高杉晋作とるろうに剣心との接点は?維新の先駆けの実像も紹介!

歴史人物

維新の志士として人気のあるはるろうに剣心こと緋村剣心の登場に大きな役割を果たしています。その状況を詰めいするとともに、先駆けとなった高杉晋作の実像に迫ります。

高杉晋作は幕末の僅か27年の人生でしたが、長州藩にあって近代組織の奇兵隊を創設し、藩内の勢力を討幕に大きく舵を切り替えた原動力となった人です。どのような行動をとったのでしょうか。

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維新の先駆けとなった高杉晋作の人生とは

まずは、高杉晋作の人生をざっと紹介いたします。

天保10年(1839年)8月高杉晋作は長門国萩城下に生まれる。家は長州藩の上士ですので待遇は良かったようです。

嘉永5年(1852年)藩校の明倫館に入学。柳生新陰流免許皆伝

安政4年(1857年)吉田松陰主宰の松下村塾に入り松下村塾四天王と言われる。

安政5年(1858年)江戸へ遊学する。

文久2年(1862年)幕府使節随行員として中国の上海へ渡航する。

文久3年(1863年)長州藩は外国船砲撃を行うが惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられる。

文久3年(1863年)6月志願兵による奇兵隊を結成する。

文久4年(1864年)脱藩して京都へ潜伏する。帰郷するが、脱藩の罪で投獄、謹慎処分となる。

元治元年(1864年)8月、4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠される。和議交渉を任される。

元治元年(1864年)10月、保守派が台頭し福岡へ逃れる。正義派家老の処刑を聞き下関へ帰還。

元治元年(1864年)12月、長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。

元治2年(1865年)3月、藩の実権を握る。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として戦闘指揮をとる。周防大島沖で幕府艦隊を夜襲、周防大島を奪還。

艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走。その後戦況は停滞。

慶応3年(1867年)療養中に死去。享年29(満27歳8ヶ月)

誠に慌ただしい人生でしたね。27年の中にすべてが凝縮されています。

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高杉晋作とるろうに剣心こと緋村剣心との接点は

るろうに剣心との接点について紹介します。

るろうに剣心こと緋村剣心はどこかの藩に属している侍ではないので、正式に侍として活躍するわけにはいきません。

そこで、奇兵隊の募集に合わせて応募したという想定です。アニメの中に応募当時の訓練をしている場面があります。

そこで剣心の剣の腕を見込んで、高杉晋作が桂小五郎に剣の腕を使うように推薦したことになっているようです。

高杉晋作にしても桂小五郎にしても長州藩にあっては剣の腕は相当ですが、出自が上士のせいか、一介の武術というよりは、戦闘集団をどのように配置するかという方向に思考が行くのです。

そこで、不幸にも剣心は刺客の役目を担うことになるのです。剣心には不幸なことですが、当時の彼はそれしか生きる道はなかったのではないでしょうか。

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高杉晋作が維新の先駆けと言われる転機はどうして生まれたか

高杉晋作の人生をたどっていくと、その人となりの主張は別として、大きな人生の転機を迎えるポイントがあります。

文久3年(1863年)6月、奇兵隊の結成

この部隊は今までのような武士階級から成る部隊ではなく、志があれば出身階級を問わないもので、この時代にあっては相当ユニークなものであった。

藩としても今までの戦力部隊では役に立たないということを実感したようですし、そもそも戦力不足もあったことなのでしょう。

また、庶民からもその直前の下関戦争の戦いの結果からそれなりの危機感を持っていたかもしれません。同じように戦った薩英戦争に比べても見劣りしていますから。

部隊の教育とか編成の仕方については松下村塾の吉田松陰の「西洋歩兵論」の影響があると指摘されています。

今までのやり方とは異なり合理的な手法をとったとされています。そのうえ、後にはイギリスを通じて大量の武器を調達していますから、成果も上がってことでしょう。

元治元年(1864年)12月、長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵

前の、奇兵隊の創設も高杉晋作の発案ですが、藩としての政策として認められたものです。でも今度は違います。これは簡単に言えば毛利藩内のクーデターです。

当時の長州藩内は禁門の変の失敗などを通じて、幕府に敵対するいわゆる正義派を排除する動きが出てきています。そして体制は徐々に幕府融和型に移行してきたときとされています。

その時に合わせて、これまでの動きを止めるべく挙兵したものがこれです。

当初は80名程度の参加者に過ぎなかったものが、膨らんでいき、何度かの戦いの後に、僅か2ヵ月で藩内を掌握したとしております。

それにしても驚くのは、どうしてこのようなクーデターが成功するのかです。体制派がよっぽど堕落しているか、藩の兵力がよほど貧弱なのか理解に苦しむところです。

更に見ていくとこの当時の藩主の意見が出てこないのです。

水戸藩のように意見が出すぎるのも問題ですが、毛利藩のように全く体制に流される感じで藩主が乗っかっているのも逆の意味では問題だったのでしょう。

そこに、彼のような風雲児がつけ込むチャンスがあったのでしょう。

いずれにしろ、これによって体制が決して、藩内がまとまることになってしまいます。これが第二次長州征伐に勝利する原動力となります。

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維新の先駆けとなった高杉晋作の逸話、エピソード

高杉晋作もいろいろな逸話が残っていますが、そのいくつかをご紹介します。

都々逸

都々逸が好きで、いつも組み立て式の三味線を持ち歩いていたといわれています。

代表作としては、

「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」これに節をつけて歌うのだそうです。

漢詩

高杉晋作もこの当時の人ですので、かなり漢詩を作っています。クーデターの決起の直後に作った詩です。決意のほどがうかがわれます。

売国囚君無不至  ●●○○ ○●●

捨生取義是斯辰  ●○●● ●○真

天祥高節成功略  ○○○● ○〇●

欲学二人作一人  ●●●○ ●●真

国を売り君を囚(とら)え至らざるなし(国を売って、主君を捉えて、権力をむさぼっている保守派を非難しております。)

生を捨て義を取るはこれこの辰(あした)(命を捨てて正義をとるのはまさにこの時)

天祥の高節成功の略(南宋の将軍文天祥の気高き節度と、明の鄭成功の策略)

二人を学んで一人と作(な)らんと欲す(これらの二人から学んで、一人で実行しなければならない。)

詩の横の〇は平字、●は仄字、真は韻字です。漢詩の規則としては若干問題がありますが、そのまま味わっておきましょう。

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維新の先駆けとなった高杉晋作の人生のまとめ

維新の先駆けとなった高杉晋作の人生とエピソードをまとめてみました。晋作は生まれたときから、気が強くて、人に影響を受けることがほとんどなかったといいます。

上士の跡取り息子ですし、あまり人から言われることもなかったかも知れませんし、実際は学問もできたようですが、ほとんど人の意見を聞かなかったようで、かなり持て余した少年だったようです。

松下村塾に入ってからは、そこのところを吉田松陰が良く指導して、個性を発揮できるようにしたようです。そういう意味では命の恩人なのかもしれません。

それからは自由自在に生きていった二十数年間でした。

あまり出てきませんでしたが、るろう人剣心でもその天真爛漫さが良く描かれていました。

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