2024年から新しい一万円札の顔となる渋沢栄一。「日本資本主義の父」として、約500もの企業の設立に関わった偉人として知られていますね。しかし、そんな彼が今の私たちと同じ20代の頃、幕府から追われる「お尋ね者」だったことをご存知でしょうか?
農民の家に生まれ、一時は国を揺るがす計画を立てた青年が、いかにして歴史の表舞台へと躍り出たのか。その裏には、一人のキーパーソンとの運命的な出会いがありました。
この記事では、渋沢栄一の人生における最大のターニングポイントである「一橋家家臣」になった経緯を、歴史が苦手な方にも分かりやすく、物語を追うように解説していきます。彼の飛躍の秘密を一緒に探っていきましょう。
この記事で分かること
- 渋沢栄一が幕府から追われる身になった理由
- 人生の恩人・平岡円四郎との運命的な出会い
- 一橋家家臣として、いかにして才能を開花させたか
- エリートの道「幕臣」になって抱えた意外な悩み
- さらなる飛躍のきっかけとなった「パリ万博」への道
渋沢栄一、若き日の過ちと逃亡劇のはじまり
尊王攘夷に燃えた青年時代と「高崎城襲撃計画」
物語の始まりは元治元年(1864年)。当時24歳だった渋沢栄一は、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という思想に深く傾倒していました。
これは、「天皇を敬い、外国を打ち払うべし」という、幕末の日本で燃え盛っていた考え方です。
血気盛んな栄一は、この思想に基づき、従兄弟の渋沢喜作(しぶさわきさく)らと共に、とんでもない計画を立てます。それは、「高崎城(たかさきじょう)を乗っ取り、武器を奪って横浜の外国人居留地を焼き討ちにする」という、まさに国家を揺るがすテロ計画でした。
しかし、この無謀な計画は、親戚の説得により決行直前に中止となります。計画は未遂に終わったものの、幕府に知れれば国家転覆罪で死罪は免れません。栄一たちは、幕府の追手から逃れるため、故郷の血洗島(ちあらいじま)を離れ、京都へ向かうことを決意したのです。
京へ…追われる身で詠んだ漢詩に込められた不安
ただ京都へ向かうといっても、栄一はただの浪人ではありません。幸いにも、以前江戸で出会い、その才能を認められていた平岡円四郎(ひらおかえんしろう)という人物の知恵を借ります。平岡は、のちの将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が当主を務める「一橋家(ひとつばしけ)」の有力な家臣でした。
栄一は平岡の家臣であると身分を偽り、なんとか追手をかわしながら京への旅を続けます。その道中、現在の滋賀県と京都府の境にある逢坂(おうさか)の関で、栄一は一首の漢詩を詠んでいます。
入京(京に入る)
行行五十有三程(こうこう ごじゅうゆうさんてい)
(歩き続けてきた東海道五十三次の道のり)難奈帰心寸寸生(きしんの すんすん しょうずるを いかんともしがたし)
(故郷へ帰りたい気持ちが少しずつ湧き上がるのを、どうすることもできない)風雨蕭然逢坂路(ふうう しょうぜん おうさかのみち)
(風雨がもの寂しく吹きすさぶ、逢坂の関への道)満襟紅涙望神京(まんきんの こうるい しんきょうを のぞむ)
(着物の襟を血の涙で濡らしながら、都である京都を望む)
「血の涙」という言葉から、故郷を捨て、捕まるかもしれない恐怖と戦いながら京を目指す、栄一の切実で不安な心情がひしひしと伝わってきますね。
人生の恩人・平岡円四郎との出会いが運命を変える
「家臣にならねば命はない」絶体絶命の栄一を救った一言
なんとか京都にたどり着いた栄一は、無事に平岡円四郎との再会を果たします。しかし、状況は予断を許しませんでした。
一説によると、平岡のもとには、すでに幕府から「渋沢栄一という者を見かけたら捕縛せよ」とのお尋ね書きが届いていたと言われています。
まさに絶体絶命。そんな栄一に、平岡は驚くべき提案をします。
「今すぐ一橋家の家臣になれ。そうでなければ、お前の命の保証はない」
これは、ただの脅しではありません。一橋家は、将軍家に世継ぎがいない場合に将軍を出すことができる「御三卿(ごさんきょう)」という特別な家柄。その家臣となれば、幕府も簡単には手出しができなくなるのです。
平岡は、栄一の過去の過ちを承知の上で、その類まれな知識と行動力、そして未来への可能性を見込んで、彼を救い出そうとしたのでした。この出会いこそ、渋沢栄一の人生における最初の、そして最大の転機となったのです。
一橋家家臣としての才能開花と悲劇
財政改革と人材登用で頭角を現す
こうして九死に一生を得た栄一は、一橋家の家臣として新たな人生をスタートさせます。
当時の一橋家は、各地に領地が点在しているものの、藩のようなまとまった拠点(お城)がなく、家臣団も寄せ集めの状態でした。そこで栄一に与えられた最初の仕事は、優秀な人材をスカウトしてくることでした。
さらに栄一は、持ち前の商才を発揮し、一橋家の財政改革にも取り組みます。領地の特産品である綿や藍の販売ルートを改善したり、経費を徹底的に見直したりと、次々に手腕を発揮。みるみるうちに家の財政を好転させ、大きな成果を上げました。
栄一自身も、のちにこの頃を振り返り、こう語っています。
「回想すれば一橋家へ仕官してより既に二カ年半の歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦経営していささか整理に立至った兵制、会計等の事も、皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった」(『雨夜譚』より)
これは後に一橋家を離れる際の言葉ですが、自分が手掛けた仕事が白紙に戻ることを「実に残念だ」と語っており、その成果に相当な自信を持っていたことが伺えます。
突然の悲劇…恩人・平岡円四郎の暗殺
順調にキャリアを積んでいた栄一ですが、仕官したその年に、悲劇が起こります。
なんと、恩人である平岡円四郎が、対立する勢力の刺客によって暗殺されてしまったのです。
自分を見出し、命を救ってくれた恩人の突然の死。栄一の悲しみは計り知れないものがあったでしょう。大河ドラマ「青天を衝け」でも、この事件は大きなターニングポイントとして描かれました。
「青天を衝け」での登場人物紹介より
ドラマでは、平岡円四郎の部下である川村恵十郎(かわむらけいじゅうろう)が、栄一たちの才能に最初に目を付けたと描かれています。円四郎の護衛も務めていた彼は、時代の荒波の中で主君を守ろうと奔走しました。こうした家臣たちの支えがあったからこそ、平岡は栄一のような新しい才能を登用できたのかもしれませんね。
最大の庇護者を失った栄一ですが、彼はここで立ち止まりませんでした。主君である慶喜からの信頼を胸に、さらに仕事に邁進していきます。
幕臣へ!栄光の裏にあった意外な苦悩と「第二の転機」
「幕臣」への昇格がもたらした、まさかのジレンマ
一橋家での活躍が認められ、ついに主君・徳川慶喜が15代将軍に就任します。これに伴い、栄一も一橋家の家臣から「幕臣(ばくしん)」、つまり徳川幕府の正式な武士へと昇格します。
農民の身から考えれば、これはとてつもない大出世です。例えるなら、子会社の有能な社員が、親会社である大企業本社の正社員に抜擢されたようなもの。普通なら大喜びするところですが、栄一は素直に喜べませんでした。
なぜなら、与えられた役職は「陸軍奉行支配調役(りくぐんぶぎょうしはいしらべやく)」という、将軍に直接会って意見を述べることができない「御目見(おめみえ)以下」の身分だったからです。
これまでは、一橋家当主である慶喜に直接会い、様々な提案ができていました。しかし、組織が巨大な「幕府」になったことで、慶喜ははるか雲の上の存在になってしまったのです。これでは自分の意見も通らない。栄一にとって、この出世はむしろ窮屈で、面白くないものに感じられました。
「いっそ辞めてしまおうか…」
傾きかけた幕府という船と共に沈むのはごめんだ、と考えたとしても不思議ではありません。
第二のロケット!パリ万博が新たな扉を開く
しかし、腐りかけていた栄一に、運命は「第二の転機」を用意していました。
慶応3年(1867年)、幕府はフランスのパリで開催される万国博覧会に、将軍の名代として慶喜の弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)を送ることを決定します。
そして、その使節団の一員として、渋沢栄一が選ばれたのです。
「御勘定格陸軍付調役」という肩書を得て、ヨーロッパの進んだ文明をその目で見ることができる、またとないチャンスでした。これが、栄一の人生をさらに大きく飛躍させる「二段目のロケット」となったのです。
まとめ:渋沢栄一の成功は「人との縁」と「時代の先を読む力」にあり
今回は、渋沢栄一が人生のどん底から一転、飛躍のきっかけを掴んだ「一橋家家臣時代」を振り返りました。
あらためて、ポイントを整理してみましょう。
- 絶体絶命の危機:尊王攘夷思想から高崎城襲撃を計画し、幕府から追われる身となる。
- 運命の出会い:一橋家家臣・平岡円四郎に才能を見出され、家臣となることで命を救われる。
- 才能の開花:一橋家で財政再建や人材登用で手腕を発揮し、主君・徳川慶喜の信頼を得る。
- 新たな転機:幕臣となり一度は挫折を感じるも、パリ万博への派遣というチャンスを掴む。
元の記事では、栄一や慶喜を「冷めた見方」をしていたと評されていますが、少し見方を変えてみましょう。
彼らの行動は、感情的な恩義に縛られるのではなく、「この国全体にとって、今、何が最善の選択か」を常に考える、極めて合理的な判断に基づいていたのかもしれません。
お世話になった組織でも、時代の流れの中で役割を終えつつあると見れば、次の一手を考える。それは「冷徹」というより、変化の激しい時代を生き抜くための「先見性」や「リアリズム」だったと言えるのではないでしょうか。
そんな「似た者同士」だったかもしれない慶喜と栄一だからこそ、深く信頼し合えたのでしょう。そして、見切りをつけられそうになった幕府が、結果的に栄一にヨーロッパ視察という未来への扉を開いたのは、なんとも皮肉で、歴史の面白いところですね。
渋沢栄一の成功は、彼の才能はもちろんのこと、平岡円四郎との出会いのような「人との縁」を掴み、それを最大限に活かす力があったからこそ。彼の生き方は、現代を生きる私たちにも多くのヒントを与えてくれます。
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