もう少し経験を積めば③、②まで行けたのにと思い残念に思っています。
コメント