これから「青天を衝け」も渋沢栄一の京での活躍が描かれます。
渋沢栄一の一橋家家臣時代、平岡円四郎に見いだされ、徳川慶喜に仕えるようになったことから、転機となり、大きく飛躍することになります。その時の様子を調べてみました。
渋沢栄一の転機、一橋家家臣になったいきさつ
元治元年(1864年)渋沢栄一はその頃尊王攘夷思想にかぶれて高崎城を襲撃する計画を親戚と立てていました。
それの計画が失敗し未遂に終わると幕府からの追求が及ぶのを恐れて、京に逃亡することになります
。以前一橋家の家臣であった平岡円四郎と知己を得ていたので、家臣と称して京へ向かうことになります。その時に作成した漢詩が残っています。
入京 京に入る
行行五十有三程 行き行きて53程(みちのり)
難奈歸心寸寸生 いかんともし難し帰心寸寸(少しずつ)生ずるを。
風雨蕭然逢坂路 風雨蕭然(ものさびしく)逢坂の道
滿襟紅淚望神京 襟に満つ紅涙神京を望む。
京都に入る滋賀との境の逢坂で読んだ詩でしょうが、なんとも不安げで頼りない様子が見えていますね。それはそうでしょう、へたをすれば指名手配になって捕まってしまうかもしれませんから。
国家転覆罪ですから死罪になっても仕方がないでしょう。
それでも一橋家の家臣というのが幸いして何とか京に入りました。そして無事に平岡円四郎に会うことができたようです。
一説では、平岡円四郎のところに既に幕府からお尋ねが来ていて、渋沢栄一が家臣にならないと、命の保証はないと提案してくれたそうです。
本当にありがたい人です。一橋家に人材を集める必要があったせいもありますが、それだけ、渋沢を見込んだということです。
渋沢栄一の転機、一橋家家臣としての活躍
一橋家は御三卿と言って将軍を出すことができる家系なのですが、領地は各地に点在していて、まとまったお城があるわけではありません。
そんなことから、家臣も寄せ集めのような存在なので、まずは人材登用ということで各地から人材募集に奔走します。これについてもかなり成果を上げたようです。
ところが同じ年に平岡円四郎が暗殺されてしまいます。まことに残念なことでした。
🔵第11回より登場
<#青天を衝け 登場人物>
慶喜の側近・平岡円四郎の部下として柔軟に動き、鋭い目つきで情報収集に努める。江戸の酒場で見かけた、威勢のいい栄一と喜作に最初に目を付けた。攘夷派から命を狙われる円四郎のそばに付き、護衛を務める。 pic.twitter.com/CVHi8vIJ96
— 【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 (@nhk_seiten) April 24, 2021
それから渋沢栄一は相変わらず人材募集に駆け回るほか、商才を生かして、一橋家の家計の切り盛り、収入の増加を図るべく活躍するのです。これによって、かなりの成果を上げたとみられています。
「回想すれば一橋家へ仕官してより既に二カ年半の歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦計営(経営)していささか整理に立至った兵制、会計等の事も、皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった」(『雨夜譚』)
このように、相当成果については自信を持っていたようです。
こうして栄一は一種なしくずしに「一橋家の家臣」という身分から「幕臣」になってしまいます。普通なら、さらに大喜びのはずです。
自分の属している中小企業がいきなりグループのホールディングになったようなものですから、意気盛んになるはずですが、その当時はそうとも言えないのです。
「陸軍奉行支配調役(しらべやく)」という御目見(おめみえ)以下の者の命じられる役向きとなってしまいます。
今まで社長(慶喜)に直言できていたものが、組織が大きくなったので、本人は出世したことになりますが、社長がはるか遠くに行ってしまうことになるのです。
お目見え以下ですから、誰かに取り次いでもらうしかなくなってしまうことになります。これは栄一としては面白くも何ともない役職でしかない。物事には良いこともあれば悪いこともあるということです。
これで、栄一はこの職を辞めようかとも考えたそうです。幕府の存在ももはや危なくなっていることから、一緒に沈むのは嫌だと考えたかもしれません。
ところがここに転機となる二段目のロケットが仕組まれていたのです。
慶応3年(1867年)パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として、御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスに渡航することになります。
渋沢栄一の転機、一橋家家臣のまとめ
一橋家臣になったことが渋沢栄一の大きな転機となりました。大恩人平岡円四郎の知己を得てつかみ取ったものです。
この機会を生かした、本人の努力、才能も必要ですが、周りの引きたても必要だったわけです。
渋沢栄一の言動を見ていると、徳川慶喜につながるところがあります。
物事、幕府の行方を冷静に見据えていて、これにどのように対処するか、どれが一番良いかをかなり冷静に判断しているようです。
そこに、感情的なものがあまりに少ないのが、なんとなく残念に思うことがあります。
例えば、あれほどお世話になったはずの、平岡円四郎を評して、頭が良すぎて周りが見えすぎてと評していますが、もう少し感情移入があってよいのではないでしょうか。
また、幕府の行く末、一橋家の行く末についてもかなり見通せていて、決してこの組織に感情移入していないことも感じます。
普通の人間にあるように、お世話になったのだから最後まで付き合うというのが全く見かけられない点です。
袖振り合うのも何かの縁という発想はなく、役に立たない組織なら、さっさと見切りをつけようという感じです。現代のサラリーマン以上の冷めた見方です。
この点は、主君の徳川慶喜も全く同じで、早くから幕藩体制を崩壊させるような動きを、なるべく外からこうなってしまったという事実を作るように動いていたようにしか思えません。
お互いに、似た者同士の思考様式ですから、そんなところにも評価するところがあったのでしょう。
そんな見捨てられた一橋家、徳川幕府ですが、お人好しなことにさらに渋沢栄一の発展のきっかけとなる欧州視察を提供するのですから、あきれますよね。
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