久坂玄瑞は、吉田松陰に高く評価され、高杉晋作と並ぶ長州藩の若き志士として幕末政局を動かし、禁門の変で生涯を閉じた人物です。
数え年25歳、満年齢では24歳という早すぎる死でした。約180cmとも伝わる長身から「イケメンだったのか」と関心を集める一方、「辞世の句」として知られる時鳥の歌には、実は少し注意して読みたい点もあります。
久坂玄瑞とはどんな人?生い立ちから松下村塾まで
久坂玄瑞(くさか・げんずい)は、幕末の長州藩で尊王攘夷運動を主導し、吉田松陰から「防長年少第一流の人物」と高く評価された志士です。
高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれたことでも知られています。山口県立山口図書館も、久坂玄瑞を「25歳没」「高杉晋作とともに村塾の双璧」と紹介しています。山口県立山口図書館
久坂玄瑞は天保11年(1840年)、長門国萩平安古本町、現在の山口県萩市に藩医・久坂良迪の三男として生まれました。
幕末の長州藩といえば、高杉晋作や木戸孝允の名がよく知られていますが、吉田松陰が生前にとりわけ大きな期待を寄せていた若者の一人が、この久坂玄瑞でした。
幼くして家族を次々に亡くす
玄瑞の少年時代は、決して恵まれたものではありません。
次男は早世し、玄瑞自身も14歳の時に母を亡くし、その翌年には兄、さらに父を相次いで亡くしました。
若くして家族を失い、久坂家を背負わなければならなくなったのです。
その後、藩の医学所で学び、住み込みで勉学を続けます。
もともとは藩医の家に生まれた青年ですから、そのまま歩めば医者として一生を過ごした可能性もあったでしょう。
しかし幕末という時代が、玄瑞を医学だけの世界にはとどめませんでした。
私はここに久坂玄瑞という人物を見るうえでの最初のポイントがあると思います。
玄瑞は、生まれながらの武闘派だったのではありません。学問をし、世の中を考え、その結果として政治運動へ深く入っていった人物だったのです。
久坂玄瑞が松下村塾へ入門
16歳頃、九州へ遊学した玄瑞は多くの人物と交流し、その中で吉田松陰に学ぶことを勧められました。
やがて松陰の門をたたき、松下村塾に入ります。
ただし松陰は、最初から玄瑞をただ褒めて迎えたわけではなかったようです。
互いに議論を交わし、玄瑞の考えを試しながら、その人物を見定めていきました。
その結果、松陰は玄瑞の才能を非常に高く評価するようになります。
高杉晋作と競わせるように育て、二人はやがて「松下村塾の双璧」と呼ばれるまでになりました。
高杉晋作が強烈な個性と突破力を持つ人物であったのに対し、玄瑞には論理を組み立て、藩論や政治の方向を変えていこうとする力がありました。
この二人を競わせた松陰の教育は、実に興味深いものがあります。
一人を一方的に持ち上げるのではなく、互いを刺激しながら成長させたのでしょう。
吉田松陰の妹・文と結婚
吉田松陰は玄瑞を高く評価し、安政4年(1857年)には妹の文と玄瑞を結婚させています。
萩市の年譜にも、この結婚が記録されています。萩市公式サイト
もっとも、玄瑞は最初からこの縁談に積極的だったとは言い切れないようです。
それでも松陰にとって、自分の妹を託してもよいと思うほど玄瑞が将来を期待した人物であったことは確かでしょう。
松陰亡き後も、玄瑞はその遺志を受け継ごうとしました。
萩市の資料によれば、松陰の刑死後には門下生をまとめ、松陰の遺著を読み、その写本を作る活動も行っています。萩市公式サイト
つまり玄瑞は単なる「松陰の弟子」ではなく、松陰亡き後の思想を次の世代へつなごうとした中心人物の一人だったのです。
久坂玄瑞はイケメンだった?身長180cm説と肖像の注意点
久坂玄瑞は約六尺、現在の約180cmほどの長身だったと伝えられ、堂々とした体格と美声の持ち主だったという人物像が残っています。
そのため現在でも、「久坂玄瑞はイケメンだったのか」という検索が少なくありません。
幕末当時の日本人男性として180cm前後という身長であれば、かなり目立つ体格だったでしょう。
長身で恰幅がよく、声も大きく美声であったとする伝承があります。
こうした記述を見ると、現代風に「イケメン志士」と紹介されるのも理解できます。
ただし、ここには一つ注意しておきたいことがあります。
有名な久坂玄瑞の肖像は本人の写真ではない
インターネットや書籍で久坂玄瑞としてよく目にする肖像がありますが、久坂玄瑞本人を撮影した確実な写真は現存していないとされています。
山口県立山口博物館の研究報告では、広く流布している玄瑞の肖像について、玄瑞の遺児・秀次郎をモデルにした肖像画とされていること、さらに松下村塾門下の渡辺嵩蔵が久坂本人ではないとしたとの伝聞も紹介されています。山口県立美術館
ですから、
「この顔が久坂玄瑞本人で、間違いなくイケメンだった」
と断定してしまうのは慎重であるべきでしょう。
一方で、約六尺の長身であったという伝承などから、堂々とした青年だったことは想像できます。
私は、この点を区別しておくことが歴史人物を見るうえで大切だと思います。
「容姿が立派だったという人物評」と「現在流布している肖像が本人そのものか」は別の問題なのです。
ドラマや小説では外見も含めて魅力的に描かれますが、史料として確認できることと、後世のイメージとは分けて楽しむほうが、かえって人物像が立体的になります。
久坂玄瑞はなぜ尊王攘夷の中心人物になったのか
久坂玄瑞は文久元年(1861年)頃から長州藩の尊王攘夷運動で存在感を強め、長井雅楽の航海遠略策に反対して藩論転換を進めました。
当時の長州藩では、すぐに外国勢力と戦うのではなく、幕府を中心とした体制の中で国力を養おうとする考え方もありました。
その代表的な人物が長井雅楽です。
玄瑞はこの考えと激しく対立しました。
文久元年、長州藩では長井雅楽の「航海遠略策」が重要な政策として採用されます。
しかし玄瑞は強く反対し、翌年にかけて藩論を「破約攘夷」へ転換する運動に力を注ぎました。
萩市の資料でも、玄瑞が長井雅楽の政策に反対し、周布政之助らを動かしながら藩論を破約攘夷へ転換していった経緯が紹介されています。萩市公式サイト
最初から無謀な戦争を望んでいたわけではない
ここで少し意外なのは、この頃の玄瑞を単純な「何でも外国人を追い払えばよいという過激派」とだけ見ると、後の行動を理解しにくくなることです。
玄瑞は尊王攘夷を主張しましたが、政治情勢や戦力差を考える面も持っていました。
後の禁門の変でも、玄瑞は相手の兵力を考え、時期尚早の進軍に反対しています。
つまり、思想は急進的でも、実際の行動では状況を読み、勝算を考える一面があったのです。
ここが高杉晋作などと比較して玄瑞を考える際の興味深いところでしょう。
京都で尊王攘夷運動を進める
文久3年(1863年)、玄瑞は京都で政治活動を活発化させます。
この頃、長州藩をはじめとする尊王攘夷派は朝廷内部で大きな影響力を持つようになり、攘夷実行を幕府に迫っていました。
玄瑞もその中心で動きます。
そして長州藩は、下関海峡を通過する外国船への砲撃を行いました。
玄瑞も一時帰国し、この攘夷戦にかかわっています。
長州藩は「攘夷を実行した藩」として尊王攘夷派の間で存在感を示しました。
しかし、現実の戦争は思想通りには進みません。
アメリカやフランスなどから報復攻撃を受け、外国との軍事力の差が明白になっていきました。
幕末史を見るうえで、この経験は非常に大きな意味を持っています。
「外国を追い払う」と口で唱えることと、近代的な艦砲を備えた欧米諸国と実際に戦うことは、まったく別だったからです。
玄瑞たちはその現実を、理屈ではなく実戦で知ることになります。
元記事で紹介していた2021年9月3日のX投稿でも、投稿者「かいもうし(@mtoshi88230)」氏が、久坂玄瑞ら光明寺党を中心とする勢力と長州藩の攘夷決行について触れていました。
こうした現地史跡や資料を追っていくと、教科書の「尊王攘夷」という四文字の裏に、若い志士たちの試行錯誤があったことが見えてきます。
八月十八日の政変で長州藩は京都から追われる
玄瑞らは、幕府が十分な攘夷を実行しないことを批判し、朝廷を中心に政治を動かそうとしていきます。
しかし、この動きを危険視する勢力も当然ありました。
会津藩、薩摩藩、公武合体派の公卿らが動き、文久3年の八月十八日の政変で長州藩と尊攘派公卿は京都政界から排除されます。
それまで長州藩が築いてきた朝廷内での地位は、一気に失われました。
玄瑞にとって大きな挫折です。
その後、長州藩内では、
「武力をもって京都へ進み、名誉を回復すべきだ」
という強硬論が強まっていきます。
玄瑞は京都で長州藩の立場を回復しようと努める一方、安易な武力進軍には慎重でした。
この姿勢は、後の禁門の変を見るうえで非常に重要です。
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久坂玄瑞は禁門の変でなぜ死んだのか
久坂玄瑞は元治元年(1864年)の禁門の変で長州軍の京都進軍に加わり、敗走の末に鷹司邸で寺島忠三郎とともに自害しました。
元治元年、京都の政治情勢が再び動きます。
島津久光、松平春嶽、伊達宗城ら有力者が京都を離れたことで、長州藩内には失地回復の好機と見る空気が生まれました。
さらに池田屋事件で長州系の志士らが新選組に討たれたとの知らせが入り、藩内の怒りは一段と高まります。
長州の諸隊は次々に京都方面へ向かいました。
玄瑞は長州藩の名誉回復を求める嘆願書を朝廷へ提出し、まず政治的な働きかけによって状況を変えようとします。
しかし長州側の動きを警戒し、幕府側も諸藩の兵を京都に集結させました。
薩摩藩、会津藩、越前藩などが守りを固めます。
男山八幡宮で玄瑞は進軍に反対した
この時、男山八幡宮の本営で長州側の会議が開かれました。
玄瑞は進軍に慎重でした。
もともとの目的は長州藩の名誉回復であり、朝廷へ嘆願することです。
ここで大規模な戦闘を起こしてしまえば、かえって長州藩の立場を悪化させます。
しかも幕府側は圧倒的に兵力が多い。
玄瑞は、
- 今回の目的は戦争ではなく名誉回復である
- 圧倒的に多数の敵と戦えば目的を達成できない
- 少なくとも長州藩本隊が到着するまでは待つべきである
という趣旨で進軍に反対しました。
しかし、来島又兵衛や真木和泉らの強硬派は進軍を主張します。
玄瑞は卑怯者とまで非難され、強硬派を止めきれませんでした。
ここは久坂玄瑞の人生で最も皮肉な場面の一つだと思います。
一般には玄瑞も「禁門の変を起こした長州の急進派」とまとめて語られがちです。
しかし実際には、開戦直前の玄瑞は強行進軍の危険を理解していたのです。
萩市が紹介したNHK番組資料でも、幕府側の兵力は長州側の10倍以上とされ、玄瑞が援軍を待つべきか、強行突破するべきか苦悩したことが取り上げられています。萩市公式サイト
堺町御門から鷹司邸へ
結局、他隊が進軍した以上、玄瑞も行動せざるを得なくなりました。
御所へ向かいますが、到着した頃には来島隊はすでに崩れていました。
玄瑞は堺町御門から突破しようとしますが、越前藩兵などに阻止されます。
そこで関白を務めた鷹司輔煕を頼り、朝廷への取りなしを求めるため鷹司邸へ入りました。
しかし要請は受け入れられません。
長州軍は総崩れとなり、周囲には火の手が上がりました。
玄瑞は負傷し、もはや脱出も難しい状況となります。
そして寺島忠三郎とともに鷹司邸で自害しました。
元治元年7月19日、現在の暦では1864年8月20日にあたります。
数え年では享年25、満年齢では24歳です。
萩市の資料にも、玄瑞が禁門の変で負傷し、燃える鷹司邸で寺島忠三郎と自害したことが記されています。萩市公式サイト
元記事で紹介していた2021年9月9日のX投稿では、「マクロミューロ(@macromu)」氏が京都御苑を訪れ、現在は木々や鳥に囲まれて静かな場所である一方、かつてここで蛤御門の変が起きたことを紹介していました。
現在の京都御苑を歩くと、この静かな場所でわずか一日の激戦があり、多くの人々が命を落としたことが想像しにくいほどです。
だからこそ、史跡を訪ねる意味があるのでしょう。
久坂玄瑞の辞世の句は?意味と「本当に辞世なのか」を解説
久坂玄瑞の辞世の句として最もよく知られているのは、「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起」という歌です。
読み下すと次のようになります。
時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起
(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
一般的には、
「血を吐くように鳴く時鳥の声を知っているのは、有明の月のほかには誰もいない」
という意味に読まれています。
転じて、
「自分の志や苦しみを、本当に知る者は誰もいない」
という孤独な心情を表した歌として紹介されることが多いのです。
時鳥が「血に鳴く」とはどういう意味か
元記事では、この歌を理解するための話として、時鳥にまつわる故事を紹介しました。
あるところに兄弟がいました。
弟は芋を掘ると、おいしい部分を兄へ渡し、自分は残った部分を食べていたといいます。
ところが兄は弟の好意に気づかず、
「弟のほうが、もっとおいしい部分を隠れて食べているのではないか」
と疑ってしまいました。
そして弟を殺してしまいます。
ところが弟の腹を調べると、出てきたのは芋のつるのような粗末な部分ばかりでした。
兄はそこで初めて、自分が弟の優しさを誤解していたことに気づきます。
しかし、どれほど後悔しても弟は戻りません。
やがて兄は時鳥となり、血を吐くように鳴き続けた――という類の伝承です。
時鳥と「血を吐いて鳴く」という表現には、中国や日本の古典文学にもさまざまな伝承があります。
玄瑞の歌も、そうした文化的背景を踏まえて読む必要があります。
禁門の変の無念と重ねて読むと胸に迫る
玄瑞は禁門の変で、最初から無謀な進軍を望んでいたわけではありません。
むしろ兵力差を考え、本隊を待つべきだと主張していました。
しかし強硬論を止められず、結果的に戦いへ引きずり込まれました。
そして朝廷への嘆願もかなわず、25歳で命を絶つことになります。
そう考えると、
「自分の本当の思いを知る者はいない」
という歌の世界が、その最期と驚くほど重なります。
そのため、この歌が玄瑞の「辞世」として人々の記憶に残ったことも理解できます。
実は自害直前に詠んだ歌とは限らない
ただし、ここはぜひ知っておきたい点です。
この時鳥の歌は、一般に久坂玄瑞の「辞世の句」として紹介されていますが、自害の直前に詠んだ歌と断定できるわけではありません。
久坂玄瑞の詩文を集めた『江月斎遺集』は、明治10年(1877年)に久坂道明によって刊行され、現在も国立国会図書館や早稲田大学などに所蔵されています。Waseda University Library+1
同書の和歌を整理した資料では、この「郭公」の歌は文久元年(1861年)、玄瑞が22歳頃に詠んだ歌として紹介されています。朝日ネット
もしこの整理に従うなら、禁門の変で亡くなる約3年前の作品ということになります。
これは久坂玄瑞の辞世の句を調べる際に、とても重要なポイントです。
「禁門の変で死を前にして詠んだ最後の一首」
と考えるよりも、
もともと若い頃から玄瑞の中にあった孤独感や志の強さを示す歌が、後の壮絶な最期と重なり、辞世として広く受け取られるようになった
と見るほうが慎重でしょう。
私はむしろ、そのほうが玄瑞という人物を深く感じられるように思います。
22歳頃に「自分の声を知る者はいない」という歌を詠み、その数年後に政治の渦中で孤立し、思い通りにならない戦いの中で命を落とす。
後世の人がその歌に彼の最期を重ねたのも無理はありません。
元記事で紹介した2021年7月19日のX投稿では、「幕末ジャーナリスト(新選組検定事務副長)(@kuni_s47)」氏が、禁門の変が元治元年7月19日に起こり、久坂玄瑞が鷹司輔煕に朝廷との仲介を求めたものの拒まれ、鷹司邸内で自刃したことを、鷹司邸跡や堺町御門の写真とともに紹介していました。
歌だけを切り離して読むより、その最期までの経緯を知ってから読むと、感じ方はずいぶん違ってくるでしょう。
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久坂玄瑞の行動は明治維新に何を残したのか
久坂玄瑞は明治維新を見ることなく亡くなりましたが、吉田松陰の思想を受け継ぎ、長州藩を尊王攘夷へ動かした点で、維新の流れをつくった人物の一人といえます。
長州藩の人物の中でも、久坂玄瑞は現在なお人気の高い志士です。
吉田松陰から高く評価され、高杉晋作と並ぶ若き俊才でありながら、才能を新政府づくりに生かすことなく亡くなりました。
もし玄瑞があと数年生きていたなら、木戸孝允や高杉晋作らとどのような関係を築き、長州藩をどの方向へ導いていたのだろうか。
幕末史を読むと、どうしてもそんな想像をしてしまいます。
西郷隆盛が玄瑞を高く評価したという逸話も伝えられています。
それだけ後世の人々に、
「生きていれば、さらに大きな仕事をしたのではないか」
と思わせる人物だったのでしょう。
私が久坂玄瑞に感じる惜しさ
ここからは私見です。
私は久坂玄瑞の生涯を読むたび、「あと数年経験を積む時間があったなら」と感じます。
一般に国家をつくり直そうとするなら、少なくとも次のような段階を考える必要があります。
- どのような国家を理想とするのか
- その国家をどのような組織で動かすのか
- 現在の体制をどのように改めるのか
- 外国や敵対勢力にどう対処するのか
- 誰を味方とし、誰と対立するのか
幕末の尊王攘夷運動を見ていますと、初期には「理想」と「敵味方の区別」が先行し、具体的な制度づくりや外交政策まで十分に考えられていない例が少なくありません。
そのため、ともすれば「敵と見れば排除する」という行動に向かい、暗殺や焼き討ちなど激しい事件が繰り返されました。
もちろん、現代の穏やかな環境から当時の若者を簡単に裁くべきではありません。
彼らが生きた時代は、欧米列強が東アジアへ進出し、幕府の権威も揺らぎ、日本そのものの将来が見通せない時代でした。
しかし、それでも玄瑞の行動を見ると、単なる感情的な急進派ではなかったことが分かります。
特に禁門の変の直前、兵力差と政治目的を考えて進軍に反対したことには注目すべきでしょう。
玄瑞は少なくとも、
「戦えばよいのではない。目的を達成するために、戦うべき時と戦わない時がある」
というところまで考えていたように見えます。
私は、この点に玄瑞の可能性を感じます。
もし生き延びて外国の軍事力をさらに学び、長州藩が四国連合艦隊との戦いや幕長戦争を経験する過程まで見届けていたなら、攘夷という思想を現実の外交や国家制度へ組み替えていったかもしれません。
もちろん歴史に「もし」はありません。
しかし久坂玄瑞の早すぎる死が惜しまれるのは、単に若くして亡くなったからではなく、思想家から実際の政治家へ変化していく途中で人生が途切れたように見えるからではないでしょうか。
「過激な志士」だけで片づけると久坂玄瑞を見誤る
久坂玄瑞について調べていくと、
「尊王攘夷の急進派」
「外国船を砲撃した人物」
「禁門の変で自害した人物」
という言葉が並びます。
どれも間違いではありません。
ただ、それだけでは玄瑞の半分しか見えてこないと思います。
幼くして家族を失った少年であり、医学を学んだ青年であり、詩や和歌を好み、吉田松陰と議論し、妻の文へ手紙を書き、高杉晋作と競い合った人物でもありました。
政治思想も一枚岩ではありません。
尊王攘夷を唱えながら、禁門の変では無謀な開戦に反対しました。
「攘夷の先頭に立った人物が、最後には戦うことを止めようとしていた」
この矛盾のように見える部分こそ、久坂玄瑞の人物像を理解する鍵ではないかと私は考えます。
人は経験によって考えを変えます。
幕末の志士も、最初から完成した思想を持っていたわけではありません。
その変化の途中を読むことこそ、歴史を学ぶ面白さなのでしょう。
久坂玄瑞とはどんな人か、辞世の句と最期のまとめ
久坂玄瑞は、天保11年(1840年)に長州藩の藩医の家に生まれ、若くして吉田松陰の松下村塾に入りました。
高杉晋作と「双璧」と呼ばれ、松陰から将来を高く期待され、松陰の妹・文と結婚します。
文久年間には長州藩の尊王攘夷運動を主導し、長井雅楽の航海遠略策に反対して藩論の転換に力を尽くしました。
その後、京都政局で活動し、下関での外国船砲撃にもかかわります。
八月十八日の政変で長州藩が京都から追われると、その名誉回復に奔走しました。
そして元治元年(1864年)の禁門の変では、圧倒的な兵力差を理由に進軍へ慎重な姿勢を示しながらも強硬派を止められず、戦いに加わることになります。
最後は鷹司邸で寺島忠三郎とともに自害しました。
享年25、満24歳でした。
久坂玄瑞が「イケメン」と言われる背景には、六尺ほどとも伝わる長身や堂々とした人物評があります。
ただし、現在よく知られる肖像は本人を直接撮影した写真ではないため、顔立ちについては後世のイメージと史実を分けて考える必要があります。
また、
「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起」
という歌は久坂玄瑞の辞世として非常に有名ですが、資料上は文久元年頃の作とされるため、禁門の変の直前に詠んだ「最後の歌」と断定するのは慎重であるべきでしょう。
それでもこの歌が辞世として語り継がれてきたのは、「理解されない志を抱えた孤独」という歌の世界と、玄瑞の悲劇的な最期があまりにもよく重なるからなのだと思います。
玄瑞は明治維新の完成を見ることができませんでした。
しかし、吉田松陰から受け取った思想を行動へ移し、長州藩を動かし、後に続く人々へ強烈な印象を残しました。
まさに、維新の完成者というよりも、維新へ向かう道を切り開いた「魁」の一人だったのでしょう。
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よくある質問
久坂玄瑞は何をした人ですか?
久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作と並ぶ俊才として知られた長州藩士です。
尊王攘夷運動を推進して長州藩の政治方針に大きな影響を与え、京都でも活動しました。元治元年(1864年)の禁門の変に参加し、鷹司邸で自害しています。
久坂玄瑞は本当にイケメンだったのですか?
約六尺、現在の約180cmほどの長身で堂々とした体格だったという伝承があり、美声だったとも伝えられています。
そのため「イケメン志士」と紹介されることがありますが、本人を撮影した確実な写真は残っていません。現在有名な肖像を、そのまま本人の顔と断定することはできません。
久坂玄瑞の辞世の句は何ですか?
一般に久坂玄瑞の辞世として知られるのは、
「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起」
です。
「ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき」と読みます。
ただし、この歌は文久元年頃に詠まれた作品として整理されており、禁門の変で自害する直前に詠まれた歌とは限りません。
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